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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第23話 焦る黒幕、雑になる偽装

 翌日から、学園の空気はさらに妙な方向へ変わっていった。


 ベアトリス・フォン・エーデルハイム侯爵令嬢の周囲が、露骨に騒がしくなったのだ。


 これまでは、彼女はもっと上手だった。

 噂を広げる時も、誰かを誘導する時も、あくまで上品に、直接は言わず、しかし聞いた側が自然と同じ結論へ行き着くような言葉選びをしていた。


 だが、今は違う。


 焦っている。

 それが、言葉の端々から透けて見える。


 朝、教室へ入ったアリア・フォン・ルーヴェルトは、席へ着く前にその異変へ気づいた。


「わたくし、はっきり見ましたのよ」

「え……本当ですの?」

「ええ。ルーヴェルト様が、以前ローゼンさんへ本を投げつけていた場面を」


 その言葉に、周囲の令嬢たちがざわめく。


 アリアは足を止めた。

 エレノアが横で「ほら来ましたわ」とでも言いたげに眉をひそめる。


 ベアトリスは扇を優雅に持ちながら、いかにも言いにくそうな顔で続けていた。


「ただ、今となっては申し上げづらくて……でも、真実を伏せたままでは、可哀想な方がまた傷ついてしまうでしょう?」


 あまりにも分かりやすい。

 そして、あまりにも遅い。


 今さら“本を投げつけた”などという、これまで一度も出ていなかった明確な加害を言い出すこと自体が不自然だった。


 数日前までなら、周囲はそれでも飛びついただろう。

 だが今は違う。

 令嬢たちの顔には好奇心だけでなく、露骨な戸惑いが混じっている。


「でも、それって……いつのことですの?」

「前にもおっしゃっていませんでしたわよね」

「そんな大きなこと、今まで黙っていたのですか?」


 問い返され、ベアトリスの目がほんのわずかに揺れた。


 アリアはそれを見逃さなかった。


 そうだ。

 向こうは今、以前のように“空気だけで押し切れない”段階に来ている。

 だからこそ、分かりやすい証拠めいた話を足したくなる。

 だが急ぎすぎれば、かえって雑になる。


「どうかなさいましたの、ルーヴェルト様」


 ベアトリスがようやくアリアの存在に気づいたような顔をして、わざとらしく微笑んだ。


「まさか、聞いていらしたとは」


「聞こえておりましたので」


 アリアは静かに答えた。


 ここで感情的になれば、また“追い詰められたから怒った”という物語へされる。

 そう分かっているから、声は不思議なほど落ち着いていた。


「本を投げつけた、とのことですが」


 教室の空気がぴんと張る。


「ええ……わたくし、たしかに見た記憶が」


「でしたら、その本の題名を教えていただけますか」


 ベアトリスが口をつぐむ。


 周囲の令嬢たちも、一斉に彼女を見る。


「題名、ですの?」


「本を投げつけたとまでおっしゃるのなら、何の本だったか、いつのことだったか、場所はどこだったか、お分かりになるでしょう?」


 淡々とした口調のまま、アリアは言葉を重ねた。


「図書室ですか。廊下ですか。それとも教室ですか」


 ベアトリスの顔から、わずかに血の気が引く。


 エレノアがすぐ横で小さく息を呑み、それから唇を噛んで笑いをこらえるような顔をした。


 そうだ。

 今のは、相手が用意していない問いだ。


 噂を流す側は、細部を詰めない。

 “それらしく見える物語”だけあればよかったのだから。


「そ、それは……かなり前のことで、細かくは……」


「かなり前、とはいつ頃でしょう」


 アリアはさらに問う。


「ローゼンさんが入学してすぐですか。それとも最近ですか」


 そこまで言うと、ベアトリスは明らかにたじろいだ。


「ルーヴェルト様、ずいぶんと高圧的ですのね」


 ようやく返ってきたのは、そんな言葉だった。


 アリアは心の中で小さく息を吐く。


 逃げた。

 つまり、証言そのものを支えられないのだ。


「高圧的ではありません」


 アリアは静かに言う。


「事実確認をしているだけです」


 その一言が、教室中へ静かに広がった。


 以前までなら、この“静かさ”は冷たいと見られただろう。

 だが今は違う。

 ベアトリスの証言があまりに曖昧であることの方が、皆の目につき始めている。


 教師が入ってきて、このやり取りはそこで打ち切られた。だが空気は変わっていた。


 一時間目の途中、アリアはふと視線を感じて顔を上げる。

 それは今までのような“悪役令嬢を見る目”ではなかった。

 むしろ、“あれは少し変ではないか”と考え始めた者の目だ。


 それがどういう意味を持つか、アリアは痛いほど分かっていた。


 向こうの偽装は、雑になり始めている。


 昼休み、エレノアとサロンへ向かう途中で、彼女はとうとう堪えきれずに言った。


「見ました? 見ましたわよね? 今の!」


「ええ」


「本を投げつけたですって。今までそんなこと一度も出てきませんでしたのに!」


 興奮したエレノアの声に、アリアは少しだけ肩の力を抜いた。


「焦っているのでしょう」


「焦っているにしても、あまりにも下手ですわ」


「下手だから、皆も気づき始めたのよ」


 エレノアははっとして、それから深く頷いた。


「ええ。その通りですわ」


 サロンで昼食を取っていると、今度は別の令嬢が二人、近くの席でわざと聞こえるように囁いていた。


「ベアトリス様、さすがに少し無理がありましたわよね」

「でも、今さら引けないのでは?」

「それにしても、急に“本を投げた”なんて……」

「むしろ、最初からそう言えばよろしかったのに」


 その会話に、アリアは内心で小さく頷く。


 そうなのだ。

 もし本当にそんな決定的な場面を見ていたなら、なぜ今まで言わなかったのか。

 そこへ誰もが引っかかり始めている。


 昼食の途中、ユリウスから短い書き付けが届いた。


 『追加の偽装が始まったようだな。追い詰められた証拠だ。乗るな』


 たった二行だけだったが、それで十分だった。


 こちらの見立ては間違っていない。

 向こうは本当に追い詰められている。

 だから、雑な新証言で流れを取り戻そうとしている。


「乗るな、ですって」


 小さく呟くと、エレノアが目を細める。


「その通りですわ。向こうは、アリア様に怒ってほしいのです。取り乱してほしいのです」


「ええ。そうすれば、“ほらやっぱり怖い人”で済むものね」


 アリアは窓の外を見た。


 春の終わりの空は青い。

 あれほど暗く見えた日々の中で、今は少しだけ景色に色が戻ってきている気がする。


 だが、油断はできない。

 雑になる偽装は、時に予想外の形で刺さる。

 うまくいかなくなった側は、次に何をしてくるか分からないのだ。


 午後の授業が終わった頃、アリアは教室の後方で小さな揉め事が起きているのに気づいた。


 ベアトリスが、先ほどの“本の件”を別の令嬢にも話していたのだが、その令嬢が明らかに困っていた。


「でも、わたくしその時、同じ図書室におりましたわ」

「え?」

「少なくとも、そんな騒ぎはありませんでしたけれど……」


 その一言で、近くにいた生徒たちの空気が変わる。


 ベアトリスの顔が固まる。


「そ、それは……あなたが気づかなかっただけでしょう」

「そうかもしれませんけれど、少なくとも本が飛ぶほどなら、わたくし耳に入ったと思いますの」


 今度こそ明らかな綻びだった。


 アリアはそこへ近づかなかった。

 見ているだけにとどめた。

 だが、何もしなくても向こうが崩れ始めているのが分かる。


 焦れば焦るほど、偽装は荒くなる。

 荒くなれば、今まで空気に流されていた者ですら違和感を覚える。


 放課後、レオンハルトから呼び出しがあり、小会議室へ向かうと、彼は開口一番こう言った。


「来たな」


「はい」


「向こうが新しい証言を足し始めた」


 すでに知っているのか、とアリアは一瞬驚いたが、すぐに納得する。彼らが見ていないはずがない。


「ベアトリス様です」


「だろうな」


 レオンハルトは書類を机へ置きながら続ける。


「それも、雑だ」


 その言葉に、アリアは思わず少しだけ口元を緩めそうになった。

 同じことを思っていたからだ。


「侍女の件で焦ったのですね」


「そうだ。さらに学園内の空気が揺れたことで、“分かりやすい悪事”を足さねばならなくなった」


 ユリウスも隣で頷く。


「ですが、そのおかげで逆に助かりました。曖昧な印象の話より、具体的な嘘の方が崩しやすい」


 その通りだった。


 冷たく見えた、怖く感じた、圧があった。

 そういう曖昧な言葉は証明できない。

 だが、“本を投げつけた”のような具体性を持てば、それは一気に事実確認の対象になる。


 そして事実確認に弱い嘘は、崩れる。


「ここから先は、向こうがどこまで雑になるかの勝負だ」


 レオンハルトの目は冷たく冴えていた。


「追い詰められた者は、失敗を重ねる」


 アリアはその言葉を胸の中で繰り返した。


 少し前まで、自分がずっと追い詰められる側だった。

 何を言っても届かず、何をしても悪く見られ、どこにも逃げ場がなかった。

 だが今、立場は少しずつ反転し始めている。


「……怖いですね」


 ぽつりとアリアが言うと、レオンハルトが視線を向けた。


「何がだ」


「相手が追い詰められることが、です」


 自分でも意外な言葉だった。


「ざまぁしたいわけではないのです。ただ……追い詰められた者が、もっと何かしてくる気がして」


 レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。


「その感覚は正しい」


 アリアの指先がわずかに強張る。


「だから、明日からはさらに単独行動を避けろ」


「はい」


「向こうは、もう綺麗には負けられない段階だ」


 その一言が、ひどく現実的だった。


 綺麗には負けられない。

 だからこそ、もっと醜く、もっと雑な手を打ってくるかもしれない。


 それでも、アリアの胸には以前ほどの暗さはなかった。

 怖い。

 だが、それだけではない。

 崩れ始めた偽りを、この目で見ているからだ。


 悪役令嬢という物語は、ようやく向こうの手を離れ始めている。

 その事実が、彼女を静かに支えていた。

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