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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第4話 婚約者は私を信じない

午後の授業は、内容がひとつも頭に入らなかった。


 黒板へ走る教師の白墨の音も、ページをめくる乾いた音も、どこか遠くで鳴っているように感じられる。アリア・フォン・ルーヴェルトは姿勢だけは崩さず席についていたが、意識の大半は、昼に机から見つかったあの手紙と、そこへ向けられた無数の視線に引きずられていた。


 時折、教室の前方に座るミレイユ・ローゼンが肩を震わせるたび、周囲の空気がわずかに緊張するのが分かる。誰も露骨には振り返らないが、皆が気にしている。


 そして、その「気にしている」という事実そのものが、もうひとつの証拠になっていく。


 この場にいる誰も、まだアリアを断罪してはいない。だが、誰も彼女を信じるとも言わない。その曖昧さが、何よりも苦しかった。


 授業が終わるたび、ざわめきは小さく波打ち、次の授業が始まると一度鎮まる。そうして何度も同じことが繰り返されるうちに、アリアの胸の内側には、静かな疲弊が少しずつ積もっていった。


 最終授業を告げる鐘が鳴ったとき、教室には目に見えない安堵が満ちた。生徒たちは皆、一斉に息をつき、荷物をまとめ始める。


 その中で、教師がアリアへ視線を向けた。


「ルーヴェルト様。少し、お時間をいただけますか」


「はい」


 アリアはすぐに立ち上がった。教室内の空気がまた微妙に変わるのを感じる。話題の中心人物が呼び止められる。それだけで、周囲は勝手に意味を見出す。


 教師は気遣うような顔をしたが、その奥にはやはり距離があった。


「手紙については、学園側でも確認を進めます。軽率な結論は出しません。ただ……」


 そこで言葉を切り、少し言いづらそうに続ける。


「第二王子殿下が、あなたとお話ししたいと」


 胸の奥が、嫌な冷たさで満たされた。


 セドリックが。


 この話のあとで、自分と。


「どちらに伺えばよろしいのでしょう」


「中庭に面した東棟の回廊です。今は人も少ないでしょうから」


 教師はそう答えた。きっと本当に「落ち着いて話し合う場」を用意したつもりなのだろう。だが、その配慮が今のアリアには重たかった。


「承知しました」


 必要以上のことは言わず、アリアは一礼した。


 教室を出ると、エレノアが急いで追ってくる。


「アリア様、まさかお一人で行くおつもりですの?」


「ええ」


「でも……」


「大丈夫よ」


 反射的にそう答えたが、エレノアは納得しない顔をした。


「今日の殿下は、あまりにも短絡的ですわ。わたくし、あまり良い予感がいたしません」


「私もよ」


 正直に言うと、エレノアは少しだけ驚いた顔をした。


 アリアがこうして率直に不安を口にするのは珍しい。だが今日は、平気なふりをするだけの余裕が、もうあまり残っていなかった。


「ならばなおさら、一人では」


「婚約者同士の話に、あなたを巻き込みたくないの」


「今さらですわ。もう十分巻き込まれております」


 その言葉に、思わずアリアの口元がほんの少し緩んだ。こんな状況でも、エレノアの率直さには助けられる。


「ありがとう。でも、やはり一人で行くわ」


 エレノアはしばらく渋っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……では、せめて長くなりすぎるようでしたら、わたくしが迎えに行きます」


「ええ」


 短くうなずき、アリアは東棟の回廊へ向かった。


 夕方に差しかかった陽射しが、長い窓から斜めに差し込んでいる。石造りの廊下は昼間より静かで、外の中庭からは噴水の水音と、風に揺れる葉の擦れる音だけが届いていた。


 そこに、セドリック・ヴァルディスはいた。


 窓辺に立つその横顔は美しかった。金の髪は光を受けて柔らかく輝き、整った輪郭には陰りが差している。人が見れば、思い悩む高貴な王子そのものだろう。


 だが、アリアの胸にはもう、その姿に慰められるような感情は湧かなかった。


「お待たせいたしました、殿下」


 声をかけると、セドリックは振り返った。彼は一瞬だけ何か言いづらそうに唇を結び、それから小さくため息をついた。


「来てくれてありがとう」


「お話とは何でしょう」


「……少しは、穏やかに始められないのか」


 その言い方に、アリアは胸の内でかすかな苛立ちを覚えた。


 穏やかに。


 今日一日、自分がどれだけ穏やかさを保つために神経を削ったか、この人は少しでも考えているのだろうか。


「申し訳ありません。今の私に、そのような余裕はあまりありませんので」


 アリアがそう返すと、セドリックは眉間を押さえた。


「やはり、君は最近おかしい」


「おかしい、とは」


「言葉が刺々しい。以前は、もう少し――」


「従順だった、と?」


 自分でも驚くほど鋭く返してしまった。


 セドリックの表情が曇る。


「そういう言い方をしているわけじゃない。私はただ、今日のことについて君と話したいんだ」


「でしたら、どうぞ」


 アリアは距離を置いたまま立った。婚約者同士が向き合うにはあまりにも冷たい距離だったが、今はそれでよかった。少しでも近づけば、感情が乱れそうだった。


 セドリックは窓の外へ一度視線を投げ、それから言った。


「ミレイユのことだ」


 やはり、と思う。


 自分の机から脅迫状が出てきた件についてではない。その背後にある陰謀や不自然さでもない。彼の関心の中心にあるのは、あくまで“ミレイユが怯えている”という事実だ。


「彼女は、ここ最近ずっと無理をしていたらしい」


「そう」


「平民出身というだけで肩身が狭い上に、誰かから悪意を向けられているとしたら、あまりに気の毒だ」


「そうですね」


 その返答に、セドリックがいらだったように目を細めた。


「君は、本当にそう思っているのか?」


 アリアは彼を見つめた。


「思っているわ。身分だけで理不尽な扱いを受けるのは間違っているもの」


「ならどうして、君はあんな態度を取る?」


「あんな態度?」


「冷たく突き放すような言い方だ。今日だって、彼女は明らかに怯えていた」


 その瞬間、アリアの中で何かがぴんと張った。


 何度も、何度も、同じことばかりだ。


 怯えていた。震えていた。泣いていた。だから、彼女が正しいのだと。


「殿下は、怯えて見える者だけが正しいとお考えなのですか」


 声は静かだった。


 だが、その静けさの下には、押し殺した怒りが確かにあった。


 セドリックは面食らったように一瞬目を見開いたあと、すぐに不機嫌さを隠さなくなった。


「話をすり替えないでくれ」


「すり替えているのはどちらでしょう。私は一度も、ミレイユさんを害していないと言っているのに、殿下は彼女の様子ばかりを理由に私を疑っておいでです」


「疑われるような状況が重なっている」


「それが誰かの仕組んだものだとは、お考えにならないのですか」


「では聞くが、誰が、何のためにそんなことをする?」


 鋭い問いだった。


 だが、その問い自体が無意味でもある。分からないからこそ困っているのだ。


「今は分かりません」


「分からないのに、陰謀だと?」


「少なくとも、あの手紙は私のものではありません」


「だが、君の筆跡に似ていた」


「似せたのでしょう」


「そこまでして君を陥れる理由が、今のところ見当たらない」


「……見当たらないから、私がやったと?」


 言ってしまってから、声が少しだけ震えた。


 怒りではなく、傷つきから来る震えだった。


 セドリックは一瞬だけ表情を曇らせた。だが、その揺らぎは長く続かない。


「私は、君を一方的に責めたいわけじゃない」


「そうは見えません」


「アリア」


 低く、たしなめるような声。


 それがひどく遠いもののように聞こえた。


 以前なら、この声色を聞くだけで自分を律し、感情を呑み込み、彼の言う“正しさ”に合わせようとしていたかもしれない。婚約者として、将来の王族の一員として、波風を立てないことが何より大切だと信じていたから。


 けれど今、彼の言葉は少しも自分を救ってくれない。


 むしろ、どこまでも自分を孤独にする。


「では、何をお望みですか」


 アリアは尋ねた。


「私はしていないと申し上げました。あの手紙は私のものではありません。ミレイユさんに敵意もありません。それでもなお、殿下が私に話したいことがあるのなら――結局、私に何を言わせたいのでしょう」


 セドリックは口を閉ざした。


 その沈黙が、何より雄弁だった。


 謝罪。


 あるいは、少なくとも「自分にも配慮が足りなかった」と認める言葉。


 彼はおそらく、それを期待している。自分の信じたい筋書きに、アリアの側から少しでも歩み寄る言葉を。


 だが、それは虚偽だ。


 していないことに曖昧に頭を下げた瞬間、それはやがて「やはり認めた」に変わる。


「……君は昔から、負けず嫌いだったな」


 ぽつりと、セドリックが言った。


「何でもきちんと出来て、人に弱みを見せなくて、それでいて、自分の非を認めるのがとても苦手だ」


 胸の奥を、鋭い刃で撫でられたような気がした。


 それは、婚約者だからこそ知っている自分の一面だった。幼い頃から幾度も向けられてきた評価でもある。正しいけれど冷たい。立派だけれど可愛げがない。決して泣かない、強すぎる令嬢。


 だが、その言葉が今この場で、こういう形で投げつけられるとは思わなかった。


「殿下は」


 アリアは一度だけ目を伏せ、それから顔を上げた。


「殿下は、私が“謝りさえすれば丸く収まる”とお思いですか」


「そんな単純な話じゃない」


「では、どういう話なのです」


「君は、もっと人の気持ちを考えるべきだと言っているんだ」


 その一言が、決定的だった。


 アリアの中で、何かが音もなく崩れた。


 人の気持ち。


 今日、自分の気持ちを殿下は一度でも考えただろうか。婚約者に疑われ、教室中の前で責められ、学園中から好奇の目を向けられた自分のことを。していないことを、していないと言っているだけの自分を。


 その痛みを見ようともせず、「人の気持ちを考えろ」と言うのか。


 アリアはゆっくりと息を吸い込んだ。


「……承知しました」


 思いのほか穏やかな声が出た。


 セドリックがわずかに表情を緩める。自分の言葉が届いたと思ったのかもしれない。


 だが、アリアが続けた言葉は、その期待を裏切った。


「殿下のお考えは、よく分かりました」


「アリア?」


「殿下は、私の言葉そのものより、目の前で泣く方を信じるおつもりなのですね」


「違う、私は――」


「違いません」


 初めて、アリアは彼の言葉を遮った。


 そのことにセドリック自身が驚いたようだった。アリアもまた、自分がこんなことをするとは思っていなかった。


「私は殿下にだけは、少なくとも話を聞いていただけると思っておりました」


 喉の奥が熱くなる。


 だが泣かない。ここでは絶対に。


「けれど、殿下は最初から、私が悪い可能性を前提にしてお話しなさっている。私が潔白であることを考えるのではなく、私がどの程度“悪かったのか”を量ろうとしている。そうでしょう?」


「……」


「でなければ、人の気持ちを考えろ、などという言葉は出ません」


 セドリックは何か言い返そうとして、しかし言葉を失った。


 それが答えだった。


 彼の中で、もう自分は“完全に信じるべき婚約者”ではなくなっている。


 アリアはその事実を、ようやくはっきりと受け入れた。


 受け入れた瞬間、不思議と胸の痛みは少しだけ静かになった。傷が消えたのではない。ただ、痛みの正体が分かったのだ。


 これは誤解ではなく、断絶だ。


「もう十分です」


 アリアは言った。


「本日のお話は、これで終わりにさせてください」


「待て、アリア」


「まだ何か?」


 振り返らずに問う。


 背後で、セドリックがわずかに息を詰めたのが分かった。きっと彼は今、自分が優位な立場のまま話を終えられないことに戸惑っているのだろう。


「……次に同じようなことがあれば、公にはっきりさせる必要がある」


 その声音には、忠告のような響きがあった。だが、アリアにはほとんど脅しに聞こえた。


 思わず足が止まる。


「公に、とは?」


「学園としても、王家としても、これ以上見過ごせないということだ」


 公開の場で裁く。

 人前で決着をつける。

 つまり、もしまた何かが起きれば、自分は婚約者である第二王子によって正式に断罪されるかもしれない――そういう意味だ。


 アリアはゆっくりと振り返った。


 夕方の光がセドリックの背を照らしている。その姿は変わらず美しく、正しそうで、けれどひどく遠い。


「……分かりました」


 それだけを言って、アリアは今度こそ踵を返した。


 呼び止める声はなかった。


 回廊を歩く足音だけが、石床に乾いて響く。窓の外では風が薔薇の葉を揺らし、噴水の水面が夕陽を受けて金色に光っていた。


 こんなにも美しい夕暮れの中で、自分の婚約は今、静かに壊れ始めている。


 そう思ったとき、ようやく胸の奥からひどい疲労がこみ上げてきた。


 曲がり角を曲がったところで、壁際に寄りかかるようにして立っていたエレノアが、すぐにこちらへ駆け寄ってきた。


「アリア様!」


 その声に、アリアは少しだけ目を閉じた。


「……早かったのね」


「様子を見に来たのです。殿下と何をお話しになったのですか」


「大したことではないわ」


「そのお顔で、そんなことを言われても信じられません」


 珍しく強い口調だった。


 アリアは否定しかけて、やめた。今の自分はたぶん、うまく取り繕えていない。顔色も、目元も、声も。


 エレノアがそっとアリアの手に触れる。


「冷たい……」


「少し、疲れただけ」


「殿下は、信じてくださいましたの?」


 問いかけはまっすぐだった。


 だからこそ、誤魔化すことが出来なかった。


 アリアはゆっくりと首を横に振る。


 その瞬間、エレノアの顔に浮かんだのは怒りだった。友人を傷つけられたことへの、分かりやすい怒り。


「信じて、くださらなかったのですね」


「信じたいのは、別の誰かだったみたい」


 自嘲が混じりそうになって、慌てて飲み込む。だがそれでも、声の端は少し掠れた。


 エレノアは何か言おうとして、しかし言葉を選びきれずに唇を噛んだ。


 その沈黙がありがたかった。今は下手な慰めを聞くより、怒ってくれる誰かがいることの方が救いだった。


「帰りましょう」


 アリアはそう言った。


「今日はもう、誰とも会いたくないわ」


 エレノアは静かにうなずいた。


 二人で並んで歩き出す。学園の廊下は夕暮れの色に染まり、どこもかしこも穏やかに見える。けれどその穏やかさの下で、見えないひびが着実に広がっているのを、アリアははっきり感じていた。


 婚約者は、自分を信じなかった。


 その事実は、昼間に見つかった偽の手紙よりも、はるかに深く彼女を傷つけていた。


 誰かに陥れられることより、信じてほしい人に信じてもらえないことの方が、ずっと痛い。


 そして、その痛みはきっとこれから先、自分の足元を何度も揺らすのだろう。


 学園の玄関を出たとき、春の終わりの風が頬を撫でた。


 少しだけ冷たいその風に、アリアはようやくひとつ、長い息を吐いた。


 涙は出なかった。


 けれどその代わり、胸の奥に別のものが生まれているのを感じる。


 諦めではない。まだ折れていない何か。傷ついたからこそ、これ以上踏みにじられたくないと願う、小さな意地のようなもの。


 セドリックは「次に同じことがあれば、公にはっきりさせる」と言った。


 ならば、その前に見つけなければならない。


 誰が、何のために、自分を悪役令嬢に仕立て上げようとしているのかを。


 そうしなければ、次は本当にすべてを失う。


 馬車へ向かうアリアの足取りは重かった。だがその重さの中に、わずかに別の硬さが混じっていた。


 信じてもらえないのなら、自分で立つしかない。


 その決意だけが、夕暮れの中でかろうじて彼女を支えていた。

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