第22話 皇太子の牽制
レオンハルトが現れた瞬間、廊下の空気は別物になった。
先ほどまでそこにあったのは、元婚約者同士の不穏で私的な緊張だった。だが今は違う。第一皇太子と第二王子が向き合う、王家の空気そのものだ。
少し離れた場所にいたエレノアですら、思わず姿勢を正している。通りかかった生徒たちも、ただならぬ気配を察して距離を取った。
「どういう意味ですか、兄上」
先に口を開いたのはセドリックだった。以前のような余裕ある声音ではない。明らかに硬さが混じっている。
レオンハルトは感情を交えない声で答える。
「聞こえた通りだ」
「私とアリアの話に、口を挟まないでいただきたい」
「それは難しい」
あまりにもあっさりした返答に、セドリックの表情が険しくなる。
「なぜです」
「君がもう、私的な話として済ませられる段階を越えているからだ」
その言葉は冷たかった。だが、正確だった。
夜会の公開断罪。婚約破棄。王都に広がった噂。
どれも、もはや“元婚約者同士の問題”では済まない。
アリア一人の名誉だけでなく、王家そのものの判断も問われている。
セドリックは一歩踏み込みかけたが、レオンハルトの視線に射抜かれて止まる。
「君は、確証もなく公の場で婚約を解いた」
静かな声が続く。
「その上で今さら曖昧な迷いを抱えて彼女へ近づくなら、余計に混乱を広げるだけだ」
アリアは息を呑んだ。
“曖昧な迷い”。
まさにその通りだった。
謝るでもなく、認めるでもなく、ただ少し早計だったかもしれないと言うだけ。
それは傷を癒す言葉ではなく、むしろさらに抉るだけの迷いだった。
「私は混乱を広げるつもりなどありません」
セドリックが低く言い返す。
「ならば、何をするつもりだ」
「……話を」
「話してどうする」
そこで初めて、セドリックは言葉に詰まった。
アリアはその沈黙を聞きながら、胸の奥で何かが決定的に冷めていくのを感じていた。
そうなのだ。
彼はまだ、自分が何をすべきか分かっていない。
謝罪したいのか、関係を繋ぎたいのか、自分の誤りを軽くしたいのか、そのどれも曖昧なまま近づいてきた。
レオンハルトは一切表情を変えずに言う。
「君が今優先すべきは、自分の判断の誤りを整理することだ。彼女に迷いを押しつけることではない」
セドリックの顔が一瞬だけ強張った。
図星なのだろう。
それでも彼は食い下がる。
「兄上は、彼女の側へ立ちすぎです」
その言葉に、廊下の空気がぴんと張る。
アリアの鼓動も一瞬だけ強くなる。
だがレオンハルトは眉一つ動かさなかった。
「君が反対側へ立ちすぎた結果だ」
ぴしゃりと返された一言は、鋭くも冷静だった。
「彼女は一方的に疑われ、切り捨てられた。私はその不均衡を是正しているに過ぎない」
「それを、庇っていると言うのです」
「庇う?」
レオンハルトの声がほんのわずかに低くなる。
「では問うが、君はいつ彼女の話をまともに聞いた」
セドリックが黙る。
「いつ、彼女の言葉を証拠と同じ重さで扱った」
返答はない。
「泣く者の涙に即座に意味を見出し、泣かぬ者の痛みを無いものにしたのは、君だ」
その一言に、アリアの胸が大きく揺れた。
自分ではうまく言葉にしきれなかったことを、レオンハルトはこうも正確に言い当てるのかと。
泣かぬ者の痛みを、無いものにした。
まさにそうだった。
セドリックの表情に、明らかな動揺が走る。
「……兄上には分からない」
ようやく絞り出した反論は、苦しいものだった。
「私は、目の前で怯えている者を見過ごせなかっただけだ」
「それ自体は咎めない」
レオンハルトは言う。
「だが、片方を守るために、もう片方を確認もなく断罪するのは愚かだ」
愚か。
その言葉が廊下に落ちた瞬間、セドリックの顔から血の気が引いた。
兄にそう断じられるのは、彼にとってかなりの打撃なのだろう。だが、それは当然の言葉でもあった。
アリアは一歩も動かず、そのやり取りを見ていた。
少し前なら、胸が痛んだかもしれない。幼い頃から見知った婚約者が兄に詰められる姿に、複雑な感情を抱いたかもしれない。
だが今は違う。
哀れみがゼロではない。
それでも、それ以上に“自分が受けたものはこうして言葉にされるべきだった”という納得の方が強い。
レオンハルトはそこで初めて、アリアへわずかに視線を向けた。
「行くぞ」
命令のような短い言葉。
けれどその中には、“これ以上ここに立たせない”という意志があった。
アリアは小さく頷く。
「はい」
セドリックが思わず声を上げる。
「待ってくれ、アリア」
その響きに、以前なら反射的に振り返っただろう。
けれど今のアリアは違った。
立ち止まりはした。
だが振り返る前に、すでに胸の中で答えは決まっていた。
「何でしょう」
静かに問うと、セドリックは一瞬だけ言葉を探したあと、苦しげに言った。
「私は……まだ」
そこまでだった。
まだ何なのか。
まだ話したいのか。
まだ誤解だと思いたいのか。
まだ自分の中で君を切り捨てきれていないのか。
肝心のところが言葉にならない。
アリアは彼を見て、ようやく本当に理解した。
この人は、後悔し始めている。
だがその後悔は、まだ自分の中で完結していない。
だから彼は今、誰よりも中途半端なのだ。
「……その続きを、私に言う必要はありません」
アリアはそう告げた。
セドリックが息を呑む。
「殿下ご自身で、お考えください」
それは拒絶というより、切り離しだった。
あなたの迷いは、もう私のものではない。
自分で引き受けてください。
そういう意味の。
レオンハルトはそのやり取りを黙って見ていたが、次の瞬間、極めて自然な動作でアリアの歩幅に合わせて歩き出した。
まるで最初からそう決まっていたかのように。
廊下を進むその数歩だけで、周囲の空気がまた変わる。
皇太子が、明確にアリアの側へ立っている。
それも一時的な保護ではなく、ごく当然のように。
その事実は、物陰から様子をうかがっていた生徒たちにもはっきり伝わっただろう。
少し離れた場所まで来ると、エレノアが急ぎ足で追いついてきた。
「今の、見ましたわ?」
「見ていたのでしょう?」
「もちろんですわ」
エレノアは小声ながらも、ひどく興奮した様子で言う。
「殿下、まるで宣言みたいでしたわ」
アリアの頬が少しだけ熱くなる。
宣言。
そう見えたのは、たぶんエレノアだけではない。
レオンハルトはそれを聞いていたはずだが、何も言わなかった。ただ、いつものように無駄のない足取りで進んでいく。
だが、廊下の角を曲がる直前、低く一言だけ落とした。
「君は、もうああいう曖昧な言葉に付き合う必要はない」
アリアは思わず目を上げた。
その横顔はいつものように冷静だ。
けれど言葉の端には、ほんのわずかな苛立ちが滲んでいるようにも聞こえる。
「……殿下は、少しお怒りですか」
恐る恐る尋ねると、レオンハルトは一拍置いて答えた。
「当然だろう」
その返答が、妙にまっすぐで、アリアの心を打った。
自分のために怒ってくれる人がいる。
それがこんなにも強く、あたたかく感じるものだとは知らなかった。
放課後の学園の空は、少しずつ夕焼けへ傾き始めていた。
今さら遅い対話を終えた元婚約者は、きっとまだ立ち尽くしている。
けれどアリアはもう、その背中を振り返らなかった。
その必要がなくなったからだ。
目の前には、曖昧さではなく、はっきりとこちらへ手を伸ばす人がいる。
それだけで、もう十分に未来の向きが変わってしまっているのだと、アリアは静かに知っていた。




