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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第30話 静かな嫉妬

 元婚約者の謝罪から二日後、アリアは東棟の小会議室へ呼ばれた。


 理由は簡単な報告だとユリウスは言ったが、彼の口元にはどこか含みのある気配が漂っていた。だからアリアは、部屋の扉を開けた瞬間に、少しだけ身構えていた。


 中にはレオンハルトがいた。


 窓際の机へ向かって書類を読んでいる。

 いつものように背筋がまっすぐで、余計な動きがない。

 だが、部屋に入ったアリアへ目を上げた時、その視線の温度がほんの少しだけ低いように感じた。


「来たか」


「はい」


 アリアは席につく。

 ユリウスは書類を整えながら、わざとらしく何でもない風を装っていた。

 それが逆に怪しい。


「エーデルハイム侯爵家への正式な処置は進んでいる」


 レオンハルトは事務的に話し始めた。


「学園側もルーヴェルト嬢への扱いを改める方針だ。ローゼン嬢については、退学までは行かないが、厳しい監督下に置かれる」


「そうですか」


「噂も、今後は逆向きに広がるだろう」


 そこまでは、いつもの彼だった。

 静かで、簡潔で、必要なことだけを言う。

 だが次の瞬間、彼は書類を閉じて、何でもないように尋ねた。


「昨日、セドリックと何を話した」


 アリアは一瞬、返答に詰まった。


 ああ、やっぱり。

 その問いが来るのだと、心のどこかで分かっていた。


「……ご存じだったのですか」


「見ていたわけではない」


 レオンハルトは表情を変えない。


「だが、向こうが動きそうな空気はあった」


 それだけで気づくのだから、相変わらず鋭い。


 アリアは息を整えて答えた。


「謝罪されました」


 その一言に、レオンハルトの指先がほんのわずかに止まる。


 止まったのは一瞬だ。

 だが、アリアは見逃さなかった。


「謝罪を受けて、どうした」


 変わらぬ声色。

 だが、ほんの少しだけ硬い。


「受け取りました」


 そこまで言うと、レオンハルトの視線が静かに細くなる。


 ユリウスは書類を持ったまま、いかにも聞いていませんという顔で少しだけ視線を逸らした。

 その態度が逆に、全部聞いているのだと物語っている。


「……それだけです」


 アリアが続けると、今度はレオンハルトの眉がわずかに動いた。


「戻る気はないのだな」


 確認のような問いだった。


 アリアは、その言葉の中に何が含まれているのかを、少し考えてから答える。


「ありません」


 きっぱりと言い切ると、レオンハルトは短く「そうか」とだけ返した。


 だがその一言のあと、部屋の空気がほんの少しだけ緩んだ。

 今まで張っていた見えない糸が、少しだけほどけたような感覚。


 アリアはそれに気づいてしまい、胸の奥が小さく波立つ。


 この人、もしかして。


 そう思った瞬間、ユリウスが咳払いをした。


「殿下」


「何だ」


「少々分かりやすすぎます」


 アリアの頬が一気に熱くなる。


 レオンハルトは一瞬だけ露骨に不機嫌な顔をした。


「黙れ」


「承知しております」


 承知していない顔で、ユリウスは淡々と書類をまとめている。

 アリアは今さらながら、自分がどれほど際どい会話の中へ放り込まれているのかを理解して、どうにも落ち着かなくなった。


 レオンハルトは気を取り直すように話を戻した。


「セドリックがどう言おうと、今後君があちらへ引きずられることはない」


「はい」


「必要なら、私の方で線を引く」


 その言い方は冷静だった。

 だが、“必要なら”ではなく“そうするつもりだ”という響きがあった。


 アリアは少しだけ視線を落とす。


「殿下は……」


「何だ」


「少し、お怒りでしたか」


 問うと、レオンハルトはほんの短く沈黙した。


「当然だ」


 前にも聞いた返答だった。

 だが今日は、その理由が少しだけ違って聞こえる。


「君を一度切り捨てた者が、今さら迷いを抱えて近づく」


 レオンハルトは淡々と続ける。


「不愉快だ」


 あまりに率直で、アリアは言葉を失う。


 不愉快。

 それは王家の都合でも、公正さの問題でもない。

 もっと個人的な響きだった。


 ユリウスがまた口を挟む。


「殿下、その言い方では十分に嫉妬と――」


「ユリウス」


 低い声で呼ばれ、側近は両手を上げるような仕草をした。


「失礼いたしました。以後、口を慎みます」


 慎まない顔である。


 部屋の空気が妙に落ち着かなくなり、アリアは自分の鼓動が少しずつ速くなるのを感じていた。


 嫉妬。

 その言葉を真正面から受け止めるには、まだ準備が足りない。

 けれど、完全に否定できる空気でもない。


「……ご迷惑をおかけしたわけでは、ないでしょうか」


 思わずそんなことを言ってしまうと、レオンハルトは呆れたように目を細めた。


「そこでなぜそうなる」


「いえ、その……」


「君は時々、妙な方向へ遠慮をするな」


 その指摘に、アリアは反論できなかった。


 たしかにその通りだ。

 守られることに慣れていない。

 それどころか、少しでも誰かに気を遣われると“自分が面倒を持ち込んでいるのではないか”と考えてしまう。


 レオンハルトは少しだけ声を落とした。


「迷惑なら、最初から動かない」


 その一言が、胸へ深く落ちる。


 前にも似たようなことを言われた。

 だが今は、その意味が少しだけ違って響く。


「では……なぜ」


 思わず尋ねかけて、アリアははっとする。

 その先を聞いてしまったら、今ここで何かが決定的に変わってしまう気がした。


 レオンハルトは彼女の迷いに気づいたらしい。

 だが、追い詰めるようなことはしなかった。


「今はまだ、そこまで急がなくていい」


 静かな声だった。


「君の名誉が戻り、周囲の整理がつくまでが先だ」


 そう言ってから、彼はわずかに視線を逸らす。


「その上で、必要なら言う」


 必要なら。

 きちんと言う、と前にも言っていた。


 その言葉の続きが何なのか、もう分かり始めている自分がいる。

 だからこそ、アリアの胸は熱く、落ち着かなく、そして不思議と嬉しかった。


 ユリウスが空気を読んだのか読んでいないのか、唐突に別の書類を差し出す。


「話を戻しますが、王宮主催の公式晩餐会への招待が正式に届きました」


 その一言で、アリアは現実へ引き戻された。


「晩餐会……?」


「ええ」


 ユリウスは淡々と説明する。


「今回の件を受け、表向きには“名誉回復”に近い意味合いもあります。何より、殿下があなたを公的にどう位置づけるかを、社交界へ示す場になります」


 アリアは息を呑む。


 それはつまり、茶会よりさらに大きな場だ。

 王宮主催。

 そこへ招かれるということ自体が、“切り捨てられた元婚約者”ではなく、“再び公の場へ立つ資格のある令嬢”として見なされている証になる。


 レオンハルトは静かに言った。


「出られるか」


 問いかけは短い。

 だが、その奥には“無理にとは言わない”という含みもあった。


 アリアは少し考えた。


 怖くないわけがない。

 公の場はまだ痛い。

 視線も、噂も、完全には消えていない。


 それでも――。


「出ます」


 答えた瞬間、自分の中で何かが定まった。


 逃げない。

 悪役令嬢の汚名が剥がれ始めた今だからこそ、自分の足で公の場へ立つ。

 その意味は大きい。


 レオンハルトはほんのわずかに頷いた。


「そうか」


「……その時も」


 アリアは少し迷ってから言った。


「隣に、いてくださるのですか」


 自分で言ってから、ひどく大胆なことを聞いた気がして頬が熱くなる。


 だがレオンハルトは、驚いたような顔をするでもなく、当然のように答えた。


「そのつもりだ」


 たったそれだけだった。

 けれど、その一言でアリアの胸は十分すぎるほど満たされた。


 静かな嫉妬。

 不器用な庇護。

 そして、公の場での並び立ち。


 それらは全部、まだ名前をつけ切れないまま、確実に二人の間へ積み上がっている。


 窓の外には、夕暮れの光が静かに落ちていた。

 元婚約者の謝罪は終わった。

 後ろを見る時間も、もうすぐ終わる。


 次に来るのは、選ばれる令嬢として前へ出るための舞台だ。


 アリアは胸の前でそっと指を重ねながら、少しだけ微笑んだ。


 怖さはまだある。

 けれど今は、それよりも先へ進む気持ちの方が、ほんの少しだけ強くなっていた。

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