第44話 二人きりの温室
数日後、王宮の温室へ呼ばれた時、アリアはそれが単なる用件だけの呼び出しではないと、最初から何となく分かっていた。
温室は本宮から少し離れた中庭の奥にある。外はまだ春の名残を残しているが、石造りの建物の中はいつも少しだけ季節が曖昧で、甘やかな花の香りと湿った土の匂いが静かに漂っていた。
高い硝子天井から午後の光が差し込み、珍しい花々の葉に淡く反射している。
人目を避けるには十分で、かといってあからさまに隠した場所でもない。
あまりにも絶妙な場所選びに、アリアは少しだけおかしくなった。
「本当に、こういうところは……」
声に出しかけたところで、先に低い声が返ってくる。
「何だ」
振り向けば、レオンハルトがいた。
いつもよりやや簡素な上着姿。だが、その無駄のない立ち方はどこにいても変わらない。
温室のやわらかな光が差しても、彼だけは妙に輪郭がはっきりして見える。
「いえ……お呼び出しの場所が、絶妙だと思っただけです」
そう言うと、レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「人目はある。だが多くはない。問題があるか」
「ありません」
そう返しながら、胸の奥では別の鼓動が鳴っている。
ここ数日、自分の中で何かが確実に変わっている。
レオンハルトの静かな嫉妬を見た時から、それはもう誤魔化しきれなくなっていた。
この人のそばにいると、安心する。
嬉しい。
そして、もっと見ていたいと思ってしまう。
それが恋なのだと、たぶんもう分かっている。
レオンハルトは温室の奥へ歩きながら言った。
「舞踏会の件だ」
やはり用件もあるのだ。
それが妙にありがたい。
いきなり甘い空気だけを渡されれば、きっと自分は対応しきれない。
「はい」
「当日は使節団側の若い随員とも会話がある。表向きは歓待だが、同時にこちらの空気を見られる場でもある」
「つまり、立ち居振る舞いだけでなく、会話の中身も試されるのですね」
「そうだ」
レオンハルトは立ち止まり、一輪の淡い花へ視線を落とした。
「君は大丈夫だと思うが、一応伝えておく」
「……信頼してくださっているのですね」
思わず口にすると、彼は当然のように答えた。
「していなければ、あの役目は渡さない」
あまりにもまっすぐで、アリアは少しだけ視線を逸らした。
信頼。
この人は、平気でそういう重たいものを自然に置いてくる。
「殿下は、時々ずるいです」
「何が」
「そうやって、私が受け取らずにいられない言葉を、何でもないようにおっしゃるところが」
レオンハルトはしばらく黙っていた。
それから、思った以上に静かな声で言った。
「受け取ってほしいからだ」
胸が、大きく鳴る。
温室の空気が、急に濃くなったように感じた。
花の香りも、陽のあたたかさも、全部が妙に近い。
アリアはゆっくりと顔を上げる。
「それは……義務では、ありませんか」
聞いてはいけない問いかもしれない。
けれど、もうそこを避けたままではいられなかった。
レオンハルトはまっすぐアリアを見る。
「義務なら、ここまで手間はかけない」
その答えは、あまりにも彼らしい。
甘い告白ではなく、行動の質で示す。
「君を悪役令嬢のまま終わらせないと決めた時点で、私はかなり深入りしている」
深入り。
その言葉が、妙に生々しく胸へ落ちる。
「それでも、私はまだ……」
アリアは言葉を探した。
「まだ、自分が何を返せるのか分かりません」
「今すぐ返せとは言っていない」
レオンハルトの声は低く穏やかだった。
「ただ、勘違いはするな」
「勘違い?」
「私はもう、君を隣に置く理由を義務だけでは説明できない」
その瞬間、アリアは完全に息を止めた。
義務だけでは説明できない。
それは、ほとんど告白だった。
けれど、完全に言い切ってはいない。
だからこそ、余計に胸へ深く刺さる。
「殿下……」
ようやく名前を呼ぶと、レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「だから、焦るな」
その言葉に、アリアは一瞬だけ戸惑う。
「……焦っているのは、私の方ですか」
「両方だろうな」
思わず、息が漏れた。
この人が、自分でそう認めるとは思わなかった。
レオンハルトは温室の硝子越しの光を背にして立っている。
その表情はいつも通り大きく崩れない。
けれど、その瞳の奥にある熱だけは、今までよりずっと隠されていなかった。
「私は、君に選ばせたい」
静かな声。
「だが同時に、待つことばかりが得意でもない」
それは、不器用な告白のようでもあり、自制の告白のようでもあった。
アリアの頬が、少しずつ熱を持っていく。
待つことばかりが得意でもない。
つまりそれは、いつまでも距離を保っていられるわけではないということだ。
「……困りました」
思わず漏れた本音に、レオンハルトの口元がかすかに動く。
「何がだ」
「殿下が、思った以上に率直です」
「今さらか」
「今まではもっと……遠回しでした」
「十分我慢している」
その一言に、アリアはもう視線を逸らすしかなかった。
十分我慢している。
そこまで言われてしまえば、自分の中の熱も誤魔化しようがない。
「私は」
アリアはゆっくりと息を整えた。
「殿下の隣にいると、安心します」
言えた。
自分の側から。
「でも、安心するだけではないのです」
そこまで言って、言葉が少し詰まる。
それでも、レオンハルトは急かさない。
ただ待っている。
「……嬉しいのです」
ようやく絞り出す。
「見つけてくださることも、隣に置いてくださることも、守ろうとしてくださることも」
温室の空気が、ひどく静かになる。
遠くで水音がした。
たぶん、小さな噴水か何かだろう。
その音だけが、妙に鮮明に聞こえる。
レオンハルトは何も言わなかった。
だが、その沈黙は拒絶ではない。
むしろ、今の言葉を大事に受け取っている沈黙だった。
「……それだけで、十分だ」
やがて彼がそう言った時、アリアは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
もっと何かを求められるかもしれないと思っていた。
答えを急かされるかもしれないと思っていた。
けれど彼は、今の“嬉しい”だけを受け取る。
それが、この人の強さなのだろう。
「舞踏会が終われば、また周囲は騒ぐ」
レオンハルトは続ける。
「それでも、君が逃げないなら、私は前へ出す」
「……はい」
「そして、君が本当に選ぶと決めた時には」
そこで言葉が少しだけ切れる。
だが、その先は聞かなくても分かる気がした。
「きちんと言う」
前にも聞いたその言葉。
けれど今は、前よりずっと近い未来の約束に聞こえた。
温室の光はやわらかく、花々の香りは甘い。
その中でアリアは、自分の心がもう引き返せないところまで来ていることを、静かに悟っていた。
これはもう、義務でも庇護でもない。
選ばれることに怯えながらも、自分もまた選びたがっている。
そして、その事実を知られても、もう前ほどは怖くなかった。
温室を出る頃には、午後の光が少しだけ傾き始めていた。
まだ正式な言葉はない。
けれど、ここまで来れば十分すぎるほど分かる。
皇太子は、悪役令嬢にされた令嬢を救っただけではない。
自分の隣へ引き寄せ、選ばせようとしている。
そしてアリア自身もまた、その手を取る未来を、少しずつ自分のものとして考え始めていた。




