第5話 学園中に広がる悪評
翌朝、目を覚ました瞬間から、胸の奥には鈍い重みがあった。
まだ薄く朝靄の残る窓の外では、小鳥がさえずり、庭師たちが整えた薔薇の庭にやわらかな光が差し込んでいる。ルーヴェルト公爵家の朝はいつだって整然としていて、静かで、そして美しい。銀のポットから注がれる紅茶の香りも、磨き込まれた食器も、侍女たちの無駄のない所作も、何ひとつ変わらない。
けれど、アリア・フォン・ルーヴェルトの内側だけが、昨日までとは決定的に違っていた。
婚約者は自分を信じなかった。
その事実は、一晩眠ったからといって薄まるようなものではない。むしろ、静かな寝室で一人になった時間の分だけ、言葉の一つひとつが心の中で反芻され、傷として深く沈んでいった。
人の気持ちを考えるべきだ。
次に同じことがあれば、公にはっきりさせる。
それらは忠告の形をしていたが、アリアにはどうしても「お前はもう疑われている」と言われたようにしか思えなかった。
「お嬢様、朝食のご用意が整っております」
侍女のリナが静かに声をかける。
「ええ、すぐに行くわ」
鏡台の前で整えた髪も、制服の襟元も、今日も隙なく整っている。顔色が少し悪いのは自分でも分かったが、だからといって休むわけにはいかなかった。
休めば逃げたと思われる。
休まなくても視線に晒される。
どちらにしても苦しいのなら、まだ前者より後者の方がましだった。
食堂へ入ると、すでに父は執務の都合で席を立ったあとらしく、長い食卓の上座には母クラウディアだけが座っていた。薄青の朝のドレスを纏った公爵夫人は、いつも通り端正で隙がない。紅茶のカップを置く指先ひとつまで美しい人だ。
アリアが席に着くと、母はすぐに娘の顔色を見た。
「眠れなかったのね」
問いではなく、確認だった。
「……少しだけ」
「少し、ではないでしょう」
クラウディアはそれ以上責めるでも慰めるでもなく、目の前の皿を一瞥した。
「食べなさい。こういう時こそ」
その声音には、母なりの気遣いがあった。
アリアは静かにうなずき、ナイフとフォークを手に取った。けれど、喉を通るものは少なかった。味がしないわけではない。ただ、今の自分にはそれを味わう余裕がない。
しばらく沈黙のまま食事が進んだのち、母が口を開いた。
「昨日の件は、ある程度こちらにも報告が上がっているわ」
アリアの指先がわずかに止まる。
「学園から?」
「ええ。教師の方から、筆跡の似た手紙があなたの机から見つかったこと、第二王子殿下がご懸念を示しておられること、そして学園内で平民出身の生徒に関する噂が広がっていること」
客観的に並べられた言葉は、それだけでひどく冷たかった。
アリアはナイフを置いた。
「お母様も、私を疑っておられますか」
思っていたよりもまっすぐな声が出た。
クラウディアは一瞬だけ目を細め、それから静かに首を横に振った。
「いいえ。あなたが自分の手を汚すとは思っていません」
その一言に、胸の奥の強張りが少しだけほどける。
けれど、母はそこで終わらなかった。
「ただし、あなたが誤解を招きやすいことも事実です」
やはり、と思う。
信じることと、庇いきることは別だ。公爵夫人である母は、感情だけで物を言わない。
「お前は幼い頃から、出来すぎるほど出来る子だったわ。けれどその分、人はあなたを勝手に恐れ、勝手に妬む。そういう視線に鈍感でいては、生き残れません」
「……はい」
「今あなたに必要なのは、潔白を叫ぶことではなく、隙を見せないことよ。泣き言も、癇癪も、どちらも駄目。今は耐えなさい」
それは慰めではなく、命令に近い言葉だった。
だがアリアには、それが母なりの必死な守り方だと分かった。公爵家として動けば、王家との関係にひびが入る。だからこそ、軽率な庇護はできない。できるのは娘が崩れないよう支えることだけ。
母はしばしアリアを見つめ、それから少しだけ柔らかな声で言った。
「……あなたを信じていないわけではないのよ」
その一言があるだけで、救われる部分もあった。
アリアは小さくうなずき、再び食事へ視線を戻した。
「ありがとうございます、お母様」
「礼はいりません。代わりに、今日も胸を張って学園へ行きなさい。ルーヴェルトの娘がうつむいていては、相手の思うつぼです」
「はい」
答えながら、アリアは胸の奥に小さな支えが生まれるのを感じていた。
信じてもらえない人もいる。だが、信じてくれる人がいないわけではない。
それだけで、今日一日を耐える理由にはなった。
馬車が王立学園へ近づくにつれ、アリアの胸はまた重くなっていく。
正門前にはいつも通り多くの馬車が並び、貴族子弟たちが談笑しながら降り立っていた。けれど、ルーヴェルト家の馬車が止まった瞬間、周囲の空気がわずかに変わるのが分かった。
視線。
昨日よりもはっきりとした、好奇と警戒の混じった視線。
「……始まったわね」
小さく呟き、アリアは馬車を降りた。
リナが心配そうに見たが、何も言わない。その沈黙がありがたかった。
校舎へ向かう道すがら、囁きが耳に入る。
「やっぱり来たのね」
「休むかと思った」
「さすがというべきかしら」
「でも、あの顔……少しも反省していないみたい」
「反省、って……まだ決まったわけじゃ」
「でも、火のないところに煙は立たないでしょう?」
火のないところに煙は立たない。
なんて無責任で便利な言葉だろう、とアリアは思う。
誰かが火種を持ち込んだのかもしれないのに、煙が見えた時点で人は「やはりどこかに火があったのだ」と結論づける。
廊下へ入ると、さらに空気は露骨だった。昨日はまだ探るような視線も多かったが、今日はもう「知っている者」の目だ。噂は一晩で学園中へ広がったらしい。
同じ学年だけではない。下級生たちまで、アリアの姿を見るとひそひそと顔を寄せ合う。
「ルーヴェルト様だ……」
「平民の子をいじめたって」
「でも、第二王子殿下まで関わっているんでしょう?」
「怖い……」
怖い。
その言葉が、ひどく胸に刺さる。
何もしていないのに、自分はもう“恐れるべき存在”として語られているのだ。
アリアは顔を上げ、足を止めずに歩いた。立ち止まれば、負ける気がした。
教室へ入ると、ざわめきは一瞬だけ止まり、すぐに低い波のように再開した。昨日まで挨拶を返してくれた相手が、今日は目を逸らす。たまに会釈だけ返す者もいるが、どこか距離がある。
席に着くと、エレノアがいつもより少し早い足取りで近づいてきた。
「おはようございます、アリア様」
「おはよう」
短いやり取りのあと、エレノアは周囲を見回し、声を潜めた。
「予想していた以上ですわね」
「ええ」
「朝から、別学年の友人にまで聞かれましたわ。“本当なの?”って」
「あなたは何と答えたの」
「もちろん、そんなわけありません、と」
即答だった。
その真っ直ぐさに、アリアはほんの少しだけ救われる。
「ありがとう」
「礼なんて要りません。むしろ、わたくし今とても腹が立っておりますの」
「珍しいわね」
「珍しくもなりますわ。まだ何も明らかになっていないのに、皆さん好き勝手すぎます」
エレノアはそう言って頬を膨らませたが、そのすぐあとで、表情を曇らせる。
「……ただ、こうも広がるのが早いと、誰かが意図的に話を回している可能性もあります」
「私もそう思う」
「ミレイユさん本人か、その周囲か、あるいは第三者か……いずれにしても、普通ではありません」
普通ではない。
その感覚を、自分一人の思い込みではないと言ってくれる人がいるだけで、少し呼吸が楽になる。
だが、楽になったのはほんの一瞬だけだった。
教室の前方がざわつき、ミレイユが入ってくる。
彼女は昨日以上に顔色が悪かった。淡い色の頬は青白く、目元にはうっすらと疲れが見える。教本を抱える指先も落ち着きなく震えていた。
その姿に、すぐ何人もの生徒が駆け寄る。
「ミレイユさん、大丈夫?」
「顔色がひどいわ」
「無理しなくても……」
ミレイユは困ったように首を振る。
「わ、私なんかより、皆様にご迷惑をおかけしてしまって……」
その控えめな言い方が、周囲の庇護欲をさらに煽る。
アリアはただ見ていた。
見ているしかない。
下手に近づけば「何をする気だ」と警戒される。近づかなければ「やはり冷たい」と言われる。どちらを選んでも、自分に有利にはならない。
不意に、ミレイユの視線がこちらへ向いた。
目が合った瞬間、彼女はびくりと肩を震わせ、慌てて顔を伏せた。
その動きだけで、周囲の空気がまた張る。
アリアの指先が机の下でわずかに震えた。
――そこまで、私が怖い?
怒りではなく、ほとんど虚しさに近い感情だった。
一時間目が始まるまでの間、教室の空気はずっとそのままだった。教師が入ってきてようやくざわめきが抑えられるが、視線までは消えない。板書を写している最中でさえ、何人かがちらちらとアリアを見るのが分かった。
授業中、後ろの席から小さな紙片が回される気配がした。普段なら気にも留めないが、今日は妙に耳につく。笑いを噛み殺すような息も、ひそやかな囁きも、全部自分のことのように思えてくる。
そのうち、教師に指名されたある男子生徒が答えに詰まり、周囲が小さく笑う場面があった。いつもなら何でもない光景のはずなのに、今日はその笑い声にさえ、自分への嘲りが混ざっているように聞こえた。
被害妄想かもしれない。
けれど、昨日と今日で世界がこれほど変わってしまった以上、そう感じるのも無理はなかった。
二時間目と三時間目のあいだの短い休み時間、アリアは席を立って廊下へ出た。
少しでも人の少ない空気を吸いたかった。
だが、廊下へ出ても状況は大差なかった。すれ違う生徒たちが会話を止めたり、逆にこちらへ聞こえるように声を潜めたりする。下級生の女子が二人、明らかに怯えた目で脇へ寄ったのを見たとき、アリアは胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
自分はいつから、こんなふうに扱われる存在になったのだろう。
「アリア様」
後ろからエレノアが追いついてきた。
「大丈夫ですの?」
「大丈夫ではないけれど、倒れるほどでもないわ」
「そういう返答が一番心配です」
エレノアはきっぱりと言い、アリアの横に並ぶ。
「昼食はご一緒しましょう。今日は食堂ではなく、サロンに」
「また噂されるわよ」
「すでに噂されております。今さら変わりませんわ」
そう言って鼻を鳴らす友人の強さに、アリアはわずかに頬を緩めた。
休み時間が終わり、昼になる。
二人は予定通り令嬢用サロンへ向かった。普段なら食堂で多くの令嬢たちと顔を合わせることもあるが、今日はとてもそんな気分ではない。だがサロンへ入ってみると、そこにいた数人の令嬢たちも、アリアの姿を見た途端に微妙な沈黙を作った。
完全な敵意ではない。
けれど、以前のような自然な空気ではなくなっている。
アリアは何も言わず、窓際の席へ腰を下ろした。
エレノアが少し強めの口調で給仕に昼食を頼む。彼女なりに、これ以上妙な空気を作らせないための振る舞いなのだろう。
しばらくして運ばれてきた軽食に、アリアはほとんど手をつけられなかった。
「少しは召し上がってください」
エレノアが心配そうに言う。
「……食べる気になれなくて」
「それではもちませんわ」
「分かっているのだけれど」
分かっている。分かっているのに、喉が拒む。
視界の端で、サロンの別の席にいた令嬢たちがそっと立ち上がり、何となく距離を取るように移動した。その動きに悪意があったかどうかは分からない。だが、今のアリアにはそれだけで十分すぎるほど堪えた。
自分は、もうここでも避けられるのだ。
「……家でも、学園でも同じなのね」
ぽつりと漏れた呟きに、エレノアが顔を上げる。
「え?」
「いいえ、何でもないわ」
ごまかしたが、本心だった。
家では母が信じてくれている。それでも、公爵家としては露骨に庇えない。学園ではエレノアが傍にいてくれる。それでも、周囲の大勢はもう距離を置き始めている。
安らげる場所が、どこにもない。
そう気づいた瞬間、アリアは初めて、この状況の本当の恐ろしさを理解した。
陰謀そのものより、じわじわと居場所を削られていくことの方がずっと怖い。
昼休みが終わる頃には、アリアは疲れ切っていた。
午後の授業でも、教師の声は上滑りして聞こえ、周囲の視線はますます棘を帯びて感じられる。何人かはもう隠しもしない。アリアがページをめくるたび、椅子を引くたび、ちょっとした動きにまで敏感に反応しているようだった。
放課後、ようやく授業が終わる。
ほとんどの生徒が逃げるように教室を後にする中、アリアは静かに荷物をまとめた。立ち上がると、背後の席の女子生徒が無意識に一歩退いた。そのことに気づいた瞬間、アリアの心はまた少しだけ削られる。
エレノアがそれを見て、ぎゅっと唇を引き結んだ。
「……許せませんわね」
「いいの。怖いと思う人に、怖くないと言わせることはできないもの」
「でも!」
「本当に怖いなら、まだ仕方ないわ。でもたぶん、皆が怖がっているのは私ではなく、噂そのものよ」
誰かを恐れる空気に逆らうのは勇気がいる。だから人は、深く考えないまま距離を置く。自分だって、逆の立場ならどうだろうと一瞬考えて、嫌になる。
教室を出て馬車寄せへ向かう途中、アリアはふと中庭へ目を向けた。
そこに、セドリックとミレイユの姿があった。
セドリックはミレイユに何か穏やかに話しかけている。ミレイユは不安げにうなずき、少しだけ安心したように微笑んだ。
その光景は遠目にも、ひどく絵になっていた。
傷ついた少女を支える優しい王子。
その対極にいる冷たい婚約者。
誰が見ても、どちらが“正しい役”か分かりやすい構図だった。
アリアはほんの一瞬だけ立ち止まり、それから何も言わず視線を外した。
見てはいけないものを見た気がした。
「アリア様?」
エレノアが心配そうに呼ぶ。
「……帰りましょう」
それだけ言って歩き出す。
夕暮れの光は昨日と同じように優しかった。空は淡い茜色に染まり、噴水の水は金色にきらめいている。世界は何も変わっていないように見えるのに、自分だけが確実にどこかへ追いやられている。
馬車へ乗り込んだあと、ようやく一人になった空間で、アリアは小さく息を吐いた。
耐えなければ。
母はそう言った。
胸を張っていなければ。
うつむいてはならない。
分かっている。分かっているけれど、今日一日だけで、自分の足元からどれだけ多くのものが失われたかを思うと、どうしても心が追いつかない。
友人たちの距離。
教師たちの慎重な目。
下級生たちの怯え。
婚約者の信頼。
昨日まで自分の周囲にあった当たり前のものが、ひとつずつ砂のようにこぼれていく。
アリアは膝の上で手を握りしめた。
泣きたくない。泣いてはいけない。
けれど、胸の奥では確かに何かが軋んでいる。
それでも、今日一日を終えた自分は少しだけ知っていた。
ただ傷ついているだけでは駄目なのだ。
このままでは、本当に“悪役令嬢”という役を押しつけられて終わる。
だから、耐える。
そして、探る。
自分を陥れた誰かがいるなら、必ず見つけ出す。
そう思わなければ、この息苦しさに押し潰されてしまいそうだった。
馬車の窓の外で、学園の尖塔が遠ざかっていく。
その姿を見つめながら、アリアは静かに目を閉じた。
安らげる場所はまだない。
けれど、失ったままで終わるつもりもなかった。
その小さな意地だけが、今の彼女をかろうじて支えていた。




