第28話 悪役令嬢の汚名、剥がれ始める
黒幕令嬢の本性が暴かれた翌日、王立学園の空気は明らかに変わっていた。
それは劇的に、ではない。
けれど確実に。
アリア・フォン・ルーヴェルトが正門をくぐった時、向けられる視線はまだ多かった。
だが、その中身が違う。
昨日までのような、冷たい悪役を見る目ではない。
今は、“どう接していいか分からない相手”を見る目になっている。
「お、おはようございます……ルーヴェルト様」
「……おはよう」
下級生の令嬢がぎこちなく会釈してきたのを見て、アリアは一瞬だけ足を止めそうになった。
つい数日前まで、彼女たちは露骨に距離を取っていた。
今は、それをどこか申し訳なく思っているのかもしれない。
だが、だからといって簡単に何かが戻るわけではない。
教室へ入ると、会話が一瞬止まった。
それ自体は変わらない。
けれど今度は、止まったあとに生まれる沈黙の意味が違う。
何人かの生徒は、明らかに視線を逸らした。
後ろめたさがあるのだろう。
今まで一緒になって噂を信じ、空気を作り、アリアを遠ざけてきたことへの。
「アリア様」
エレノアがすぐに近づいてくる。
「朝から皆様、ひどく気まずそうですわ」
「ええ」
「ようやく報いを受けているのだと思えば、少しは胸がすくはずなのに……」
エレノアはそこで言葉を切り、アリアの顔をのぞき込んだ。
「あなた、あまり嬉しそうではありませんのね」
アリアは答える前に、少し考えた。
嬉しくないわけではない。
名誉が戻り始めている。
悪役令嬢という一方的な役割が剥がれ始めている。
それはたしかに、自分にとって大きな救いだ。
だが同時に、胸の中には別の感情が残っていた。
「……傷がなくなったわけではないもの」
ぽつりとそう答えると、エレノアの目が柔らかくなる。
「そうですわね」
それだけで十分だった。
そう。
汚名は剥がれ始めた。
けれど、ついこの前まで自分を悪く見ていた人たちが、今さら気まずそうに目を逸らしたからといって、受けた痛みが消えるわけではない。
それを、今のアリアは痛いほど知っている。
一時間目の前、担任教師が教室へ入ってきて、いつもよりゆっくりと生徒たちを見回した。
「皆さんにお伝えします」
その声音に、教室全体が静まる。
「昨日の事情確認を受け、ローゼン嬢に関する件については、一部生徒の誘導と不正が強く疑われています。したがって、これまでルーヴェルト嬢へ向けられていた一連の噂について、軽率な断定は誤りであったと学園側は見ています」
はっきりと言葉にされた。
軽率な断定は誤り。
それはつまり、学園が正式に“アリアを悪役令嬢と見なしていた空気”へ待ったをかけたということだ。
教室の中で、何人かが目を伏せる。
誰かが小さく息を呑む。
そして、アリアの胸の奥では、ゆっくりと何かがほどけていく感覚があった。
遅い。
けれど、必要な言葉だった。
授業が始まり、休み時間になると、今度はぎこちない謝罪が少しずつやってきた。
「あの、ルーヴェルト様……」
「以前は、その……ごめんなさい」
「わたくし、ちゃんと確かめもせず……」
どの謝罪も、完璧ではない。
自分の加担を真正面から認める者は少なく、皆どこか曖昧だ。
けれど、それが現実なのだろうとアリアは思った。
人はそんなに綺麗には謝れない。
とりわけ、自分が“空気に流されて誰かを傷つけた側”だと認めるのは難しい。
「……お気になさらず」
そう返すと、相手はかえって困ったような顔をする。
たぶん彼女たちは、アリアがもっと怒るか、冷たく突き放すと思っていたのだろう。
だが、怒鳴る気にはなれなかった。
許しているわけではない。
ただ、ここで感情を爆発させても、もう何も取り戻せないと知っているだけだ。
休み時間ごとに少しずつ、態度を変える生徒が現れる。
それを見ながら、アリアは改めて痛感していた。
人の心は、こんなにも簡単に傾く。
だからこそ、自分は“悪役令嬢”にされてしまった。
そして今度は、逆向きに傾き始めている。
その軽さが、少しだけ怖かった。
昼休み、令嬢用サロンへ入ると、昨日まで微妙な距離を置いていた令嬢たちが、今日はさすがに無視はできないといった様子で会釈してきた。
以前のように自然ではない。
だが、露骨な避け方はなくなっている。
エレノアが席に着くなり、小声で言った。
「完全に流れが変わりましたわね」
「ええ」
「このまま一気に立場が戻るはずですわ」
アリアはナプキンを膝へ広げながら、静かに首を振った。
「戻る、というより……新しく作り直すしかないのだと思う」
エレノアが目を瞬かせる。
「作り直す?」
「同じには戻れないわ。皆が私を悪役だと思った事実も、夜会で婚約を解かれた事実も、消えないもの」
その言葉に、エレノアは黙った。
アリアは窓の外を見る。
春の終わりの木々が風に揺れている。
こんなに穏やかな景色の中で、自分の生活はたった数週間で崩れ、また別の形で組み直されようとしている。
「でも」
アリアは続けた。
「悪役令嬢のままで終わらないなら、それでいいわ」
それが今の正直な気持ちだった。
完璧に元へ戻ることはできない。
けれど、歪められたままでは終わらない。
その違いは大きい。
放課後、東棟の回廊でユリウスに会った時、彼もまたどこか表情を和らげていた。
「学園側の通達、効果はあったようですね」
「ええ。皆さん、急に気まずそうです」
「それが普通です。自分たちのしてきたことを、ようやく少しだけ意識し始めたのでしょう」
ユリウスの返しは辛辣だったが、妙に正確でもあった。
「殿下は?」
アリアが尋ねると、ユリウスは小さく肩をすくめた。
「かなり忙しくなっております。王宮側への整理と、侯爵家への正式な動きの準備で」
「……そうですか」
そう答えながら、胸のどこかが少しだけ寂しいような感覚になる自分に気づいて、アリアは内心で戸惑った。
会えなくて残念なのか。
そんなふうに思うとは、少し前の自分なら想像しなかった。
ユリウスはその微妙な表情の変化に気づいたらしいが、あえて何も言わなかった。代わりに、やや事務的な口調で告げる。
「ただ、殿下は言伝を」
「何でしょう」
「“今日は少しはましな顔をしているだろうな”と」
アリアは思わず目を見開く。
「……それは、言伝なのですか」
「ええ。あの方なりには」
ユリウスのわずかな笑みに、アリアの頬が少しだけ熱くなった。
ましな顔。
言い方はあまり甘くない。
けれど、その不器用さがむしろ彼らしい。
「そう、お伝えください」
「何と」
「……たぶん、少しだけ」
そう答えると、ユリウスは小さく一礼した。
帰りの馬車の中、アリアは窓へ映る自分の顔を見た。
たしかに少しだけ、以前と違う。
疲れも傷も消えてはいない。
だが、目の奥に前よりほんの少しだけ光が戻っている気がした。
悪役令嬢の汚名は、ようやく剥がれ始めた。
けれど、それは終わりではない。
ここからどう生き直すのか。
誰を信じて、何を自分の足場にするのか。
その問いが、今の彼女には以前よりずっと現実的に迫っていた。
それでも、少しだけ前を向ける。
そう思えたのは、痛みが消えたからではない。
痛みごと見てくれる人が現れたからだ。




