第53話 弱音を吐ける場所
弱音を吐きたければ、今のうちに吐け。
その言葉は、アリアの中でしばらく意味を持たずに漂っていた。
弱音。
そんなものを、自分が人前で、しかもこの人へ向けて吐けるだろうか。
悪役令嬢の汚名を着せられた時でさえ、最初はまともに泣けなかった。
婚約を切られた時も、痛みを言葉にするより先に、立っていなければと思った。
そんな自分にとって、弱音はいつも“吐く前に飲み込むもの”だった。
だから、すぐには何も言えない。
廊下の窓から入る午後の光が、二人の間に静かに落ちている。
王宮の奥の回廊は静かで、遠くで女官たちの足音が小さく響くばかりだ。
レオンハルトは急かさなかった。
ただ待っている。
その“待つ”という姿勢そのものが、アリアにとっては大きかった。
「……少しだけ」
ようやく声にすると、自分でも驚くほど小さな音だった。
「少しだけ、ではないかもしれません」
レオンハルトが視線を向ける。
それでも、何も言わない。
だから、続けられる。
「今日のあの場は……正直に申し上げますと、とても疲れました」
「そうだろうな」
「皆様、笑っていらっしゃるのに、ずっとどこかで切られているようで」
言葉にするごとに、自分の中の重みが少しずつ形になる。
「若い令嬢たちに嫉妬されるのは、まだ分かります。ですが、今日は違いました。私は、好かれたいわけでも媚びたいわけでもないのに、それでも“認められなければいけない”ような気がして……」
そこで初めて、アリアは自分が何に疲れていたのかを理解した。
認められたいのではない。
だが、認められぬままでは、次の場に立つたびまた同じように測られる。
その終わりのなさが、重いのだ。
「……怖いのです」
その言葉が出た瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどけた。
「また何か足りないと言われるのではないかとか。傷のある令嬢はやはり駄目だと思われるのではないかとか。そういうことばかり考えてしまいます」
情けない、と一瞬思う。
せっかく自分の足で立つと決めたのに。
それでも、言わずにはいられなかった。
レオンハルトはそれを最後まで黙って聞き、やがて低く言った。
「当然だ」
その一言に、アリアは少しだけ目を上げる。
「当然、ですか」
「君はいま、社交界の噂の中心から、王宮の目の中心へ移ろうとしている」
淡々とした声。
「疲れない方が不自然だ」
その返答は、慰めではない。
だが、慰めよりもずっと救いがあった。
平気でいられないのは弱いからではない。
むしろ当然だと、この人は言う。
「私は」
アリアは少し迷い、それでも言葉を続ける。
「強くありたいのです」
「そうだろうな」
「でも、強い人になりたいのと、平気なふりをするのは違いますよね」
その問いは、自分自身への確認でもあった。
レオンハルトはごく小さく頷く。
「違う」
短い。
だが、確かな肯定。
「君は一人で立てとは言った」
その声が少しだけ低くなる。
「だが、一人で耐えろとは言っていない」
胸の奥が、じんと熱を持つ。
一人で立て。
自分の意志で選べ。
そうやって前へ押し出してくる人だと思っていた。
でも違う。
押し出すだけではない。
そこに立つために、どこで力を抜いていいかも教えてくれる。
「……ずるいお言葉です」
思わずそう漏らすと、レオンハルトの目がわずかに細くなった。
「何がだ」
「今のようなことを、何でもないようにおっしゃるから」
そう返すと、彼はほんの一拍だけ黙った。
「何でもないわけではない」
その返答に、アリアは息を呑んだ。
「君が潰れると困る」
「それは、役目の上で……?」
わずかに意地悪な問いだった。
だが聞きたかった。
レオンハルトはすぐには答えない。
その沈黙だけで、胸が少し騒ぐ。
「役目だけなら、ここまで気にしない」
ようやく返ってきたのは、そんな言葉だった。
役目だけなら。
それはつまり、今この瞬間もまた、義務だけではない何かが含まれているということだ。
アリアは視線を伏せる。
嬉しい。
ひどく。
そして、その嬉しさを自覚するたび、もう引き返せないのだと分かる。
「……弱音を吐いて、少しだけ楽になりました」
小さくそう言うと、レオンハルトは当たり前のように答えた。
「ならよかった」
「殿下は、こういう時も淡々としていらっしゃるのですね」
「泣きそうな顔をしている相手に、私まで慌てても仕方がない」
その返しに、アリアは思わず目を見開く。
「泣きそうに、見えますか」
「見える」
即答だった。
あまりに迷いなく言われて、少しだけ頬が熱くなる。
「……本当に、よくご覧になっているのですね」
「そうだな」
その一言が、なぜか妙に甘く聞こえた。
王宮の女たちの視線は冷たい。
社交界の目は計算高い。
誰もが立場と価値を測ってくる。
けれどその中で、たった一人、この人だけは“今の自分”を見てくれている。
そこが違う。
その違いが、自分をこんなにも救うのだ。
「今夜は、もう何も考えるな」
レオンハルトが言う。
「難しいお願いですね」
「難しくてもそうしろ」
また命令口調。
でも、その強さが今はありがたい。
「代わりに、明日また立て」
「はい」
「今日の疲れを、明日まで引きずりすぎるな」
「努力いたします」
アリアがそう返すと、レオンハルトの口元がかすかに緩んだ。
ほんのわずかな変化。
けれど、それが見えただけで、胸の重さが少し軽くなる。
弱音を吐ける場所。
それは今のアリアにとって、何より大きな意味を持ち始めていた。
守られるだけではない。
甘やかされるだけでもない。
それでも、ちゃんと立てるように息をつける場所がある。
悪役令嬢にされた頃の自分には、そんな場所がある未来など想像もできなかった。
回廊の窓の外では、夕方のやわらかな光が庭の木々を照らしている。
その光の中で、アリアはようやく自分の肩から力が抜けるのを感じていた。




