第51話 微笑む貴婦人たち
その“初仕事”の余韻が完全に消えぬうちに、次の試練はやって来た。
今度の相手は、同年代の令嬢たちではない。
年長の貴婦人たちだった。
王宮の午後の茶会。
招待される顔ぶれは、どの家も位が高く、表面上は皆やわらかく微笑む。
だが、若い令嬢同士の牽制とは比べものにならぬ種類の圧があった。
クラウディアは出がけに言った。
「今日は“歓迎”されるわ」
その言い方に、アリアは少しだけ眉を寄せる。
「歓迎、ですか」
「ええ。表向きはね」
母は淡々と続けた。
「微笑みながら値踏みされる場よ。気に入られれば良し。けれど、少しでも脆さを見せれば、“やはりまだ若い”と切られる」
容赦のない説明だった。
だが、これもまた必要な現実なのだろう。
会場は王宮の奥にある、比較的小さなサロンだった。壁には穏やかな色の織物がかかり、花も香りも上品に抑えられている。けれど、その上品さがかえって居心地を悪くする。若い娘たちのきらびやかな嫉妬ではなく、長年社交界を生きてきた女たちの視線がそこにはあるからだ。
「ルーヴェルト嬢」
最初に声をかけてきたのは、笑みの綺麗な侯爵夫人だった。
「先日のご活躍、お聞きしておりますわ。とても落ち着いていらしたとか」
「恐れ入ります」
「まあ、恐れ入る必要などございませんわ。若いのに堂々としていて、本当に立派ですこと」
柔らかい。
だが、それだけではない。
“若いのに”
その一言だけで、線を引いている。
若い。まだ未熟。だから立派。
褒めているようでいて、ちゃんと“上から見ている”のだ。
アリアは礼だけを崩さず返す。
「過分なお言葉です」
そこへ別の公爵夫人が会話へ入ってくる。
「でも、堂々としすぎるのも考えものですわよね。王宮では可愛げも必要ですもの」
笑いを含んだ、いかにも軽い言い方。
だがそれは明確な探りでもあった。
冷たく見える。近寄りがたい。可愛げがない。
かつて自分が悪役令嬢として使われた言葉が、今度はもっと上品な形で差し出されてくる。
アリアは一瞬だけ胸の奥が冷えるのを感じた。
やはりここでも、過去の傷は別の角度からなぞられる。
「私、可愛げがあると申し上げたことはございません」
静かにそう返すと、公爵夫人たちの目がわずかに細くなる。
「まあ」
「ずいぶん正直なのね」
「でも、それでは少々損をなさるでしょう?」
損。
そこまで言うあたりが、年長の女たちらしい。
感情論ではなく、損得の言葉で刺してくる。
アリアは小さく息を整えた。
「損をしたことは、たしかにございます」
過去形で言う。
「でも、だからといって、今さら私を作り替えることもできませんので」
サロンの空気が一瞬だけ静まった。
露骨な反発ではない。
けれど、流されもしない。
その返答が、少なくとも“ただ飲み込まれる若い娘”ではないことを示したのだろう。
茶会の半ば、ようやく少し離れた席へ移ったところで、アリアは長く息を吐いた。
「思った以上です」
思わず漏れたその一言に、すぐ横へ座ったクラウディアが小さく頷く。
「でしょうね」
「若い令嬢たちとは、全然違います」
「ええ。あの方たちは、あなたを憎むというより、“王宮へ置く価値があるのか”を見ているの」
価値。
その言葉の冷たさに、アリアは唇を結ぶ。
悪役令嬢として断じられた時は、感情の波に呑まれた。
今は違う。
もっと冷静に、もっと静かに、価値を測られている。
「一人だけ、明確に冷たかったわね」
クラウディアがふいに言う。
「……ええ」
アリアにも分かっていた。
最も上品に微笑みながら、最もはっきり“認めていない”と示していたのは、ヴァルモン公爵夫人だった。王宮内でも影響力の大きい女で、夫は政務に深く関わる重臣だ。
彼女は最初の挨拶こそ完璧だった。
だが、その後の一言一言に明確な温度差があった。
“噂の中心になった経験は、若い方には堪えましょうね”
“でも、それを糧にできるなら立派ですわ”
“王宮の隣は、ただ愛されるだけでは務まりませんもの”
どれも正論だ。
正論だからこそ厄介だった。
表向きには一切の無礼がなく、それでいて“あなたはまだ疑問符付きです”と示されている。
茶会を終えた帰りの馬車で、アリアは窓の外を見ながらしばらく黙っていた。
疲れた。
ただ、それだけがまず大きかった。
社交界の若い令嬢たちの嫉妬や牽制は、まだ分かりやすい。
けれど年長の貴婦人たちは違う。
微笑みながら値踏みし、褒めながら切り、正論の形で圧をかけてくる。
あれが、王宮の“大人の女たち”なのだろう。
屋敷へ戻ってしばらくした頃、ユリウスから短い伝言が届いた。
『殿下がお呼びです。無理なら明日でも構いません』
その一文を見て、アリアはほんの少し迷った。
疲れている。
今日は何も話したくない気もする。
けれど結局、行くことにした。
無理なら明日でも、と書かれているからこそ、今日のうちに行きたいと思ったのだ。
小会議室へ入ると、レオンハルトは机の前ではなく、窓際に立っていた。
夕方の光が少しだけ傾き、室内には静かな影が落ちている。
「来たか」
「はい」
「茶会はどうだった」
余計な前置きはない。
いつも通り、必要なところへまっすぐ来る。
アリアは少しだけ迷ってから、正直に言った。
「思っていた以上に、疲れました」
レオンハルトは何も言わず、そのまま続きを待つ。
「若い令嬢たちの牽制は分かりやすいのです。でも、今日は……全部正しいことを言われているようで、その実、ずっと試されている感じがして」
「そうだろうな」
「ヴァルモン公爵夫人は、私を快く思っていらっしゃいません」
「知っている」
即答だった。
アリアは少しだけ目を瞬く。
「ご存じだったのですか」
「分かりやすい人ではないが、分からぬほどでもない」
それなら最初から言ってほしかった、と少しだけ思う。
だが言われていたら、余計に身構えていただろう。
「……逃げませんでした」
ぽつりとそう言うと、レオンハルトの目が少しだけやわらぐ。
「それでいい」
「でも、かなり疲れました」
「だろうな」
簡単な返答なのに、その“だろうな”がやけに沁みる。
ただ分かっていると言われるだけで、どうしてこんなに救われるのだろう。
「まだ王宮の空気には慣れていないのです」
アリアは正直に続けた。
「社交界の令嬢たちとは違う圧があって……一言ごとに、立つ価値があるのかを測られているようで」
「測られている」
レオンハルトはきっぱりと言う。
「君の錯覚ではない」
その容赦のなさに、アリアは少しだけ苦笑した。
「慰めてくださる気はないのですね」
「嘘を言っても仕方がない」
「ええ、そうですね」
「だが」
そこで彼は少しだけ声を落とした。
「君は今日、逃げなかった」
アリアは顔を上げる。
「そこが大事だ」
その言葉に、疲れて固まっていた何かが、ゆっくりとほどけていく。
完璧ではなかった。
緊張もした。
息も詰まった。
それでも逃げなかった。
その一点だけを、彼は見ている。
「ヴァルモン公爵夫人は、しばらく厄介だろう」
レオンハルトは静かに続けた。
「君が傷を抱えたまま立つことを、評価する側ではない」
「そうでしょうね」
「だからこそ、必要以上に媚びるな」
その一言に、アリアは目を瞬いた。
「媚びる?」
「認めさせようとして、自分を曲げるなという意味だ」
胸の奥に、ひやりとしたものが落ちる。
たしかに、自分の中にそういう誘惑はあったかもしれない。
可愛げが足りないなら、少し柔らかく見せた方がいいのか。
もっと愛想よく笑うべきか。
そうやって、自分を作り替えてしまいたくなる瞬間が。
「……はい」
「君は君のままで十分だ」
あまりにも真っ直ぐにそう言われて、アリアは一瞬言葉を失った。
悪役令嬢と呼ばれた時、自分の“冷たく見えるところ”は欠点だと思った。
婚約者として切り捨てられた時も、もっと可愛げがあれば違ったのだろうかと考えた。
けれど今、この人は言う。
君のままで十分だ、と。
それは、今日一日の疲れを全部ひっくるめて、静かに救う言葉だった。
「……ありがとうございます」
アリアがそう言うと、レオンハルトは小さく頷いた。
「疲れているなら、今日はもう戻れ」
「はい」
その通りにするべきだろう。
それでも部屋を出る前に、アリアは一度だけ振り返った。
「殿下」
「何だ」
「今日は、少しだけ」
そこまで言って、少し迷う。
弱音を吐くのは、まだ少し怖い。
けれど、この人の前なら言ってもいいかもしれないと思ってしまう。
「……少しだけ、落ち込みました」
言ってしまったあと、頬が少し熱くなる。
レオンハルトは一瞬だけ黙り、それから低く言った。
「それでいい」
「え?」
「落ち込まない方が不自然だ」
その返しに、アリアは思わず少し笑ってしまう。
強くあれとも、平気な顔をしろとも言わない。
落ち込んでいい、と言う。
それが今の自分には、何よりやさしく感じられた。
微笑む貴婦人たち。
値踏みの視線。
王宮の“大人の圧”。
その重さを初めて知った一日だった。
けれど同時に、自分が弱音を吐ける場所が、少しずつはっきりしてきた一日でもあった。




