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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第33話 王宮の余韻、社交界の熱

 王宮主催の公式晩餐会が終わった翌朝、王都の空気は目に見えない熱を帯びていた。


 春の終わりのやわらかな陽射しが石畳を照らし、街路樹の若葉が風に揺れている。けれど、その穏やかな景色の裏で、人々の口は忙しく動いていた。


 第一皇太子レオンハルト・エーヴェルシュタインが、王宮の公式晩餐会でアリア・フォン・ルーヴェルトを隣席へ置いた。

 しかも隠すでも、曖昧に濁すでもなく、あまりにも当然のように。


 その事実は、一夜にして社交界を燃やすには十分すぎた。


 ルーヴェルト公爵家の朝食室でも、いつもより早い時間から使者や書簡が行き交っていた。表向きは時候の挨拶や、晩餐会の感想を装っている。だがその実態は、“今どうなっているのか”“ルーヴェルト家はどこまで把握しているのか”を探るための探りだった。


 クラウディアはそれらを淡々と仕分けしながら、娘へ言った。


「今日は特に、学園で騒がしいでしょうね」


「そうでしょうね」


「昨日までの手のひら返しとは、また少し違うものになるわ」


 アリアは紅茶のカップへ視線を落とした。


 昨日まで。

 たしかに、汚名が剥がれ始めてから、学園の空気は急速に変わった。

 避けていた者たちは気まずそうに会釈し、噂を信じた者たちは曖昧な謝罪を口にし始めた。


 けれど、昨日の晩餐会で起きたことは、それ以上だ。


 悪役令嬢ではなかったというだけではない。

 皇太子の隣に置かれる令嬢になった。

 その意味は、令嬢たちにとっても、貴族たちにとっても、あまりに重い。


「……少し、疲れそうです」


 正直にそう言うと、クラウディアはわずかに口元を和らげた。


「疲れるでしょうね。でも、見ておきなさい」


「何を、ですか」


「人がどれだけ簡単に立場で態度を変えるかを」


 その言葉に、アリアは何も返せなかった。


 分かっている。

 分かっているけれど、今からそれを正面で受けることを思うと、胸が少しだけ重くなる。


 登校した王立学園は、案の定いつも以上にざわついていた。


 正門をくぐった瞬間から、これまでとは質の違う視線が一斉に集まる。

 悪意や疑念ではない。

 驚き、羨望、探り、計算。

 そのすべてが混じった、ひどく落ち着かない視線だった。


「見た? 本当にルーヴェルト様……」

「皇太子殿下の隣に……」

「もう決まりなのかしら」

「でも、そこまで露骨に?」

「まさか、次の……」


 “次の婚約者候補”という言葉が、最後まで形にならずに消える。


 だが、皆がそこを思っているのは明白だった。


 アリアは顔を上げたまま歩いた。

 うつむけば、きっとまた何か別の意味を与えられる。

 堂々としすぎれば、今度は“調子に乗っている”と言われるかもしれない。

 何をしても、誰かの物語に利用される可能性はある。


 だからせめて、自分が選んだ姿勢だけは崩さない。

 それが今のアリアにできる唯一の防御だった。


 教室の扉を開けると、空気が一瞬で止まった。


 これまで何度も味わってきた沈黙だ。

 だが今朝のそれは、以前のような“悪役令嬢が来た”という空気ではない。

 むしろ、“どう接するべきか分からない重要人物が来た”という緊張に近い。


 数秒遅れて、ざわめきが戻る。


 そしてすぐに、分かりやすい変化が現れた。


「お、おはようございます、ルーヴェルト様」

「昨日の晩餐会、素晴らしかったですわ」

「とても……お綺麗でした」


 今までなら遠巻きに見ていた令嬢たちが、今日はぎこちないながらも自分から声をかけてくる。


 アリアは立ち止まった。


 嬉しくないわけではない。

 けれど、胸の奥にまず浮かぶのは複雑さだった。


 少し前まで、彼女たちは自分を悪役令嬢として見ていた。

 冷たくて怖い女、平民を虐めた女、婚約破棄されても当然の女として。

 それが、皇太子の隣に座った一夜で変わる。


 人は、こんなにも早く態度を変える。


「……おはようございます」


 必要最低限の礼を返すと、彼女たちはほっとしたような顔をした。

 それがまた、少しだけ苦い。


「アリア様!」


 そこへエレノアがやって来た。今日はいつも以上に目を輝かせている。


「おはようございます」


「おはよう、エレノア」


「もう朝から大変ですわ。皆様、晩餐会の話ばかりですもの」


 エレノアは机の横へ来るなり、声を潜めた。


「今朝だけで三人の令嬢に聞かれましたわ。“皇太子殿下とは、いつからあのようなご関係で?”って」


 アリアは思わず息を詰まらせる。


「……ご関係、とまで言われたの」


「ええ。しかも、ものすごく探るようなお顔で」


 エレノアはそこで少しだけ声を落とした。


「でも、昨日までとは別の意味で危険ですわ」


「どういうこと?」


「今までは“悪役令嬢だから遠ざける”でしたけれど、これからは“皇太子殿下に近いから探りたい”になりますもの」


 その指摘は、ひどく現実的だった。


 たしかにそうだ。

 汚名が剥がれたからといって、気楽になるわけではない。

 むしろ今度は、皇太子の隣にいる令嬢として見られる。

 それは別の種類の圧を伴う立場だ。


「少し前まで悪役令嬢。今日は次の婚約者候補」


 アリアは小さく呟いた。


「忙しいわね」


 その一言に、エレノアが思わず吹き出しそうになる。


「本当に、その通りですわ」


 授業が始まっても、生徒たちの気もそぞろなのが分かる。

 教師すら、アリアへ向ける態度が微妙に変わっていた。


 以前は慎重で、どこか距離があった。

 今は、必要以上に丁寧なのだ。


 それが悪意でないと分かるだけに、かえって居心地が悪い。

 人が“重要な家の令嬢”へ向ける礼儀。

 だがその礼儀は、アリア個人へ向けられているようでいて、実際には“皇太子の隣に置かれた令嬢”という立場へ向けられている。


 一時間目が終わったあと、廊下へ出ると、さらにそれは顕著だった。


「ルーヴェルト様、昨日は本当に素敵でしたわ」

「殿下とは、前から親しくしていらしたのですか?」

「学園内で何かお力になれることがあれば……」


 今まで話したこともない令嬢たちが、急にそんなことを言ってくる。


 アリアは礼を返しながらも、胸の内ではひどく冷静だった。


 これが、母の言っていたことだ。

 人は立場で態度を変える。

 昨日までは遠ざける対象、今日は近づきたい対象。

 その差は、本人の中身よりも“どこに立っているか”で決まる。


 昼休み、令嬢用サロンへ入ると、もうそれは露骨だった。


 これまでは空いていた窓際の席にさえ、今日は先に誰かが座っている。だがアリアが入ると、その令嬢は慌てて立ち上がった。


「ルーヴェルト様、こちらどうぞ」

「いいえ、構いません」

「でも……」


 座りたくないわけではない。

 けれど、“譲られた席”へ当然のように座ることに抵抗がある。


 結局、エレノアが横からさらりと別の席を確保し、二人はそこへ落ち着いた。


「もう見ていて頭が痛くなりますわね」


 エレノアが小声で言う。


「ええ」


「誰も彼も、急に“近くにいたい”顔ですもの」


「昨日までは“近づきたくない”顔だったのにね」


 その返しに、エレノアは少しだけ眉を下げた。


「……やっぱり、腹が立っていらっしゃるでしょう」


 アリアはフォークを置き、少し考えた。


 腹が立っていないわけではない。

 だが、それ以上に疲れるのだ。

 人の手のひら返しを、真正面から見せつけられることに。


「怒っているというより、覚えてしまったのだと思う」


「何を、ですか」


「この人たちは、私を見ているようで、見ていないということを」


 エレノアは何も言わなかった。

 その沈黙が、アリアにはありがたかった。


 見ているのは、立場。

 婚約者であるかどうか。

 悪役令嬢であるかどうか。

 皇太子の隣にいるかどうか。

 そういうものばかりだ。


 だからこそ、余計にレオンハルトの存在が胸に残る。

 彼だけは最初から、“空気”ではなく“不自然さ”を見ていた。

 だから今、自分が少しも揺れずにいられるのは、その違いを知ってしまったからだ。


 昼休みの終わり頃、サロンへ一人の年長令嬢が入ってきた。


 侯爵家の娘で、社交界でも評判の高い美貌の令嬢だ。彼女は周囲のざわめきを当然のように受け流しながら、まっすぐアリアの方へ歩いてきた。


「ルーヴェルト嬢」


「はい」


「少しよろしいかしら」


 その穏やかな笑みの下に、冷たい探りがあるのを、アリアはすぐに感じ取った。


 来た。

 これが次の段階なのだ。


 悪役令嬢の汚名が剥がれたら終わりではない。

 今度は“皇太子の隣にいる令嬢”をめぐる熱が動き出す。


「何でしょう」


 静かに返すと、令嬢は上品に微笑んだ。


「昨夜のこと、皆さまとても驚いておりますの。第一皇太子殿下は昔から、あまり個人的なお心を見せない方でしたから」


「そうでしょうね」


「ええ。ですから……ルーヴェルト嬢は、どのようにして殿下のお心を掴まれたのか、少し気になってしまって」


 その問いは、穏やかな形をしている。

 だが本質は、“あなたは何者なのか”“どういう札を持っているのか”を測る探りだ。


 アリアはその視線を受け止めながら、ゆっくり答えた。


「掴んだ、という表現は正確ではないかと」


 令嬢の笑みが、わずかに止まる。


「では?」


「私も、まだ分かっておりませんので」


 曖昧な返し。

 だが、それが今は最も適切だと分かっていた。


 下手に否定すれば嘘になる。

 認めすぎれば新しい噂を煽る。

 ならば、“まだ分からない”と答えるしかない。


 令嬢はほんの一拍だけアリアを見つめ、それからにこやかに笑みを戻した。


「そう。では、これから楽しみにしておりますわ」


 言葉は柔らかい。

 けれど、その裏にあるのは明らかな牽制だった。


 アリアが何か答える前に、彼女は優雅に一礼して去っていく。


 エレノアがすぐに小さく舌打ちした。


「始まりましたわね」


「ええ」


「完全に“次の婚約者候補”として見ていますもの」


 アリアは窓の外へ視線を向けた。


 青い空。揺れる木々。

 少し前まで、自分は“悪役令嬢”として噂の中心にいた。

 今は、“皇太子の隣にいる令嬢”として別の熱の中心にいる。


 位置は変わった。

 けれど、楽になったわけではない。


 ただ一つ違うのは、今の自分には、もう自分だけを見失わないようにしようという意思があることだった。


「アリア様」


 エレノアが静かに言う。


「大丈夫ですか」


 その問いに、アリアは少し考えてから答える。


「たぶん、少しずつ慣れるしかないのでしょうね」


「嫌なことに、ですの?」


「いいえ。選ばれるということに」


 その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほどしっくりきた。


 選ばれる。

 誰かの都合で悪役にされるのではなく、今度ははっきりと“隣に置く”と示される。

 それは甘いようでいて、重たい。

 そして、その重さを受ける覚悟が、自分にはまだ足りないのかもしれない。


 放課後、学園の玄関へ向かう途中で、また多くの視線を浴びた。

 だが今朝よりも少しだけ、それに耐えられる気がする。


 人の手のひらは返る。

 それを知った。

 それでも、自分を見失わずにいられるかどうか。

 これから問われるのは、きっとそこなのだ。


 王宮の余韻はまだ熱を帯びたまま、学園全体を揺らしている。

 そしてその熱は、やがてもっとはっきりした形で、アリアの前へ現れることになる。

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