第37話 未練の王子
その申し出は、あまりにも“それらしい理由”をまとってやって来た。
翌日の昼前、二時間目と三時間目のあいだの短い休み時間。アリア・フォン・ルーヴェルトが教本を閉じたところで、担任教師がやや硬い表情で教室へ入ってきた。
「ルーヴェルト様」
「はい」
「第二王子殿下から、確認事項があるとのことです。婚約解消に伴う学園側の事務処理について、少しお話を、と」
教室の空気が目に見えて揺れた。
生徒たちの耳が一斉にこちらへ向く。
もちろん、皆が聞きたいのは“事務処理”などではない。
婚約を破棄した元婚約者が、また接触してくる。その事実そのものだ。
アリアは一瞬だけまぶたを伏せた。
昨日、ユリウスが伝えてきた通りだ。
手続き。確認事項。
そういうもっともらしい名目をつけて、セドリックはもう一度近づこうとしている。
「場所はどちらでしょう」
静かに尋ねると、教師はわずかに言いづらそうな顔をした。
「東棟一階の応接室です。短時間で済ませる、と」
アリアはその返答を聞きながら、胸の中で冷たいものがゆっくり沈むのを感じた。
短時間で済ませる。
そんな言葉を信じられる段階は、もう過ぎている。
エレノアがすぐに立ち上がりかけた。
「先生、その件でしたら――」
「分かっています」
アリアは小さく彼女を制した。
レオンハルトが動いている以上、何も知らぬまま向かうことにはならないはずだ。
むしろ、この呼び出しそのものがどう処理されるかを見るべきなのかもしれない。
「少しだけ、確認してまいります」
そう言って立ち上がると、クラス中の視線がまた濃くなる。
悪役令嬢と断じられた時の視線とも、皇太子の隣へ置かれたあとの視線とも、また少し違う。
今は、“過去と今がぶつかる瞬間”を見たがる目だ。
廊下へ出ると、エレノアが当然のようについてくる。
「一人では行かせませんわ」
「そう言うと思ったわ」
「当たり前です」
彼女は真顔で続けた。
「事務処理だの確認事項だの、そんなの建前に決まっております」
「ええ」
「ですが、今回は殿下もご存じのはずです」
「そうでしょうね」
東棟一階の応接室へ向かうあいだ、アリアの足取りは不思議と重くなかった。
怖くないわけではない。
だが、もう以前のように“呼ばれたから行かなければ”という従順さだけでは動いていない。
向こうがどんな顔で現れるのか、自分がどう切り返せるのか、それを見極めようとする冷静さが残っている。
応接室の前には、案の定ユリウスが立っていた。
濃紺の礼装、整った姿勢、そして今日もまた、少しだけ面倒そうな空気をまとっている。
「ルーヴェルト嬢」
「おはようございます」
「殿下の読み通りでした」
彼は扉の方を一瞥してから言った。
「やはり“学園側の確認”という名目で来ています。ですが、実際の事務書類は何も持ってきておりません」
エレノアが呆れたように眉を上げる。
「もう建前ですら整っておりませんのね」
「一応、口実としては整えているつもりなのでしょう」
ユリウスの声には、かすかな皮肉が混じっていた。
「殿下は?」
アリアが尋ねると、ユリウスは少しだけ視線を上げた。
「中におられます」
その一言で、アリアの胸が静かに鳴る。
そうか。
レオンハルトはもうここにいるのだ。
つまり、これは単なる“鉢合わせ”ではない。
セドリックが動くことを読んだ上で、最初から待ち構えている。
「ルーヴェルト嬢は、無理に話す必要はありません」
ユリウスは扉を開ける前に、低く告げた。
「殿下は、あなたがあの方の未練に付き合う義理はないとお考えです」
その言葉が、アリアの胸を小さく温めた。
未練。
あまりにも端的で、そして正しい。
扉が開く。
中には、やはりレオンハルトがいた。
窓際に近い位置で立ち、向かい側にはセドリックがいる。
先に来ていたのか、それとも通されたばかりなのかは分からない。
だが室内に漂う空気だけで、もう十分だった。
静かで、冷たく、そして張りつめている。
セドリックはアリアの姿を見ると、明らかに表情を揺らした。
「アリア」
「殿下」
形式的な返答だけを返す。
以前のような“婚約者を呼ぶ声”ではなくなった自分の響きに、セドリック自身がいちばん傷ついているように見えた。
レオンハルトはその様子を一瞥し、淡々と口を開く。
「確認事項があるそうだな」
その声音に、セドリックの肩がわずかに強張る。
「兄上。これは、学園側の――」
「書類はどこだ」
短い問い。
セドリックが一瞬だけ言葉に詰まる。
「……口頭で済む内容だ」
「なら、なおさら私の前で構わないな」
逃げ道のない言い方だった。
アリアはそのやり取りを見ながら、胸の奥で小さく息を吐く。
こうして最初から“事務処理ではない”ことを剥がされれば、セドリックも建前に逃げ込めない。
セドリックは唇を引き結んだあと、ようやくアリアへ向き直った。
「……私は、君に言っておくべきことがあると思った」
やはりそう来るのか、とアリアは思う。
確認事項ではない。
手続きでもない。
ただ、自分の気持ちの整理のために近づいてきたのだ。
「何でしょう」
アリアが静かに促すと、セドリックは目を伏せた。
「正式な謝罪は、先日した。だが……それだけでは足りないと思った」
レオンハルトの視線が、わずかに冷える。
アリアにもそれが分かった。
「足りない、とは?」
今度はアリア自身が問うた。
セドリックは一拍だけ躊躇ってから、低く言った。
「君を、あんなふうに終わらせるつもりはなかった」
その瞬間、アリアの中で何かが静かに冷え切った。
終わらせる。
あんなふうに。
その言葉の選び方が、まだ彼の本質を物語っている。
彼にとってあの婚約破棄は、“判断を誤った出来事”ではあっても、依然として“自分が物事を決める側”の感覚から抜けきれていないのだ。
「殿下」
アリアはまっすぐ彼を見た。
「あれは、終わらせたのではなく、切り捨てたのです」
セドリックの顔が強張る。
「言葉を選べ」
低く挟んだのはレオンハルトだった。
だがアリアは首を横に振る。
「いいえ、殿下。ここは、はっきり申し上げます」
レオンハルトはそれ以上止めなかった。
アリアが自分の言葉で立つべき場面だと理解してくれたのだろう。
「私は、あの夜会で、殿下に切り捨てられました」
静かな声が、応接室の中へまっすぐ落ちる。
「皆の前で、していないことをしたと言われ、婚約まで解かれた。あの時の私にとって、あれは“終わり方が悪かった”では済まない出来事でした」
セドリックは何も言えない。
アリアは続ける。
「ですから、“あんなふうに終わらせるつもりはなかった”と言われても、今の私には意味がありません」
その言葉は、以前よりさらに深く、はっきりと自分の中から出てきた。
今さら遅い。
それを、ただ突き放すためではなく、事実として言えるようになっている。
セドリックは苦しげに息を吐いた。
「……私は、間違えた」
「はい」
「だが、だからといって、全部が――」
「全部が、元通りになることはない」
今度はアリアが遮った。
レオンハルトの視線が、ほんのわずかに柔らかくなるのを感じる。
「それは、私もよく知っています」
セドリックが目を上げる。
「名誉が戻っても、噂が消えても、婚約が解消された事実は残る。私が受けた痛みも残る。殿下が後悔なさるのは自由ですが、それで私の時間は戻りません」
はっきりと言い切ったあと、アリアは自分の胸が不思議なほど静かなことに気づいた。
怒鳴ってはいない。
責め立ててもいない。
ただ、事実を並べているだけだ。
それが、以前の自分には出来なかった。
セドリックはしばらく黙っていたが、やがて、搾り出すように言った。
「……私は、君を失ってから気づいた」
アリアは答えない。
「君が、どれだけ私を支えていたか」
その言葉に、レオンハルトの表情が冷えたのが分かった。
アリアもまた、胸の中でわずかな苛立ちを覚えた。
失ってから気づく。
それはあまりにもありふれた、そしてあまりにも遅い台詞だ。
「だから、何でしょう」
静かに問うと、セドリックは言葉を詰まらせる。
彼自身も分かっているのだろう。
そこから先を口にしたところで、今のアリアに届くはずがないと。
けれど、口にせずにはいられない未練がある。
「……もし」
やはり、来た。
その“もし”が出た瞬間、アリアの胸の中で全てが完全に終わった。
「もし、あの時――」
「それ以上は不要です」
きっぱりと、アリアは言った。
セドリックが息を呑む。
「今さら“もし”を口にしても、何も変わりません」
その声に、迷いはなかった。
「私はもう、あの時の場所へ戻る気はありません」
応接室の空気がぴたりと止まる。
セドリックは、完全に言葉を失った。
その沈黙の中で、レオンハルトが一歩だけ前へ出る。
「これで十分だろう」
低く静かな声。
だがその一言には、もうこれ以上は許さないという明確な線が引かれていた。
セドリックは兄を見る。
怒りとも、悔しさとも、後悔ともつかない色が入り混じっている。
だが、それでも彼は反論できなかった。
今のやり取りで、アリアの意思は十分すぎるほど示されたのだから。
「……そうだな」
最後にそれだけを言うと、セドリックは深く息を吐いた。
そしてアリアへ向き直る。
「今度こそ、これ以上は言わない」
「ありがとうございます」
礼儀としてそう返す。
それ以上の感情は込めない。
セドリックはその平坦さにかすかに目を伏せ、それから兄へ一礼もせず、静かに部屋を出て行った。
扉が閉まる。
その瞬間、室内の張りつめた空気がわずかにほどけた。
アリアは小さく息を吐く。
短いやり取りだったはずなのに、身体の奥まで神経を使ったのが分かる。
「大丈夫か」
レオンハルトが問う。
「……はい」
「嘘だな」
すぐに返されて、アリアは少しだけ口元を緩めそうになった。
「少し、疲れました」
「それでいい」
レオンハルトは短く答える。
「今のは疲れるだけの価値がある」
価値がある。
つまり、今の対話には意味があったということだ。
たしかにそうだとアリアも思う。
“もし”を遮り、戻らないと明確に告げること。
それは相手のためというより、自分のために必要な線引きだった。
レオンハルトはそれ以上その話題を引き延ばさなかった。
ただ、静かにアリアの方へ視線を向ける。
「よく言った」
その一言が、思っていた以上に胸へ沁みた。
褒められたかったわけではない。
それでも、自分の言葉で立てたことを、この人が“よく言った”と受け取ってくれることが、ひどく嬉しい。
「……ありがとうございます」
素直にそう言うと、レオンハルトはごくわずかに頷いた。
そして、少しだけ間を置いてから、低く続けた。
「だが、もう二度と同じことはさせない」
アリアは目を上げる。
「同じこと、とは」
「過去に引き戻されるような真似だ」
その言葉には、先ほどの静かなやり取りの下に抑え込まれていた感情が滲んでいた。
「君は十分に線を引いた。なら、向こうが未練で揺れようと、もう付き合う必要はない」
はっきりとした断定だった。
守る、というより、切り離す強さ。
その強さに、アリアは胸の奥が静かに熱を持つのを感じる。
もう戻らない。
もう引きずられない。
それを、彼は自分より先に理解しているのだ。
応接室を出る頃には、窓の外に薄い雨が降り始めていた。
灰色の空から落ちる細かな雨粒が、石畳へ静かな模様を広げていく。
アリアはその音を聞きながら、胸の中で小さく区切りをつけていた。
元婚約者の後悔は、本当に遅かった。
そして、その遅さを、もう自分が受け止める必要はない。
そのことを、自分の口で言えた。
それだけで、今日は十分だった。




