第47話 選ぶのは私
翌日、王宮の大広間はいつも以上に張りつめた空気を湛えていた。
正式な式典と呼ぶには規模が小さい。
だが、ただの挨拶の場と呼ぶには、集められた顔ぶれが重すぎる。
王家に近い諸侯の当主とその家族。
有力貴族たち。
王宮に出入りする重臣たち。
そして、若い世代の令嬢や令息たちもまた、控えめながらこの場に招かれている。
誰もが知っていた。
今日ここで語られる“皇太子の今後”が、単なる政務の話だけで終わるはずがないと。
アリア・フォン・ルーヴェルトは控えの間で最後に深く息を吸った。
昨夜、母へ「逃げない」と言った。
それは勢いではない。
今の自分が持てる、精一杯の真実だった。
怖い。
それは変わらない。
だが、怖いままでも自分で立つと決めた。
それだけが、今の彼女の芯だった。
「お嬢様」
リナが外套の裾を整えながら、小さく囁く。
「本当に、お綺麗です」
「ありがとう」
「……今日は、きっと皆様が見ております」
その言葉に、アリアはごく小さく笑った。
「ええ。知っているわ」
知っている。
だからこそ、もう必要以上に飾らない。
今日の装いは、以前のような“王子の婚約者らしい令嬢”のものではない。
淡い銀青のドレスは華やかすぎず、それでいて光の下では確かに目を引く。首元の装飾も控えめで、全体に気品はあるが甘すぎない。
誰かに選ばれるための飾りではなく、自分の意思でそこへ立つ者の装い。
そうありたいと思って、母と選んだものだった。
控えの間を出ると、クラウディアが待っていた。
「行きましょう」
「はい」
二人で回廊を進む。
王宮の石床へ靴音が響くたび、胸の鼓動も少しずつ強くなっていく。
大広間の手前で、クラウディアが一度だけ足を止めた。
「最後にひとつだけ」
アリアは母を見る。
「今日、誰が何を見ようとしていても、あなたはあなたのために立ちなさい」
「……はい」
「家のためでも、意地のためでもなく」
母は静かに言う。
「あなた自身が選んだ答えのために」
その一言が、胸へまっすぐ落ちた。
そして扉が開かれる。
大広間の光が、二人を包んだ。
ざわめきは、アリアが入った瞬間にわずかに揺れた。
完全には止まらない。
だが、その波の質はすぐ分かる。
見られている。
値踏みされている。
そして、待たれている。
悪役令嬢と噂された令嬢。
第二王子に切り捨てられた元婚約者。
皇太子の隣へ置かれた令嬢。
その全部の物語を背負って、いまここへ立つ女が、どんな顔をして現れるのかを。
アリアは顔を上げたまま、母とともに歩く。
もううつむかない。
それは昨夜、自分で決めたことだった。
前方、王族席に近い位置にレオンハルトの姿が見えた。
いつものように無駄のない立ち姿。黒に近い礼装。静かな圧。
そして、アリアが入ってきた瞬間から、彼の視線はまっすぐこちらにあった。
そのことに、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
大広間の中央寄りまで進んだところで、周囲のざわめきがひとつ深くなる。
どうやら、王宮側の役人が前へ出たらしい。
今日の集まりについての説明が始まる。
「本日は、今後の王宮行事および皇太子殿下の対外役割に関し、皆様へご共有申し上げることがございます――」
形式的な前置き。
だが、誰もそこに本当の関心を向けてはいない。
何人もの令嬢たちの視線が、アリアとレオンハルトの間を行き来している。
貴族たちもまた、表情こそ崩さぬものの、耳の向きが違う。
やがて、説明は本題へ入った。
皇太子レオンハルトの今後の公的行事への関わり。
対外的な接遇の増加。
それに伴い、王宮行事において“補佐的役割を担う者”の整理と拡充を行うこと。
そして――。
「今後の複数の公式行事において、ルーヴェルト公爵家令嬢アリア・フォン・ルーヴェルト嬢に、王宮側補佐席に準ずる立場でご参加いただく予定です」
大広間が静まり返った。
誰かが息を呑み、別の誰かが扇を握る手を強くする。
はっきりとした婚約宣言ではない。
それでも、その意味を分からない者などいない。
王宮側補佐席に準ずる立場。
つまり、ただの招待客ではない。
ただの有力令嬢でもない。
皇太子の公的な隣へ、継続的に立つことを前提とした扱いだ。
アリアの胸が、大きく鳴る。
ここまで来た。
あの夜会で悪役令嬢として断罪され、婚約を切られた日から、とうとうここまで。
そして今、問われているのはただひとつだ。
自分は、その場へ行くのか。
それとも、なお立ち止まるのか。
役人の説明が終わり、形式的なざわめきが戻る。
だがそれは、何かが決定的に変わったあとのざわめきだ。
その時、レオンハルトが前へ出た。
誰に促されるでもなく、当然のように。
場の空気がまたひとつ、鋭くなる。
彼はアリアをまっすぐ見た。
そして、一歩だけ近づく。
誰もが見ている前で。
誰もが、この次の一手を待っている前で。
アリアの中で、昨夜の母の言葉がよみがえる。
――あなた自身が選んだ答えのために。
――誰かのためではなく。
――あなたのために。
レオンハルトはまだ何も言わない。
けれどその沈黙そのものが、問いだった。
君はどうする。
ここで、どこへ立つ。
アリアはゆっくりと息を吸った。
怖い。
すごく怖い。
視線も、噂も、ここから先の重さも、全部怖い。
けれど、それでも。
自分はもう、“選ばれるのを待つだけの令嬢”ではいたくない。
そして気づく。
いまこの瞬間、自分が前へ出るのは、彼に選ばれたいからだけではない。
自分自身が、この場所を選びたいからだ。
アリアは、ひとつ、前へ出た。
自分の足で。
そのわずかな動きに、大広間の空気が再び止まる。
選ぶのは、私だ。
その思いだけが、今の彼女をまっすぐ支えていた。




