第35話 “次の婚約者候補”という火種
晩餐会の余韻が王都から完全に消える前に、社交界は次の話題を見つけていた。
――第一皇太子レオンハルト・エーヴェルシュタインの、次の婚約者候補は誰か。
あまりにも露骨で、あまりにも下世話で、そして貴族たちらしい話題だった。
王宮主催の公式晩餐会で、皇太子が一人の令嬢を隣へ置く。
しかもそれが、つい先日まで第二王子に婚約破棄を言い渡されたばかりの公爵令嬢。
そこへ意味を見出さない者などいない。
王立学園でも、その熱は日に日に強くなっていた。
朝の教室へ入るなり、アリア・フォン・ルーヴェルトは、空気の変質をすぐに感じ取った。
悪意や探りだけではない。
今はもっと露骨に、“比べる目”が増えている。
「やっぱり、ルーヴェルト様なのかしら」
「でも、家格だけなら他にもいらっしゃるでしょう?」
「ええ。でも殿下があそこまで公に扱われたのは初めてではなくて?」
「まだ決まったわけではないのでしょうけれど……」
アリアは顔を上げたまま自席へ向かう。
これまでの彼女なら、こうした囁きに胸を痛めるだけだったかもしれない。
だが今は、痛みと同時に、別の重さも感じていた。
――婚約者候補。
その言葉は、自分にとってまだ現実味がありすぎて、かえって現実味がない。
レオンハルトは確かに、自分を隠さなかった。
隣にも置いた。
手放すつもりはないとも言った。
だが、だからといって、すぐに“次の婚約者候補”として見られることに、自分の心が追いついているわけではない。
「おはようございます、アリア様」
エレノアが今日もやって来る。その顔には、半分呆れ、半分面白がっているような複雑な色があった。
「おはよう」
「今朝はもう、隠す気もありませんわね」
「何が?」
「皆様の視線です。完全に“皇太子妃候補を見る目”になっております」
その直球ぶりに、アリアは一瞬だけ返答を失った。
「……その言い方はやめてちょうだい」
「事実に近いでしょう?」
「近いかどうか分からないから困っているの」
そう返すと、エレノアは少しだけ真顔になった。
「そうですわよね」
彼女は周囲をちらりと見回し、声を潜めた。
「でも、それが問題なのです。皆様、アリア様がどう思っているかより先に、“誰が最もふさわしいか”で勝手に品定めを始めていますもの」
その指摘に、アリアは小さく息を吐いた。
まさにその通りだった。
悪役令嬢として裁かれた時もそうだった。
今、婚約者候補として測られる時もそうだ。
人は自分自身を見ているようでいて、実際には“そこに置きたい役”しか見ていない。
一時間目と二時間目の間の休み時間、そのことをさらに実感する場面があった。
同学年の令嬢二人が、いかにも何でもない風を装ってアリアの机の近くへやってくる。
「ルーヴェルト様、少しよろしいかしら」
「何でしょう」
「その……晩餐会で殿下とどのようなお話をなさったのか、気になってしまって」
声は穏やかだが、目は笑っていない。
ただの興味ではない。
情報を得たいのだ。
自分たちがどの位置に立つべきかを測るために。
「普通の会話です」
アリアがそう返すと、一人がわずかに眉を寄せる。
「普通、と申しますと?」
「普通は普通です」
「……差し支えない範囲で、もう少し」
「差し支えます」
きっぱり言い切ると、二人の令嬢が同時に言葉を失った。
ほんの少し前までのアリアなら、ここで曖昧に笑ってごまかしただろう。
波風を立てぬように。
相手の家格に配慮して。
けれど今は違う。
答えたい相手にだけ答えればいい。
そう言われたことが、まだ胸の中に残っている。
「……そうですの」
「申し訳ございません」
一応の礼を保ちながらも、令嬢たちの目には明らかな不満が浮かんでいた。
だがそれでも、以前のように強く出てこられない。
今のアリアへどこまで踏み込んでいいのか、まだ誰も測りきれていないからだ。
彼女たちが離れたあと、エレノアが小さく笑った。
「お見事ですわ」
「何が」
「今の断り方です。必要以上に角を立てず、でも一歩も譲らなかった」
「誉められるようなことかしら」
「大ありですわ。今は“教えてもらえるかもしれない”と思わせる方が、よほど危険ですもの」
たしかにそうだ、とアリアも思う。
曖昧な優しさは、付け入る隙になる。
それを最近ようやく理解してきた。
昼休み、令嬢用サロンの空気もまた、朝よりさらに濃くなっていた。
今日は明らかに席の配置まで変わっている。
有力家門の令嬢たちが、アリアの動線へ自然に入り込める位置へ座っているのだ。
偶然にしては出来すぎている。
「もう、陣取り合戦ですわね」
エレノアが呆れたように囁く。
「その表現は少し……」
「正確ですわ」
席へ着いた途端、今度は先日とは別の伯爵令嬢が近づいてきた。
「ルーヴェルト様」
「はい」
「ご気分を害されたら申し訳ないのですけれど……」
そう前置きする時点で、大抵ろくな話ではない。
アリアはそう思いながらも、表情は崩さない。
「何でしょう」
「わたくし、噂というものが嫌いで。だからこそ直接お伺いしたいのです」
伯爵令嬢は、いかにも誠実そうな顔で言った。
「第一皇太子殿下とのこと、どこまで本当なのですか」
サロンの空気がぴたりと止まる。
あまりにも直球で、アリアですら一瞬言葉に詰まった。
「……どこまで、とは」
「ですから、皆様が申しているような、次の婚約者候補としてのお立場なのか、それとも単に今回の件で名誉回復のために気にかけておられるだけなのか」
丁寧な言葉を選んでいる。
だが本質は、“あなたはどの札を持っているのか”を確かめたいだけだ。
アリアはほんの数秒だけ考えた。
ここで否定しきれば、逆に嘘になる。
肯定すれば、それを好きに広げられる。
ならばやはり、答えは一つしかない。
「私にも分かりません」
静かにそう言うと、伯爵令嬢は明らかに拍子抜けした顔をした。
「分からない、のですか」
「はい」
アリアは相手の目を見て続けた。
「殿下がどうお考えか、私が先に決めて語ることはできませんので」
それは正直な返答だった。
そして同時に、今の自分の戸惑いそのものでもあった。
レオンハルトがどういうつもりで自分を隣へ置いているのか。
“手放すつもりがない”とはどういう重さなのか。
それを自分の側から言葉にしてしまうには、まだ怖いものがある。
伯爵令嬢は何か言いかけて、やめた。
その代わりに、別の席から小さく囁きが広がる。
「ご本人も分からないのですって」
「それなら、まだ決まったわけでは……」
「でも、殿下があそこまでなさるのに?」
そのざわめきを聞きながら、アリアは自分の胸が少しずつ重くなるのを感じていた。
この話題は、もう自分の手から離れ始めている。
どれだけ否定も肯定も避けても、周囲は勝手に意味を与える。
放課後、東棟へ呼ばれたアリアは、その重さを抱えたまま小会議室へ向かった。
中にはレオンハルトがいた。
いつも通りの落ち着いた姿。
けれど、アリアが入ってきた瞬間に向けられた視線は、妙に鋭かった。
「何かあったな」
開口一番それだった。
アリアは少し驚き、そしてすぐに納得する。
この人には隠しきれないのだ。
「……どうして、そう思われるのですか」
「顔だ」
即答だった。
「少し疲れている」
「それは、ここ数日ずっとでは」
「今日のは種類が違う」
そう言われると、誤魔化す気が失せる。
アリアは小さく息を吐き、昼のサロンでのことをかいつまんで話した。
婚約者候補という言葉。
探り。
どこまで本当なのかと問われたこと。
レオンハルトは最後まで黙って聞いていた。
そして、話が終わったあとでようやく口を開く。
「当然だな」
そのあまりのあっさりした返答に、アリアは目を瞬かせた。
「当然、ですか」
「昨日の晩餐会を見れば、そういう話になる」
淡々とした口調。
だが、それは否定ではない。
アリアの胸が少しだけ強く鳴る。
「では……」
「それが火種になることも分かっていた」
「分かっていて、あの席に?」
「そうだ」
レオンハルトは迷いなく答えた。
その言葉に、アリアはしばらく何も言えなかった。
分かっていた。
分かった上で、自分をあの席へ置いた。
つまりそれは、ただの衝動でも、その場しのぎでもない。
最初から、この熱が広がることまで含めて選んでいたのだ。
「……殿下は」
少しだけ喉が渇く。
「私が、その火種の中心に立つことをお望みなのですか」
レオンハルトは一拍だけ黙った。
「望む、という言い方は正確ではない」
「では?」
「避けられないなら、正面に置く方がましだ」
その答えは、ひどく彼らしかった。
甘い慰めではない。
けれど、責任から逃げてもいない。
「隠せば、君はいつまでも“都合よく庇われた令嬢”として扱われる」
レオンハルトは続ける。
「だが表へ出せば、少なくとも君自身がどう立つかを選べる」
アリアはその言葉を胸の中で何度か繰り返した。
どう立つかを選べる。
それは、ただ選ばれるだけの存在では終わらないということだ。
「……私には、まだそこまでの覚悟があるのか分かりません」
正直に言うと、レオンハルトはごく静かに頷いた。
「だろうな」
否定しない。
「だが、その覚悟がないままでも、君はもうあそこまで来た」
「それは……殿下が」
「私が隣にいただけだ」
さらりと言う。
だがその言葉の中に、“隣にいること”の重さがあまりに大きい。
「なら今度は」
レオンハルトはアリアを真っ直ぐ見た。
「君が、どうしたい」
その問いに、アリアは息を呑む。
まただ。
また、この人はそこを問う。
周囲がどう思うかではなく。
王家がどう見るかでもなく。
君はどうしたい、と。
少し前までの自分なら、答えられなかった。
今も、簡単には答えられない。
けれど、考えなければならないのだと思う。
選ばれるだけでは終われない。
そう感じ始めているのは、自分自身なのだから。




