第36話 選ばれるだけでは終われない
小会議室に落ちた沈黙は、重くはなかった。
けれど、簡単に破れるものでもない。
――君が、どうしたい。
レオンハルトの問いは、アリアの胸の中で静かに反響していた。
選ばれるだけでは終われない。
それは最近、彼女自身が薄々感じていたことだ。
悪役令嬢の汚名が剥がれ始めたあと、今度は“皇太子の隣にいる令嬢”として見られるようになった。
その視線は以前より甘く、しかし別の意味で重い。
誰かに選ばれる。
誰かの隣に置かれる。
それだけで満たされるほど、自分はもう無邪気ではいられない。
「……私は」
ようやく口を開くと、思った以上に声は静かだった。
「少し前まで、自分のことを決めるのは周囲なのだと思っていました」
レオンハルトは黙って聞いている。
「婚約者としてどうあるべきか。公爵令嬢としてどう見られるべきか。そういうことばかり考えて……自分が何を望んでいるのかは、後回しにしていたと思います」
それを言葉にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
たぶんそれは、ずっと見ないふりをしてきた事実だからだ。
「でも今は違います」
一度息を整える。
「殿下の隣へ置かれることを、嬉しく感じている自分がいます」
そこまで言って、アリアは少しだけ目を伏せた。
言ってしまった。
しかも、かなり正直に。
けれど、ここで飾る意味はないとも思った。
「ただ同時に、怖いのです」
「何が」
短い問い。
「“選ばれたから立つ”だけの存在になることが」
レオンハルトの視線が、わずかに深くなる。
「皆様は、私を見ているようで、実際には“皇太子の隣にいる令嬢”という立場ばかりを見ています。悪役令嬢の時もそうでした。結局、役割ばかりで私自身は見られていなかった」
その言葉に、ようやく自分の考えがはっきり形を持ち始める。
そうだ。
そこが苦しいのだ。
悪役令嬢という役。
婚約破棄された令嬢という役。
次の婚約者候補という役。
どれも、本人の中身ではなく周囲が勝手に与えるものばかり。
「だから」
アリアは顔を上げた。
「もし殿下の隣に立つなら、それは“選ばれたから”だけでは嫌なのです」
レオンハルトはその言葉を、思っていたより長く黙って受け止めた。
否定されるかもしれない。
あるいは、今はそんなことを考える段階ではないと言われるかもしれない。
そう思っていたアリアは、次に返ってきた言葉に少しだけ目を見開いた。
「だからこそ、君がいい」
胸が、強く打つ。
「え……」
「私は、ただ黙って隣に置かれるだけの女は求めていない」
レオンハルトは前を向いたまま、だが言葉だけはまっすぐ落としてくる。
「立場に縋るだけの者も、私の顔色を見て従うだけの者も、必要ない」
その一言一言が、アリアの奥深いところへ触れてくる。
「君は、そこに違和感を持つ」
「……はい」
「選ばれるだけでは嫌だと思う」
「はい」
「なら、そのままでいい」
その返答は、あまりに大きかった。
選ばれるだけでは嫌だ。
そんなふうに考えるのは、わがままだと思っていた。
皇太子の隣に置かれるだけでも、令嬢としてはこの上ない名誉なのだから。
なのに彼は、それを否定しない。むしろ、そのままでいいと言う。
「殿下は……本当に、変わっていらっしゃいます」
思わず口にすると、レオンハルトの口元がわずかに緩んだ。
「君に言われたくはない」
その返しが妙に自然で、アリアは少しだけ肩の力を抜く。
部屋の中の空気が、いつの間にか少しだけ柔らかくなっていた。
「ですが」
アリアは続ける。
「もし本当にその場所を考えるなら、私はただ“守られた令嬢”のままではいられません」
「そうだな」
「社交界でどう立つかも、王宮でどう見られるかも、自分の足で考えなければ」
「その通りだ」
レオンハルトは簡潔に頷く。
「君は少しずつ、そこへ来ている」
その一言に、アリアは自分の胸の内へそっと手を当てるような気持ちになった。
来ている。
たしかに、少し前の自分とは違う。
今も怖い。
今も完璧な覚悟があるわけではない。
けれど、前よりは、自分の意志で考えたいと思い始めている。
「ただし、急ぐ必要はない」
レオンハルトはそこで少しだけ声を落とした。
「周囲は急かすだろう。婚約者候補だ、次の妃だと、勝手に騒ぎ立てる」
「もう十分に騒いでおります」
「だが、君がそれに合わせて答えを急ぐ必要はない」
それは救いだった。
周囲は早い。
社交界も学園も、物語の続きがほしくてたまらない。
悪役令嬢の次は、皇太子に選ばれる令嬢。
そういう単純で分かりやすい流れを、皆が欲しがっている。
だが自分の心は、そこまで単純ではない。
傷もある。
怖さもある。
嬉しさもある。
その全部を抱えたまま、答えだけを急いではいけない。
「……ありがとうございます」
アリアがそう言うと、レオンハルトは少しだけ不思議そうに目を細めた。
「何に対してだ」
「急がなくていいと言ってくださったことに」
しばし沈黙。
それから彼は、いつものように少しだけ素っ気なく言った。
「当然だ」
だが、その“当然”が、今のアリアにはひどく優しく聞こえた。
その時、扉の外で控えめなノックが鳴る。
ユリウスだろうと思ったら、その予想は当たっていた。彼は顔をのぞかせるなり、部屋の空気を一瞬で察したらしく、いかにも何も見ていない顔で一礼する。
「お取り込み中のところ失礼いたします」
「何だ」
レオンハルトの声は平静だ。
だがユリウスの目には、うっすらと面白がる色が浮かんでいる。
「第二王子殿下が、学園側の名目でルーヴェルト嬢へ再び接触する可能性があるとの報せです」
空気が一瞬で変わる。
アリアの表情も引き締まった。
セドリック。
また動くのか。
「名目は?」
レオンハルトが短く問う。
「手続き上の確認、とのことですが……本心は別でしょう」
ユリウスの言外の意味は明白だった。
未練。
あるいは、自分の中でまだ終わらせきれていない何か。
アリアは無意識に息を整えた。
元婚約者との関係は、謝罪で終わったと思っていた。
だが向こうは、まだそうは思っていないのかもしれない。
レオンハルトは一瞬だけ目を細め、それから静かに言う。
「分かった。通すな」
「承知しました」
「……え?」
思わず声が漏れたのはアリアの方だった。
レオンハルトは当然のように言う。
「今の君に、あれ以上曖昧な接触を許す理由がない」
「ですが、学園側の手続きなら……」
「本当に手続きなら、私を通せばいい」
その一言に、アリアは返す言葉を失った。
完全に遮るつもりだ。
しかも、少しも迷いなく。
ユリウスがごく自然に補足する。
「殿下は、二度と“今さら遅い迷い”を押しつけさせるつもりはないそうです」
アリアの頬が少し熱くなる。
それがありがたさからなのか、別の感情からなのか、自分でもよく分からない。
「……そこまでしていただく必要は」
「ある」
今度はレオンハルトが、間髪入れずに言い切った。
「君はもう、選ばれるだけでは終わらないと言った」
「はい」
「ならば、曖昧な過去に足を引かせる必要もない」
その言葉は強かった。
守るというより、進ませるために切る強さだ。
アリアは静かに目を伏せ、それから小さく頷いた。
「……はい」
こうして、自分は少しずつ、本当に前へ押し出されていくのだと感じる。
選ばれるだけでは終われない。
ならば、過去に引き戻されることも許されない。
それが怖くないわけではない。
けれど、今はもう、その怖さの先へ行かなければならないのだ。




