第29話 元婚約者の謝罪
それは、雨の匂いがしそうでまだ降らない、重たく湿った午後だった。
授業を終えたアリア・フォン・ルーヴェルトは、エレノアと共に東棟へ向かう途中で、回廊の先に立つ人影を見つけた瞬間、静かに息を止めた。
セドリック・ヴァルディス。
第二王子であり、かつての婚約者。
あの夜会の日、自分を公の場で断罪し、婚約破棄を言い渡した男。
彼は以前と同じように整った姿で立っていた。だが、その立ち方だけで、もう以前の彼とは違うと分かる。肩から余計な自信が落ち、代わりに言葉を選び損ねた者の硬さが滲んでいる。
「……今度は何でしょう」
アリアが静かに問うと、セドリックはその一言だけで少し傷ついたような顔をした。
以前なら、その表情を見てアリアの方が罪悪感を覚えたかもしれない。
だが今は、そうはならない。
エレノアが露骨に警戒した目を向ける。
「アリア様、わたくし――」
「近くにいて」
アリアは短く言った。
「でも、少しだけ二人で話すわ」
エレノアは不満を隠そうともしなかったが、結局は頷き、数歩離れた柱の近くへ下がった。聞き耳を立てるつもりなのが分かる。それがありがたかった。
セドリックは以前のように「少し話がしたい」と曖昧に切り出さなかった。
今日は最初から違った。
「……謝りに来た」
その一言に、アリアは一瞬だけ目を瞬いた。
ようやく、その言葉が出たのか。
だが、胸は思ったほど揺れなかった。
遅すぎる。
その感覚が、まず先に来たからだ。
「何に対して、ですか」
問い返すと、セドリックは苦く息を吐いた。
「全部、だ」
「便利な言い方ですね」
思ったままを返すと、彼はわずかに顔をしかめる。
それでも怒らない。怒れる立場ではないと分かっているのだろう。
「夜会で、確証もないまま君を追い詰めたこと」
「ええ」
「婚約を、公の場で、あんな形で解いたこと」
「はい」
「君の言葉を……聞かなかったこと」
最後の一つだけ、声が少し低くなった。
アリアは黙って彼を見ていた。
その言葉を、自分はどれだけ聞きたかっただろう。
どれだけ、最初に聞けていたら違っただろう。
でも、もう違わない。
「私は、君がしていないと言っていたのに」
「はい」
「それでも、自分が見たいものの方を信じた」
セドリックはそこで初めてまっすぐアリアを見た。
「……すまなかった」
真っ直ぐな謝罪だった。
ようやく、と思う。
けれど同時に、今さらだとも思う。
アリアはしばらく何も言わなかった。
回廊の向こうで、誰かの足音が遠ざかる。窓の外では風が木々を揺らし、薄曇りの光が石床を鈍く照らしていた。
「謝罪は、受け取ります」
やがてアリアはそう言った。
セドリックの表情が少しだけ緩む。
だが、アリアの言葉はそこで終わらなかった。
「でも、それで戻るものはありません」
その一言で、彼の顔が再び強張る。
「分かっている」
「いいえ、殿下はまだ分かっておられません」
アリアは静かに、しかしはっきりと告げた。
「私が失ったものは、名誉だけではありませんでした」
セドリックは黙る。
「信じていたものです。婚約そのものよりも、“この人だけは私の話を聞いてくれるかもしれない”と思っていた気持ちを失いました」
言葉にすると、胸の奥にまだ薄い痛みが残っているのが分かる。
だがその痛みはもう、アリアを縛る鎖ではない。
ただ、確かにあった傷としてそこにあるだけだ。
「だから、謝っていただいても」
一度だけ息を整える。
「私はもう、あの頃の私には戻れません」
セドリックの目に、はっきりとした後悔が浮かんだ。
「……やり直すことは」
「ありません」
即答だった。
それが出来たことに、アリア自身が少し驚く。
かつてなら、言えなかった。
王子との婚約を失う重みを考え、家のことを思い、自分の感情を飲み込んで曖昧にしたはずだ。
でも今は違う。
もう、自分を偽ってまで繋ぎ止める理由がない。
「殿下が後悔なさるのは自由です」
アリアは続けた。
「けれど、その後悔を受け止める義務は、もう私にはありません」
その言葉に、セドリックはほとんど反論できなかった。
ただ、苦しそうに息を吐き、拳を握る。
「……そうか」
声は低く、掠れていた。
「本当に、遅かったんだな」
アリアは答えなかった。
その代わりに、静かに彼を見つめた。
遅かった。
その通りだ。
けれど、それを自分の口から重ねて言う必要はない。彼自身が一番よく分かっているだろうから。
「ただ、一つだけ」
アリアは言った。
「今後、同じように泣いている方だけを見て、黙って立っている方を切り捨てることは、なさらないでください」
セドリックは目を見開いた。
そこに込めた意味は重い。
それは彼個人への苦情ではなく、彼の在り方そのものへの警告だった。
「……肝に銘じる」
ようやく絞り出したような声だった。
それで会話は終わっていた。
アリアは一礼し、踵を返す。
今さら引き止める声はない。
むしろセドリックは、その背を見送ることしかできなかった。
柱の陰で待っていたエレノアが、すぐに追いついてくる。
「どうなりましたの」
「謝罪されたわ」
「……で?」
「受け取った。でも、終わり」
その一言で全部を察したのだろう。エレノアは深く頷き、それから少しだけ誇らしそうにアリアを見た。
「よくおっしゃいました」
「そうかしら」
「ええ。今さら遅い、をちゃんと伝えるのは案外難しいのですわ」
その通りかもしれないと、アリアは思う。
責めることよりも、曖昧に優しさを残さず線を引く方が、ずっと難しい。
けれど今日は、それができた。
過去の自分なら出来なかったことを、今の自分は出来たのだ。
そのことが、小さな自信になって胸の内に残る。
回廊を歩きながら、アリアはふと窓の外を見た。
雲の切れ間から、薄く陽が差し始めている。
元婚約者の謝罪は、遅すぎた。
だが、その遅すぎる謝罪を受けてもなお、自分の足で前を向けるのだと知れたことは、決して無意味ではなかった。




