第46話 逃げない令嬢
発表があるかもしれない日を翌日に控えた夜、アリアは母クラウディアの私室へ呼ばれた。
普段は必要な時しか入らない部屋だ。壁際の本棚、落ち着いた色の椅子、花の香りの薄い香油。公爵夫人の部屋らしく整っているのに、今夜は妙に静かで、どこか私的な空気が強かった。
「座りなさい」
母に促され、アリアは向かいへ腰を下ろす。
テーブルの上には紅茶が二つ。
けれど、クラウディアはそれに手をつけないまま娘を見た。
「最後に確認するわ」
静かな声音だった。
「逃げるなら、今よ」
その一言に、アリアの指先がほんの少しだけ強張る。
予想していた。
たぶん母は、どこかで必ずこれを言うだろうと。
「明日、何が発表されるにせよ、まだ戻れない段階ではないわ。あなたが本当に望まないなら、体調不良でも、家の都合でも、理由はいくらでも作れる」
クラウディアは感情を交えず、現実的にそう言った。
「周囲は騒ぐでしょう。でも、それで終わるなら、傷は今より浅い」
冷静な判断だ。
母らしい。
だからこそ、甘えで“怖いから逃げたい”とは言えない。
「……お母様は、私に逃げてほしいのですか」
問い返すと、クラウディアは少しだけ目を細めた。
「いいえ」
即答だった。
「ただ、あなたが“流されているだけ”なら、止めるべきだと思っているだけよ」
その言葉に、アリアは胸の奥が少しだけ熱くなる。
流されているだけ。
たしかに、少し前まではそうだったかもしれない。
悪役令嬢にされた時も。
皇太子の隣へ置かれた時も。
自分の足で決めたというより、大きな流れの中で必死に立っているだけだった。
けれど今は違う。
少なくとも、そこから一歩先へ行こうとしている。
「……流されているだけでは、ありません」
ゆっくりと、しかしはっきりと言う。
「本当に?」
「はい」
クラウディアは黙って娘を見る。
それは優しい母の眼差しではなく、一人の人間が本気かどうかを見極める目だった。
「私は」
アリアは息を整える。
「最初は、ただ名誉を取り戻したいだけでした。悪役令嬢のままで終わりたくない、それだけだったと思います」
母は何も言わない。
だから続けられる。
「でも今は、違います」
「どう違うの」
静かな問い。
「私は……あの方の隣に立ちたいのだと思います」
ついに、その言葉が自分の口から出た。
誰のためでもなく。
家のためでも、王家のためでもなく。
自分の意志として。
胸の奥が少し震える。
恥ずかしさもある。
けれど、それ以上に不思議なほどの静けさがあった。
「それは、“選ばれたい”ということ?」
クラウディアの問いは鋭い。
アリアは少しだけ考え、それから首を横に振った。
「それだけではありません」
「では?」
「私も、選びたいのです」
母の目が、ごくわずかに和らいだ。
「……そう」
「悪役令嬢にされた時、私は何も選べませんでした。婚約を切られた時も、ただ切り捨てられただけでした。でも今は違う。私は、自分の意思であの方の隣を考えたい」
それは、ここ最近ずっと胸の中で形を作ってきた言葉だった。
守られるだけでは嫌だ。
選ばれるだけでは足りない。
隣に立つなら、自分もまたその場所を選びたい。
「もちろん、怖いです」
アリアは続ける。
「皇太子妃候補だと言われるのも、社交界の目も、全部。傷が消えたわけでもありません」
「ええ」
「でも、それでも。……逃げたくはありません」
部屋に沈黙が落ちる。
しばらくして、クラウディアはようやく紅茶へ手を伸ばした。ひとくち飲んでから、静かに言う。
「なら、もう私から言うことはないわ」
アリアは少しだけ目を見開いた。
「お母様」
「あなたはようやく、“自分の意志で立つ”と言ったのだから」
その言葉には、厳しさよりも、どこかほっとした響きが混じっていた。
「最初からそうしてほしかったとは言わないわ。人はそんなに簡単に、自分で選ぶ側には立てないもの」
クラウディアは続ける。
「でも、ここまで来てまだ誰かの判断を待つだけなら、きっとまた同じことを繰り返したでしょうね」
アリアは黙って頷く。
その通りだ。
もし今もなお、“殿下がどうなさるか”“周囲がどう見るか”だけを基準にしていたなら、自分はまたどこかで足を滑らせていただろう。
だが今は違う。
まだ怖い。
まだ完全に自信があるわけでもない。
それでも、自分で選びたいと思っている。
「明日、何が起きても」
クラウディアは真っ直ぐ娘を見た。
「うつむかないこと」
「はい」
「自分で選ぶ者は、最後まで自分で立ちなさい」
「……はい」
その返事は、今日一番まっすぐだった。
部屋を辞して自室へ戻る途中、アリアは窓の外の夜空を見た。
雲の切れ間から、淡い月がのぞいている。
明日には何かが動く。
たぶん決定的な形で。
それでも、もう前ほど怖くない。
いや、怖いのだ。
ただ、その怖さを抱えたままでも進むと、自分で決めたから。
逃げない令嬢。
それが今の自分にふさわしい呼び名かもしれないと、アリアは静かに思った。




