第38話 今さら戻れません
セドリックとの対話が終わった翌日、学園内の空気はまた別の意味でざわついていた。
第二王子が再びアリアへ接触した。
しかも、それが“学園側の確認”という名目であったにもかかわらず、実際には個人的な話で終わったらしい。
噂は正確ではない。
だが、だからこそ都合よく広がる。
「やはり第二王子殿下、まだ……」
「でも、ルーヴェルト様ははっきりなさったらしいわ」
「戻る気はないって?」
「本当に?」
「今さら戻れるわけないでしょう」
教室の後方からそんな声が聞こえた時、アリアは初めて、自分の言葉がもう“自分だけの中”に留まらないところまで届いているのだと知った。
今さら戻れません。
昨日、自分はそこまではっきり言葉にしたわけではない。
だが、結局意味するところはそうだった。
婚約を切り捨てた相手へ、後から未練を向けられても、もう戻らない。
その事実が、少しずつ周囲にも浸透し始めている。
「見ましたか、アリア様」
エレノアが朝から声を弾ませる。
「何を?」
「皆様の反応ですわ。前なら“第二王子殿下がまだお優しい”とか何とか、勝手に美談にしていたでしょうに、今日はそうではありませんもの」
それはたしかにそうだった。
以前なら、王子の迷いも後悔も、ただ“深い愛情”のように美しく飾られただろう。
だが今は違う。
夜会での断罪、そこからの真実の露見、そして皇太子の明確な介入。
それらを経た今、セドリックの未練は“遅すぎる”ものとして見られ始めている。
それはアリアにとって、ひとつの救いだった。
少なくとも、誰もが王子の感情を無条件に正義だとは思わなくなっている。
昼前、東棟の回廊でアリアは偶然にもセドリックの姿を見かけた。
彼は数人の男子生徒に声をかけられていたが、その表情は明らかに冴えない。視線が合うと、一瞬だけ足が止まりかける。
けれど今回は近づいてこなかった。
近づけないのだろう。
昨日の自分の言葉が、ようやく彼にも届いたのだ。
アリアはそのまま歩き過ぎた。
胸は痛まない。
ただ、静かに終わったのだと分かる。
それを見ていたらしいエレノアが、小声で囁く。
「少し前までなら、あの方が来れば皆様ざわめいておりましたのに」
「今もざわめいているわ」
「種類が違いますわ。“今さら何を”のざわめきです」
アリアは、ふっと息を吐いた。
「ええ。そうね」
その日の午後、学園では小さな集まりがあった。形式ばらない交流の場で、生徒同士が軽食を取りながら話すだけの、ささやかなものだ。
以前なら、アリアはこういう場を義務としてこなしていただろう。
だが今日は違った。
視線の質が変わっていることを知っていたからだ。
誰かが近づいてくる。
振り向くと、年上の令嬢たちが数人立っていた。
その中には、以前アリアへ探るようなことを言ってきた侯爵令嬢もいる。
「ルーヴェルト嬢」
「ご機嫌よう」
「昨日のこと、少し耳に入りましたの」
穏やかな声音。
だが、その奥にあるのは明らかな探りと測り。
「耳が早いのですね」
アリアが静かに返すと、侯爵令嬢は扇を口元へ寄せて微笑む。
「王都は狭いですもの」
その笑みの裏には、やはり別の色があった。
探りだけではない。
少しの牽制。
少しの嫉妬。
そして、“第二王子ではなく皇太子を選ぶのか”という値踏み。
「それで、何をお聞きになりたいのですか」
回りくどさを切り捨てるようにアリアが尋ねると、侯爵令嬢は一瞬だけ扇の動きを止めた。
「……ルーヴェルト嬢は、本当に第二王子殿下へお戻りになるお気はないのですか」
周囲の空気が、またひとつ変わる。
ずいぶん露骨になったものだと、アリアは思った。
だが、ここまで露骨だからこそ、今は答えやすい。
「ありません」
迷いなく言い切る。
その一言が、場へ静かに落ちた。
「一度失った信頼は、そう簡単には戻りません」
侯爵令嬢が目を見開く。
「……では」
「そして、戻すつもりもありません」
追い打ちのように言葉を重ねると、周囲の令嬢たちの表情が一斉に揺れた。
誰もが聞きたがっていた答えを、あまりにもはっきり言われたからだろう。
アリア自身、こんなふうに公の場で口にする日が来るとは思わなかった。
だが今は、不思議と迷いがない。
戻れないのではない。
戻らないのだ。
その違いは大きい。
ちょうどその時だった。
場のざわめきが、回廊の入口側から一段深くなる。
振り向けば、そこにはレオンハルトがいた。
偶然ではない。
それも今のアリアには分かる。
この人は、必要な時に必要なだけ目立つ形で現れる。
レオンハルトは令嬢たちの輪へ目を向け、そのまままっすぐアリアのところまで来る。
「ここにいたか」
「はい」
彼の声は低く、いつも通り落ち着いている。
だが、その一言だけで周囲の令嬢たちの空気ががらりと変わる。
第二王子へ戻る気はない。
その宣言をした直後に、第一皇太子が当然のように現れる。
これ以上ないほど分かりやすい構図だった。
「少し付き合え」
レオンハルトがそう言い、自然な所作でアリアへ手を差し出す。
以前よりも、さらに迷いのない動きだった。
まるで“今さら戻れない”という言葉を聞いた上で、その先を引き受けるかのように。
アリアは一瞬だけ周囲の目を感じた。
令嬢たちの息を呑む気配。
興奮。羨望。嫉妬。
そのすべてが突き刺さる。
それでも、今はもう手を取ることに躊躇いがなかった。
「はい」
そう答え、差し出された手へ自分の指先を重ねる。
その瞬間、周囲の空気が決定的に変わった。
第二王子への“戻るかもしれない未練”を自ら否定し、その直後に第一皇太子の手を取って去る。
それはもう、誰の目にも分かりやすい線引きだった。
レオンハルトは何も言わず、そのままアリアを伴って場を離れる。
だがその背中は、あまりにも雄弁だった。
君はもう、過去へは戻らない。
ならば前へ来い。
そう言っているように。
少し離れた回廊へ出たところで、レオンハルトがようやく低く言う。
「今の返答で十分だ」
アリアは彼を見上げる。
「聞いておられたのですか」
「最初からではない」
それなら途中から、ということだろう。
だが、そのタイミングで現れたのは偶然ではない。
「……わざとですか」
半ば確信しながら尋ねると、レオンハルトはわずかに目を細めた。
「そうだ」
あまりにもあっさり認められて、アリアは少しだけ笑ってしまいそうになる。
「見せつけるために」
続けられたその一言に、胸が強く鳴る。
「隠す必要がないからな」
前にも聞いた。
けれど今、その意味は以前よりもっと重い。
アリアは少しだけ息を吸ってから、静かに言った。
「私も、隠したくありません」
その返答に、レオンハルトの足がほんの一瞬だけ止まった。
初めて、自分の側からこういう言葉を返したのだと、アリアは気づく。
選ばれるだけでは終われない。
ならば、隠したくないという意思もまた、自分のものとして言わなければならない。
レオンハルトはやがて、ごく静かに頷いた。
「そうか」
それだけだった。
だが、その一言で十分だった。
今さら戻れない。
その言葉は、ようやく過去との決別を完了させた。
そして同時に、これから先の未来を、少しずつ現実の形にし始めていた。




