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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第32話 もう、離してくれません

 晩餐会が終盤へ差しかかる頃、王宮の夜は最も美しくなる。


 大広間の燭台は柔らかな金色に灯り、磨かれた床へ光を落とす。弦楽器の穏やかな音色が流れ、貴族たちの会話も、最初の張りつめた探り合いから少しだけほどけていく。


 だがアリア・フォン・ルーヴェルトの胸の内は、最後まで落ち着くことがなかった。


 レオンハルトの隣席に座る。

 それだけで十分に大きいのに、その間ずっと彼は少しも態度をぶらさなかった。

 誰かが来れば当然のようにアリアを紹介し、遠巻きに見る視線があれば無視し、まるで最初から彼女がそこにいるのが正しいとでもいうように扱った。


 それがどれほど大きなことか、アリアは痛いほど分かっている。


 今夜一晩で、王都の空気はまた大きく変わるだろう。

 そしてその変化は、もう後戻りできない。


 やがて、食後の歓談が始まった頃、レオンハルトが低く告げた。


「少し来い」


 それが命令なのか誘いなのか、考える余地もない声だった。


 アリアは静かに立ち上がり、彼の後に続く。

 広間を抜け、回廊へ出ると、夜の空気が少しひんやりとして頬を撫でた。窓の外には王宮の庭園が広がり、水面のような月光が石畳へ落ちている。


 二人きりになると、アリアはようやく深く息を吐いた。


「緊張していたな」


 振り返らないまま、レオンハルトが言う。


「……はい」


「よく最後まで崩れなかった」


「殿下が隣にいてくださいましたから」


 そう答えてから、自分でも驚くほど素直な言葉だったと思う。

 けれど今夜の空気の中では、それを飾る方が不自然だった。


 レオンハルトはそこで足を止め、ゆっくりと振り返った。


 回廊に差し込む月明かりが、その横顔をいつもより柔らかく見せていた。


「君は、今日で十分に示した」


「何を、ですか」


「切り捨てられる側ではないことを」


 アリアの胸が静かに熱を持つ。


 自分が示した。

 ただ守られたのではなく、自分の足でも立ったのだと、彼はそう言っている。


「……少しだけ、怖かったです」


 正直に言うと、レオンハルトはごくわずかに目を細めた。


「それでも出た」


「はい」


「それでいい」


 短い言葉。

 だが、その一つひとつが胸の奥へまっすぐ落ちる。


 しばし沈黙があった。

 遠くから、晩餐会の音楽が微かに届いてくる。

 ここだけが広い王宮の中で切り取られた別世界のようだった。


「ルーヴェルト嬢」


 不意に、レオンハルトがそう呼んだ。


 いつもと同じようでいて、どこか少し違う響き。


「はい」


「君を悪役にした者たちは、もう排した」


 アリアは息を呑む。


 排した。

 その言い方は静かだったが、もう後戻りのない決着を含んでいる。


「だから次は、君自身が選べ」


 胸が大きく鳴る。


「……選ぶ、とは」


 分かっている。

 分かっているのに、聞かずにはいられなかった。


 レオンハルトは一歩だけ近づく。

 決して無遠慮ではない。

 だが、公の場ではない距離だった。


「君はこれから、公爵令嬢として、社交界の令嬢として、もう一度立ち直る」


「はい」


「その時、誰の隣に立つかも、いずれ決めることになる」


 その言葉に、アリアは指先が少し震えるのを感じた。


 逃げ場のない言い方だ。

 それでいて、強制ではない。

 あくまで選べと言う。


「殿下は……」


「私は」


 今度はレオンハルトが遮った。


「もう、君を手放すつもりがない」


 アリアは完全に言葉を失った。


 月の光。

 夜の冷たい空気。

 遠い音楽。

 それら全部が一瞬、遠のいたように感じる。


 手放すつもりがない。

 あまりにも真っ直ぐで、あまりにも重い言葉だった。


 甘い囁きではない。

 飾った愛の告白でもない。

 けれど、だからこそ、この人らしくて、そしてどうしようもなく胸に刺さる。


「……それは」


 ようやく声を絞り出す。


「命令でしょうか」


 レオンハルトの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


「命令なら、もう少し楽だったかもしれないな」


 その返しに、アリアの胸がさらに熱くなる。


 命令ではない。

 選べと言う。

 その上で、自分はもう離すつもりがないと言う。


 それはあまりにずるい。

 あまりに優しくて、あまりに重い。


「私は……」


 アリアは言葉に詰まる。


 少し前まで、自分は悪役令嬢として切り捨てられかけていた。

 誰にも信じてもらえず、泣くことすら一人きりでしかできなかった。

 けれど今、目の前には、自分の傷も痛みも見た上で、それでも離すつもりはないと言う人がいる。


 その事実が、胸をいっぱいにしてしまう。


「今すぐ答えろとは言わない」


 レオンハルトは静かに言った。


「だが、覚えておけ」


 そして最後の一歩だけ、わずかに距離を詰める。


 近い。

 それでも怖くはなかった。

 むしろ、ここまで来てなお逃げない自分に、アリアは少し驚いていた。


「君がどこへ立とうとしても、私はもう見て見ぬふりはしない」


 低く、確かに告げられる。


「だから、覚悟しておけ」


 それは脅しのようでいて、どうしようもなく甘かった。


 アリアは思わず笑ってしまいそうになる。

 泣きそうにもなる。

 その両方をこらえながら、ゆっくりと顔を上げた。


「……ずいぶん、不自由な選択肢ですね」


「そうかもしれない」


「横暴です」


「今さらだろう」


 その短いやり取りが、ひどく自然だった。


 悪役令嬢の汚名を着せられた日から、ここまで長いようで短かった。

 傷は消えない。

 婚約破棄も、噂も、なかったことにはならない。

 それでも、その先にこうして手を差し伸べられる未来があるとは、あの時の自分は思わなかった。


 アリアは胸の前でそっと手を重ねる。


「……覚悟は、簡単ではありません」


「知っている」


「それでも」


 少しだけ息を整える。


「逃げる気は、もうありません」


 レオンハルトはその返答を聞いて、ほんの一瞬だけ目を細めた。

 それが笑みに近いものだと気づくまで、少し時間がかかった。


 広間の方から、晩餐会の終わりを告げるような音楽が流れ始める。

 戻らなければならない。

 けれど、その前にレオンハルトは最後にひとつだけ言葉を落とした。


「君は、もう悪役令嬢ではない」


 アリアはまっすぐ彼を見る。


「はい」


「なら、次は」


 低く、確かに。


「私の隣でどう生きるかを考えろ」


 その言葉とともに、夜の空気がゆっくりと彼女の胸へ入り込んだ。


 悪役令嬢の汚名は剥がれた。

 そして今、新しい物語が始まろうとしている。


 それは、もう二度と離してくれない皇太子殿下と共に歩むかもしれない未来の物語だった。

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