第24話 侍女の証言
その日の夜、事態は大きく動いた。
逃げていた侍女が確保されたのだ。
知らせがアリアへ届いたのは、ルーヴェルト公爵家の夕食を終えたあとだった。ユリウスからの使いが急ぎ足で訪れ、簡潔に告げる。
「身柄を押さえました。殿下がお呼びです」
夜の外出は本来なら好ましいことではない。
だがクラウディアは事情を聞くと、短く「行きなさい」とだけ言った。
「ここで遅れてはなりません」
「はい」
「ただし、冷静に。事実を聞きなさい。感情で飲まれないこと」
母の言葉に頷き、アリアは急ぎ外套を羽織った。
向かった先は、王宮ではなく、学園近くにある皇太子側の管理施設だった。表向きは使われていない離れのような建物だが、中には最低限の取調室と応接室が整っているらしい。
夜の回廊をユリウスに案内されながら、アリアの胸は静かに強く打っていた。
「……どのような状況なのですか」
「侍女は逃走先の宿で確保されました」
ユリウスの声はいつも通り落ち着いている。
「完全に観念したわけではありませんが、少なくとも“自分一人ではない”ことは認めています」
それだけで十分大きい。
アリアは息を整える。
「ミレイユさんも、関わっているのですか」
「関わっております」
はっきりした返答だった。
「ただし、主導したのか、流れに乗ったのか、その線引きはまだ必要です」
部屋に通されると、そこにはレオンハルトがいた。
深い色の上着を羽織り、机の上にはすでに何枚もの書類が広げられている。夜だというのに疲れた様子はほとんど見えない。ただ、目だけがいつも以上に冴えていた。
「来たか」
「はい」
アリアが一礼すると、彼は無駄なく本題へ入った。
「侍女は、自分がベアトリス・フォン・エーデルハイム侯爵令嬢側の使用人から金を受け取ったことを認めた」
アリアは息を呑む。
やはり、ベアトリス。
「内容は三つ」
レオンハルトが指先で書類を示す。
「一つ、ローゼン嬢を“守るべき可哀想な少女”として印象づけるため、周囲へ噂を流したこと。
二つ、君の筆跡に似せた手紙を机へ入れる手伝いをしたこと。
三つ、夜会で第二王子が動くよう、事前に“以前から嫌がらせがあった”という空気を固めていたこと」
それぞれの言葉が、冷たくはっきりと胸へ落ちる。
やはり全部、作られていた。
偶然でも誤解でもなく、きちんと段階を踏んで、アリアを悪役令嬢に仕立て上げるための流れが組まれていたのだ。
アリアはしばらく黙っていた。
驚きもあった。
だがそれ以上に、胸の奥ではある種の静かな怒りが広がっていく。
ここまで周到に、自分の名誉は奪われたのだ。
「……ミレイユさんは」
ようやく絞り出した声は、思っていたより落ち着いていた。
「どこまで知っていたのですか」
レオンハルトは一度だけユリウスを見る。
ユリウスがその問いを引き取り、淡々と答えた。
「侍女の証言では、ローゼン嬢本人も“手紙が入ること”は知っていた可能性が高いです。ただし、侯爵令嬢側からは“少し脅かす程度で、ここまで大事にはならない”と説明されていたようです」
アリアは目を伏せる。
少し脅かす程度。
なんと軽い言葉だろう。
その“少し”で、自分は公の場で婚約破棄され、悪役令嬢の汚名を着せられ、学園中から視線を浴びたのだ。
「ローゼン嬢は、完全に無垢ではない」
レオンハルトが静かに言う。
「だが、ベアトリス側に利用された部分もある」
アリアは小さく頷いた。
そうだろうと思う。
ミレイユは、ただ操られた人形ではない。
同時に、全てを一人で設計した悪女でもない。
その中途半端さが、一番厄介で、一番現実的だった。
「ベアトリス様は、何を」
「第二王子妃の座を狙った」
今度はユリウスではなく、レオンハルトが言った。
「そして、君への劣等感もあった。才、家格、婚約。すべてを備えた公爵令嬢を引きずり下ろし、自分は安全な位置から“正義の味方”を演じる。その構図なら得るものが多いと考えたのだろう」
アリアは静かに息を吐いた。
納得できる。
だからこそ腹立たしい。
「これで学園側への提示材料は十分だ」
レオンハルトは机上の書類を整えた。
「まだベアトリス本人の認否はある。だが、少なくとも手紙の偽装と噂の誘導は確定的になる」
つまり、もう“ルーヴェルト嬢が悪いのでは”という曖昧な物語では済まされない。
明日から、学園の空気はまた大きく変わるだろう。
その時、アリアの胸には不思議な感情があった。
嬉しい。
ほっとする。
悔しい。
悲しい。
全部が混ざっている。
名誉は戻るかもしれない。
だが、最初から傷つかなかったことにはならない。
そのことだけは、どれだけ真実が明らかになっても変わらない。
「……顔色が悪いな」
不意にレオンハルトが言った。
アリアは顔を上げる。
「大丈夫です」
「そう見えない」
いつものやり取りだった。だが今夜のその一言は、少しだけいつもより低く、近かった。
「少しだけ、考えてしまって」
「何を」
「真実が出ても、全部が元に戻るわけではないのだと」
正直に言うと、レオンハルトはしばし黙った。
それから、驚くほど率直に答えた。
「戻らない」
アリアは苦笑しかける。
慰めてはくれないのだ、この人は。
だが、その代わりに嘘も言わない。
「婚約破棄も、噂も、なかったことにはならない。君が受けた傷も消えない」
「……はい」
「だが、“悪役令嬢”の汚名だけは剥がせる」
その言葉に、アリアの胸の奥が静かに熱くなった。
全部は戻らない。
けれど、一番歪められた部分だけは正せる。
それで十分だと思わなければ、きっと前へ進めない。
「私」
アリアは机の上で指先を重ねる。
「たぶん、もう昔のままではいられません」
レオンハルトは黙って聞いている。
「何も知らずに、婚約者として正しく振る舞っていればいいと思っていた頃には戻れない。でも、それでも……戻れないなら、戻れないなりに立つしかないのでしょうね」
その言葉を口にしながら、自分の中で何かが定まるのを感じた。
守られることに慣れていない令嬢。
悪役令嬢の汚名を着せられた令嬢。
そのどちらでもあるまま、ここから立つしかない。
レオンハルトはゆっくりと頷いた。
「その通りだ」
たったそれだけの言葉だった。
だが、その一言に妙な力がある。
アリアはふと、彼の手元へ視線を落とした。書類を押さえる長い指先。その手が、今までどれだけ自分のために動いてきたのかを思うと、胸の内が静かにざわつく。
レオンハルトはそれに気づいたように、少しだけ視線を和らげた。
「今日のところは戻れ」
「はい」
「明日から忙しくなる。学園も、社交界も」
「……ええ」
きっとそうだろう。
真実が出れば、今度はそれがまた別の形で広がる。
今まで自分を疑っていた者たちが、ぎこちなく態度を変えることもあるはずだ。
それもまた、別の意味で痛い。
部屋を出る前、アリアは立ち止まり、もう一度だけ振り返った。
「殿下」
「何だ」
「……ありがとうございます」
今度は“まだ早い”とは言われなかった。
代わりにレオンハルトは、ほんの少しだけ目を細めて言う。
「礼を言われるのは、君の名誉が戻ってからでいい」
その言い方が、いかにも彼らしくて、アリアは思わず小さく笑ってしまった。
「では、その時に」
「そうしろ」
夜の回廊へ出ると、窓の外には淡い月がかかっていた。
侍女の証言。
崩れた偽装。
黒幕の名。
すべてがようやく形になり始めている。
悪役令嬢にされた少女は、ようやく自分を縛っていた物語の綻びを、この手で確かめるところまで来たのだ。




