第43話 嫉妬の炎、恋の自覚
王宮主催の小規模舞踏会を三日後に控え、王立学園の空気はまたしても落ち着きを失っていた。
今度の話題は明快だった。
アリア・フォン・ルーヴェルトが、王宮の正式な場で“役目”を与えられた。
それがどれほど大きな意味を持つか、貴族子女であれば誰でも分かる。
晩餐会で皇太子レオンハルト・エーヴェルシュタインの隣へ置かれた。
その次は、舞踏会で役目を持って立つ。
もはや“たまたま気にかけられている”では済まされない。
つまり今のアリアは、誰の目にも、王宮の中心へ少しずつ引き寄せられている令嬢だった。
「……見られているわね」
二時間目の授業を終え、教本を閉じながらアリアが小さく呟くと、前の席から振り返ったエレノアが、ため息まじりに頷いた。
「朝からずっとですわ」
「今日は特にひどい気がする」
「ええ。今日は“次の舞踏会でどこまで決まるのか”という観測が飛び交っておりますもの」
アリアは窓の外へ目を向ける。
春の終わりの陽射しは穏やかで、校庭の若木が風に揺れている。そんな静かな景色の中で、自分だけが妙に忙しなく値踏みされている気がした。
悪役令嬢として見られていた時の視線は、冷たくて重かった。
今の視線は、熱くて落ち着かない。
どちらが楽かと問われれば、答えに困る。
「おはようございます、ルーヴェルト様」
休み時間になると、やはり令嬢たちが近づいてくる。
その中には、以前なら声すらかけてこなかった子たちも混じっていた。
「舞踏会の件、お聞きしましたわ」
「素敵ですわね」
「わたくしでしたら、緊張で倒れてしまいそう」
表面上は好意的だ。
だが、その笑みの奥には、羨望と探りが混ざっている。
「ありがとうございます」
アリアは必要最低限の礼だけを返す。
「どのようなお役目なのですか?」
「外国のお客様もいらっしゃるのでしょう?」
「殿下とご一緒になる場面も……?」
そこまで聞いた時、エレノアが横からにっこりと微笑んだ。
「皆様、随分と詳しく知りたがっていらっしゃいますのね」
その声音は柔らかい。
だが、きっちり牽制している。
令嬢たちは一瞬だけ言葉を詰まらせ、それでもすぐに笑みを崩さない。
「だって、王宮の舞踏会ですもの。気になるのは当然ですわ」
「ええ、ほんの少しだけ」
「ルーヴェルト様も、いよいよですわね」
いよいよ。
その曖昧な言い方が、ひどく社交界らしい。
何も断言しないまま、意味だけは十分に滲ませる。
アリアは少しだけ呼吸を整えてから答えた。
「まだ何も決まってはおりません」
「でも、ここまでなされるのですもの」
「ええ。殿下のお気持ちは、もう皆様――」
そこまで言いかけた令嬢の声が、ふいに途切れる。
廊下の向こうから、数人の男子生徒が歩いてきたからだ。
その中の一人がアリアへ気づき、ためらいがちに足を止める。
「ルーヴェルト様」
同学年の男子生徒だった。
家格としては伯爵家。普段、特に親しいわけではないが、授業で顔を合わせることは多い。
「何でしょう」
「その……先日の課題で、図書資料のことで少し伺いたいことが」
言い方はぎこちない。
だが本当に学業の相談らしい。
周囲の令嬢たちが、一気に面白くなさそうな顔になるのが分かった。
アリアはほんの一瞬だけ迷い、それでも頷く。
「少しなら」
男子生徒は明らかにほっとした様子で、ノートを開きながら資料名を確認してくる。
たしかにその内容自体は普通だった。
以前なら、こういうやり取りは何でもなかったはずだ。
だが、今は違う。
令嬢たちの視線がじわじわと刺さる。
“今のアリアへ話しかける男子”
その事実自体が、すでに意味を持ち始めている。
エレノアが露骨に周囲を見回し、まるで“何か文句でも?”と言わんばかりの顔をしているのが少し可笑しい。
やり取りはほんの数分で終わった。
「ありがとうございました、ルーヴェルト様」
「いいえ」
男子生徒が去ると同時に、令嬢たちの輪もどこかぎこちなく崩れていく。
興味本位の会話は続けたくても、今この場の空気は微妙すぎたのだろう。
「……疲れますわね」
全員がいなくなってから、エレノアが小さく呟いた。
「ええ」
「今の、ただの課題の話でしたのに」
「そうね」
アリアも短く答える。
ただの課題の相談。
けれど今は、それすら普通には見てもらえない。
皇太子の隣に立つかもしれない令嬢という立場は、それだけで周囲の視線を歪ませる。
その日の放課後、東棟へ向かう途中の回廊でも、同じような出来事があった。
今度は年上の男性貴族子弟が、あくまで礼儀正しくアリアへ話しかけてきたのだ。
内容はごく形式的な挨拶に近い。
舞踏会でのお役目は大変でしょう、と。
もし図書室の資料が必要なら手配できますよ、と。
善意なのか、下心なのか、その境目は曖昧だった。
けれど、その曖昧さ自体が社交界的でもある。
「ありがとうございます。必要がありましたら、その時は」
そう返した時だった。
回廊の角から、低い声が落ちる。
「必要はない」
アリアの胸が、はっきりと強く鳴った。
振り向くまでもない。
レオンハルトだ。
彼はユリウスを伴ってこちらへ歩いてくる。
その顔はいつも通り整いすぎるほど整っている。
だが、今の声色には明らかに冷えたものが混じっていた。
年上の男子生徒がぎょっとする。
「で、殿下」
「彼女が必要とするものは、こちらで用意できる」
レオンハルトはそう言いながら、アリアのすぐ隣で足を止めた。
余計な笑みも、柔らかな婉曲表現もない。
ただ一言で、“不用意に近づくな”と線を引いている。
「いえ、私はただ――」
「善意であろうと、今は控えろ」
静かな声。
だが、その静けさの方がかえって拒絶として強かった。
男子生徒は返す言葉を失い、すぐに一礼して引き下がる。
その後ろ姿を見送りながら、アリアは自分の呼吸が少し浅くなっていることに気づいた。
これはつまり。
嫉妬だ。
口にはしない。
でも、もう十分に分かる。
「……殿下」
レオンハルトが視線を向ける。
「何だ」
「今のは、少し……」
言葉を選びきれないでいると、横でユリウスが小さく咳払いした。
「殿下、かなり分かりやすかったかと」
「黙れ」
「承知しております」
承知していない顔である。
アリアは思わず少しだけ目を伏せた。
頬が熱い。
恥ずかしさだけではない。
それ以上に、どうしていいか分からない嬉しさが混じっている。
レオンハルトは少しだけ間を置いてから、アリアへ言った。
「君は、誰にでも律儀に返事をするな」
「返事をしないわけにも」
「必要な相手だけでいい」
その言い方は、以前にも聞いた。
けれど今日は少し違う。
もっと個人的で、もっと狭い熱が含まれている。
「……今の方は、何も失礼なことはおっしゃっていませんでした」
あえてそう返してみると、レオンハルトの目がわずかに細まる。
「だから厄介だ」
「え?」
「露骨な無礼なら、切れば済む」
低く、淡々とした声。
「だが、善意を装って近づく者は面倒だ」
それはもう、完全に嫉妬の言葉だった。
アリアは息を呑む。
ここまで静かな人なのに、こういう時だけ分かりやすすぎる。
「殿下は……」
言いかけたところで、ふいにレオンハルトと目が合う。
その視線の奥にあるものを見てしまった瞬間、アリアはようやく理解した。
この人の静かな独占欲を見て、嬉しいと思っている。
困る。恥ずかしい。落ち着かない。
でもそれ以上に、嬉しい。
その事実が、遅れて胸の奥へ落ちてくる。
自分はもう、とっくにかなり深いところまで傾いているのかもしれない。
「何だ」
レオンハルトが問い返す。
アリアは少し迷い、それでも正直に言った。
「少しだけ、安心しました」
ほんの短い言葉。
だがレオンハルトは、その意味をきちんと受け取ったらしい。
「そうか」
それだけ答える。
けれど、その声音は先ほどよりわずかに柔らかかった。
ユリウスが横で視線を逸らしながら、小さくため息をつく。
「わたくしは、そろそろ空気になった方がよろしいでしょうか」
「元からそうしていろ」
「手厳しいですね」
そのやり取りに、アリアはとうとう小さく笑ってしまった。
悪役令嬢の汚名を着せられ、婚約を切られ、泣くことも許されないような日々を越えてきた。
その先で、自分がこんなふうに笑える日が来るとは思わなかった。
嫉妬の炎は静かだ。
けれど、その静かな熱が、自分の心にも確かに火を灯している。
ただ守られるだけではない。
ただ選ばれるだけでもない。
自分もまた、少しずつこの人を選び始めているのだと、アリアはもう否定できなかった。




