第45話 社交界を揺らす発表前夜
温室での会話から数日後、王都の空気はまたひとつ、目に見えぬ熱を帯び始めていた。
それは噂というには広がりすぎ、正式な通達というには曖昧すぎる、いかにも貴族社会らしい熱だった。
――王家が近く、第一皇太子に関する何らかの発表を行うらしい。
その一文だけで、社交界は十分に騒げる。
何の発表なのか。
政務か。外遊か。式典か。
だが本気でそう思っている者は少ない。今この時期に、わざわざ“第一皇太子の今後”が取り沙汰されるなら、人々が真っ先に思い浮かべるのはひとつしかなかった。
婚約。
王立学園でも、その熱は抑えようがなかった。
朝、アリア・フォン・ルーヴェルトが教室へ入るなり、会話が一瞬だけ止まる。だが今の彼女は、その沈黙に以前ほど心を乱されない。悪役令嬢として見られていた時期も、皇太子の隣へ置かれてざわめきの中心にいた時期も、すでに通ってきた。
それでも、今日の空気はやはり特別だった。
「まさか本当に……?」
「でも、まだ正式には何も」
「ルーヴェルト様のお顔を見れば分かるかと思ったのですけれど」
「そんな、分かるわけ……」
視線の中にあるのは、嫉妬と興奮と探り。
そして少しの恐れだ。
もし本当にそうなら、社交界の力関係も、令嬢たちの立ち位置も、大きく塗り替わる。
アリアの一歩は、もう彼女一人の問題ではなくなりつつあるのだ。
「おはようございます、アリア様」
エレノアがやって来る。今日の彼女はいつも以上に疲れた顔をしていた。
「おはよう。どうしたの、その顔」
「朝から三人に捕まりましたわ。“発表って何のことかご存じ?” “ルーヴェルト様、何か伺っていない?” “殿下は最近どのようなご様子?”……もううんざりです」
アリアは思わず少しだけ笑ってしまう。
「お疲れさま」
「本当に他人事ではありませんのよ」
「分かっているわ」
「いいえ、たぶん半分も分かっていらっしゃらないと思います」
エレノアは小声で続ける。
「今の皆様にとって、アリア様は“もしかすると次の皇太子妃になるかもしれない方”なのです。つまり、知っておいた方が得な存在であり、同時に今のうちに探りを入れておきたい相手なのです」
その言葉はあまりにも現実的で、アリアの胸を少しだけ重くした。
得。
探り。
それが、今の自分に向けられている視線の正体だ。
「……こういう時だけ、人は正直ね」
「普段から十分正直ですわ。ただ、今日は隠し切れていないだけです」
二時間目のあとの休み時間、案の定、令嬢たちの探りはさらに露骨になった。
「ルーヴェルト様、次の舞踏会の後に何かあるのでしょう?」
「王宮から何かお言葉は?」
「公爵夫人様は、何かご存じなのではなくて?」
あまりにも直接的だった。
アリアは一人ひとりへ礼を崩さずに返しながら、同じ答えを繰り返す。
「存じません」
「私から申し上げることはございません」
「まだ、何も決まっておりませんので」
嘘ではない。
レオンハルトは、正式な形になるまではきちんと言う、としか言っていない。
だから今の自分に言えるのは、本当にそこまでなのだ。
だが周囲は、それで納得するような顔をしていない。
知らないはずがない。
たとえ知らなくても、何か感じているはずだ。
そういう目で見てくる。
そしてその視線の中で、アリアは次第に、自分が“選ばれるかどうか”の見世物にされているような居心地の悪さを覚えていた。
昼休み、令嬢用サロンへ入ると、いつも以上に空気がざらついていた。
窓際の席へ着くや否や、エレノアが呆れたように呟く。
「舞踏会の前からこれでは、発表当日はどうなることやら」
「考えたくないわ」
「でも考えなければなりませんのよね」
その通りだ。
アリアはフォークへ手を伸ばしながらも、ほとんど食欲がないことに気づく。
緊張しているのだ。
まだ見えぬ“発表”に対して。
自分がその渦中にいる現実に対して。
その時、ふいにサロンの入口側がざわついた。
入ってきたのは、学園でも指折りの名門に属する令嬢たちの一団だった。彼女たちは普段ならそれぞれ別の輪にいるような顔触れだ。にもかかわらず今日、一つにまとまっている。
嫌な予感がした。
「ルーヴェルト様」
その中の一人、侯爵令嬢が穏やかに呼びかけてくる。
「少し、よろしいかしら」
「何でしょう」
「皆さま少し心配しておりますの。今、王都でいろいろな噂が飛んでおりますでしょう?」
「ええ」
「もしそれが事実だとして――」
侯爵令嬢はそこまで言って、いかにも気遣うように声を落とした。
「あなたは、本当にお覚悟がおありなのかしら」
サロンの空気が静まり返る。
その問いは、表向きは心配の形をしていた。
だが、実際には違う。
“あなたごときが、その立場に耐えられるのか”
そういう値踏みが透けて見えていた。
アリアは答える前に、ほんの少しだけ息を整えた。
「まだ、全てが決まっているわけではありません」
「もちろんですわ。でも」
侯爵令嬢は笑みを絶やさず言う。
「もし本当にそうなら、皇太子妃という立場は、ただ殿下のお気持ちだけで務まるものではありませんもの」
正論だった。
だからこそ、厄介だった。
誰もそこは否定できない。
王家の隣に立つ者には、家格も力量も、覚悟も必要だ。
その現実を、“心配”の形で突きつけてくる。
「それは、私も理解しております」
アリアは静かに答えた。
「でしたら」
今度は別の伯爵令嬢が口を挟む。
「ルーヴェルト様ご自身は、どうお考えなのです? お選びになるつもりで?」
選ぶ。
その言葉に、アリアの胸が小さく揺れた。
少し前までの自分なら、この問いにただ戸惑っただろう。
けれど今は違う。
温室での会話も、母の言葉も、自分の中へ積もっている。
「……まだ、決めておりません」
そう答えると、令嬢たちの目が少しだけ細くなる。
「でしたら、今はまだ“殿下の隣にふさわしい”と見なされることを受け入れていらっしゃるのですね」
ずいぶんと巧妙な言い換えだ。
肯定も否定もさせず、どちらへ答えても何かを得る問い。
アリアは相手の顔を見ながら、ゆっくりと言う。
「いいえ。私は、ただ受け入れるつもりはありません」
数人の令嬢が息を呑む。
「もしそのような立場を考えるなら、自分の意志で考えたいと思っています」
侯爵令嬢の笑みが一瞬止まる。
「……意志、ですの?」
「ええ。選ばれるだけでは、足りませんから」
その一言は、アリア自身にも確かな手応えとして胸へ落ちた。
そうだ。
ここで必要なのは、上品な曖昧さではない。
自分がどうありたいかを、自分の言葉で持つことだ。
令嬢たちは明らかに動揺していた。
彼女たちはアリアが戸惑い、曖昧に笑い、周囲の圧へ揺らぐことを期待していたのだろう。
だが返ってきたのは、“自分の意志で考える”という宣言だった。
そこへ、静かな声が差し込む。
「その通りだ」
皆が振り向く。
レオンハルトだった。
またしても、この人は必要な時に必要なだけ現れる。
しかも今日の彼は、わざわざ周囲の令嬢たちが聞こえる位置で立ち止まった。
「殿下」
令嬢たちが慌てて礼を取る。
レオンハルトは軽くそれを受けるだけで、視線は最初からアリアへ向いていた。
「君は、そう考えていればいい」
その言葉は、アリアの胸へ真っ直ぐ落ちる。
令嬢たちを牽制しつつ、同時に自分の意志を肯定している。
「殿下は……」
侯爵令嬢が意を決して口を開いた。
「ルーヴェルト様に、そのような重責を本当にお任せになるおつもりですの?」
かなり踏み込んだ問いだった。
だが、周囲の令嬢たちが聞きたかったことでもあるのだろう。
レオンハルトは一拍置いて、冷静に答えた。
「任せるかどうかは、私が決める」
それだけでも十分だった。
だが彼は続ける。
「そして、どう受けるかは彼女が決める」
サロンの空気が完全に変わる。
誰かの好意でただ選ばれるのではない。
彼自身がそれを当然のように言う。
この人はやはり、アリアを“飾り”にするつもりがないのだ。
令嬢たちは何も言えなくなった。
その沈黙こそが答えだった。
レオンハルトはそれ以上この場を引き延ばすことなく、アリアへ短く言った。
「少し来い」
「はい」
席を立ち、彼の後へ続く。
サロンを出る瞬間、背中に突き刺さる視線の熱が一段強くなるのが分かった。
発表前夜。
まだ何も正式には告げられていない。
それでも空気だけは、もう誰にも止められないところまで来ている。
廊下へ出ると、レオンハルトが前を向いたまま言った。
「疲れているな」
「……少しだけ」
「嘘だな」
「少し多めに、です」
そのやり取りに、レオンハルトの口元がごくわずかに緩んだ。
「逃げたいか」
不意の問いだった。
アリアは足を止めかける。
逃げたいか。
その問いは、優しくも残酷だった。
逃げたいと言えば、今ならまだ戻れるのかもしれない。
正式な発表の前なら。
周囲が勝手に熱を上げているだけの今なら。
「……分かりません」
しばらく考えた末に出た答えは、それだった。
「怖いです。すごく」
「そうだろうな」
「でも、逃げたいのかと聞かれると、違う気もするのです」
言いながら、自分の胸の中で答えが少しずつ形になっていく。
「私は、ただ怖くない人になりたいわけではありません」
レオンハルトは黙って聞いている。
「怖くても、立てる人になりたいのです」
それが今の自分の本音だった。
悪役令嬢の汚名を着せられた時は、ただ耐えることしかできなかった。
今は少し違う。
怖さを抱えたままでも、立つことを考えている。
それが、自分が少しずつ変わってきた証なのかもしれない。
レオンハルトは静かに頷いた。
「それでいい」
その一言が、夜の手前の薄い光の中で、ひどく確かな支えに思えた。




