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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第39話 静かな独占、見せつける夜

 王都の夜会というものは、昼間の学園よりよほど残酷だ。


 王立学園で交わされる噂はまだ若い。勢いに任せて広がり、次の話題が現れれば比較的あっさり塗り替わる。だが社交界の噂は違う。笑顔の裏に値踏みがあり、何気ない一歩や一言の意味を、何倍にもして記憶する。


 だからこそ、今夜のような夜会は、アリア・フォン・ルーヴェルトにとって油断のならない舞台だった。


 会場は王都でも名の通った伯爵家の広間。高窓には薄い夜の気配が張りつき、無数の燭台が磨き上げられた床へ黄金色の光を落としている。甘すぎない花の香り、磨かれた銀器、遠くで流れる弦の音。すべてが洗練されていて、だからこそ一つひとつの視線が鋭い。


 ルーヴェルト公爵家の名で招かれたアリアは、母クラウディアとともに入場した瞬間から、空気が変わるのを感じていた。


「いらしたわ」

「本当にお綺麗……」

「でも、やはり今は皇太子殿下の方と」

「今夜もご一緒かしら」

「まさか、そこまで露骨には――」


 露骨には、という囁きに、アリアは心の中で小さく苦笑した。


 もう十分すぎるほど露骨なことが、これまで何度も起きている。

 悪役令嬢として切り捨てられた夜も。

 皇太子の隣へ置かれた晩餐会の夜も。


 それでも人は、次はどうなるのかを見たがる。見たがるというより、確かめたがるのだ。今やこの令嬢が、どこまで“皇太子の側の人間”なのかを。


「今夜は、あまり一人にならないように」


 クラウディアが視線を前へ向けたまま言う。


「はい」


「そういう意味での“一人”ではないのよ。分かるわね?」


 その言い方に、アリアは少しだけ目を瞬いた。


 母は、ただ物理的に孤立するなと言っているのではない。

 周囲の視線の中で、余計な隙を見せるな。

 “誰の隣にいる令嬢か”という空気の中で、曖昧な立ち位置に見えるな。

 そういう意味だ。


「分かっています」


 アリアが答えると、クラウディアはそれ以上何も言わなかった。


 だが会場へ入ってしばらくも経たぬうちに、その意味はすぐ現実になった。


 若い令嬢たちの輪へ軽く挨拶を交わしていた時だ。二人、三人と、いかにも偶然を装って有力家門の令嬢たちが近づいてくる。会話の入口は天気や花の話であっても、結局はそこへ行きつく。


「ルーヴェルト様は、最近ずいぶん王宮へ足を運ばれているのでしょう?」

「皇太子殿下とお話しされる機会も多いのでは?」

「やはり、晩餐会でのお席は特別な意味が……?」


 誰も真正面からは聞かない。

 だが、聞いていることは全部同じだ。


 あなたは今、どこまで彼に近いのか。

 あなたは本当に“次”なのか。

 そこを測りたくてたまらない。


「お答えできることはあまりありません」


 アリアは静かに返す。


「王宮のことは、私の側から軽々しく申し上げるべきではありませんので」


 正しい返答だ。

 だが正しすぎて、彼女たちの好奇心を満たしはしない。


 令嬢たちの笑みが少しだけ硬くなる。

 そして、そのうちの一人がわずかに踏み込んだ。


「でも、殿下はルーヴェルト様へ随分とお心を砕いていらっしゃるように見えますわ」


 それは、ほとんど確認に近い言葉だった。


 アリアが返答を考えた、その時。


「そう見えるのなら、そういうことだろう」


 低い声が、会話の輪へ静かに割って入った。


 全員が振り向く。


 レオンハルトだった。


 黒に近い礼装に身を包んだ姿は、夜会の煌びやかな光の中でも不思議なほどぶれない。華やかさよりも、静かな圧で周囲を支配する人だと、改めて思う。


 令嬢たちの表情が一斉に変わる。


 驚愕。動揺。羞恥。

 自分たちが今、何を聞いていたのか、その張本人に見られた気まずさがありありと出ていた。


 だがレオンハルトは、それを責め立てるような真似はしない。ただ当然の顔でアリアのすぐ近くまで来ると、彼女へだけ視線を向けた。


「待たせたか」


「いいえ」


 短く返した声が、思ったより柔らかくなったことに、アリアは自分で気づく。


 レオンハルトはそのまま令嬢たちを一瞥し、必要最低限の礼だけを返す。


「楽しんでいたところを邪魔したな」


 言葉は丁寧だが、空気は明らかに違った。


 邪魔したな、と言いながら、最初からここを終わらせるつもりで来ている。

 そのことは、誰の目にも分かっただろう。


 そして次の瞬間、彼はあまりにも自然に、アリアの背へ手を添えた。腰に触れるか触れないかの位置。決して下品ではない。だが、社交界の目で見れば十分すぎるほど意味のある距離だ。


 令嬢たちの呼吸が一斉に止まるのが分かった。


「少し、付き合え」


 レオンハルトの言葉は簡潔だった。


「はい」


 アリアもまた、もう迷わず答える。


 広間の中央寄りへ向かって歩き出す二人を、令嬢たちの視線が追う。

 羨望も、嫉妬も、驚きも全部そこにあった。

 だが今夜のアリアは、以前のようにただ浴びるだけではなかった。


 この人は、見せつけているのだ。

 隠すつもりがないと。

 そして、自分がどこへいるべきかを、周囲へ分からせるために。


 そう思った瞬間、胸の奥が静かに熱を持つ。


「……ずいぶん分かりやすいことをなさいますね」


 並んで歩きながら小さく言うと、レオンハルトは前を向いたまま答えた。


「分からせる必要がある」


「令嬢方に、ですか」


「それだけではない」


 それだけではない。

 その言い方に、アリアは少しだけ鼓動を速める。


「では、誰に」


「全員にだ」


 レオンハルトの声は低く、揺らがない。


「君へ近づく連中にも。王都にも。社交界にも」


 そして一拍置いて、さらに静かに続けた。


「君自身にも」


 アリアは息を呑んだ。


 君自身にも。

 その意味を理解するまでに、ほんの数秒かかった。


 自分が、彼の隣にいることを。

 彼がそれを当然と思っていることを。

 そして、その当然の中へ自分を少しずつ引き込もうとしていることを。


「……私には、もう十分伝わっております」


 ようやくそう言うと、レオンハルトはわずかに目を細めた。


「まだ足りない」


 また、そう返す。


 足りない。

 どこまで。

 何に対して。


 聞き返せないまま、二人は広間の中心近くへ出る。


 ちょうどその時、楽団が曲を変え、軽い舞踏の時間が始まる合図が広間を包んだ。いくつかの男女の組が自然と前へ出る。若い貴族たちにとっては、見られながら距離を測るための絶好の場でもある。


 レオンハルトが立ち止まる。


「踊れるか」


 その問いはあまりにも自然だった。


 アリアは心臓がひとつ大きく鳴るのを感じる。


「……少しは」


「なら十分だ」


 逃げ道がない。


 断る理由がないことも分かっている。

 この場で彼と踊ることの意味も、嫌というほど分かる。

 それでもアリアは、差し出された手を見つめたあと、そっと自分の手を重ねた。


 次の瞬間、広間のざわめきがひときわ大きく揺れた。


 第一皇太子が、アリア・フォン・ルーヴェルトを伴って舞踏へ出る。


 それは、晩餐会の隣席よりもさらに強い意味を持っていた。


「今夜は、相当騒がしくなりますね」


 位置を整えながら、アリアは小声で言った。


「今さらだろう」


「たしかに」


 音楽が始まる。


 レオンハルトの手は無駄なく正確で、リードも強引ではない。だが迷いもない。

 その動きに導かれて一歩踏み出すたび、アリアは周囲の視線が自分たちへ集まるのを感じていた。


 見せつける夜。

 まさにその言葉通りだ。


 けれど不思議なことに、今夜のアリアはその視線に押し潰されるだけではなかった。

 怖い。

 恥ずかしい。

 落ち着かない。

 それでも、彼の手の確かさがあるだけで、少なくとも立っていられる。


「緊張しているな」


 レオンハルトが低く言う。


「……殿下は、こういう時にあまり気遣いのある言葉を選びませんね」


「そうか」


「そうです」


 その短いやり取りが可笑しくて、アリアは少しだけ息を緩めた。


 するとレオンハルトがほんのわずかに口元を動かす。


「だが、今の方がましな顔だ」


 その言葉に、アリアは目を上げる。


 またそれだ。

 顔色でも、緊張でも、すぐ見抜く。


「殿下は本当に……」


「何だ」


「よく見ていらっしゃるのですね」


 レオンハルトは答えなかった。

 ただ、次の旋回でアリアの距離をほんの少しだけ近く保つ。


 それだけで十分だった。


 周囲の令嬢たちにとって、この一曲は長く感じられたに違いない。

 有力家門の娘たちがどれほど探りを入れようと、どれほど自分を売り込もうと、今この場の中心で皇太子が手を取っているのはアリアだけなのだから。


 曲が終わり、ゆっくりと距離が開いた時、アリアは頬が少し熱いことに気づいた。


 視線のせいだけではない。

 この人の隣にいる時間そのものに、少しずつ慣れ始めてしまっている自分がいる。


「……大勢に見せるには、十分すぎるほどでした」


 小さくそう言うと、レオンハルトは平然と返した。


「まだ足りないかもしれない」


「本気ですか」


「君を狙う連中は、諦めが悪そうだからな」


 確かにその通りだと、アリアは思わず苦笑した。


 ただ守られるだけではない。

 ただ選ばれるだけでもない。

 こうして“見せつけられる”ことにすら、自分は少しずつ意味を見出し始めている。


 それは甘やかなようでいて、どこか危うい変化だった。

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