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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第21話 今さら遅い対話

 その日の放課後、アリア・フォン・ルーヴェルトはいつものようにエレノアと連れ立って教室を出ようとしていた。


 夕刻の光が窓から斜めに差し込み、石造りの廊下に長い影を落としている。授業を終えた生徒たちは三々五々に散っていき、どこか疲れたような、けれど一日の終わりに緩んだ空気が流れていた。


 そのはずだった。


「アリア」


 聞き慣れた声が廊下の先から届くまでは。


 アリアの足が、ほんのわずかに止まる。


 振り向かなくても分かった。セドリック・ヴァルディス。第二王子であり、つい先日まで自分の婚約者だった男。


 エレノアが隣で息を呑み、小さく眉をひそめる。


「……今さらですわね」


 その呟きは、たぶんアリアの心の中の声とほとんど同じだった。


 セドリックは数歩の距離を置いたところで立ち止まっていた。以前と変わらぬ、整った顔立ちと華やかな立ち姿。だがその表情からは、いつもの余裕がかなり削げ落ちている。


「少し、話がしたい」


 そう言われて、アリアは静かに彼を見返した。


 少し前までなら、この声を聞くだけで心が揺れただろう。婚約者としての義務感も、信じてほしかったという未練も、まだ胸の奥に残っていたはずだ。


 けれど今は、違う。


 揺れないわけではない。

 ただ、その揺れがもう“戻りたい”という種類ではないと分かるのだ。


「私に、ですか」


「他に誰がいる」


 少し苛立ったように返してから、セドリック自身も今の言い方が悪かったと気づいたのだろう。すぐに眉間を押さえ、低く息を吐く。


「……悪い。そういうつもりじゃない」


 エレノアが一歩前へ出ようとするのを、アリアはそっと手で制した。


「大丈夫よ」


「ですが」


「大丈夫」


 言ってから、アリアはセドリックへ向き直る。


「少しだけなら」


 その返答に、セドリックの目に一瞬だけ安堵がよぎる。だが、アリアはその小さな変化すら、前のようには嬉しいと思えなかった。


 エレノアが露骨に不服そうな顔をしたものの、「近くにおりますわ」とだけ言って少し離れた窓辺へ移る。


 廊下の一角。人の行き来はあるが、会話の内容までは聞こえにくい程度の距離。公の場すぎず、二人きりでもない。今の二人にはちょうどいい場所だった。


 セドリックは少し黙ってから、ようやく口を開く。


「……最近のことだ」


「ええ」


「その、私は……少し早計だったかもしれないと思っている」


 ずいぶん回りくどい言い方だ、とアリアは内心で思う。


 謝罪をしに来たのなら、最初に言うべき言葉はもっと別にあるはずだ。

 だが彼はまだ、そこへたどり着けないのだろう。自分の非を認めるには、まだプライドが邪魔をしている。


「そうですか」


 アリアが淡々と返すと、セドリックの表情が少しだけ苦くなる。


「……君は、本当に変わらないな」


「何がですか」


「そうやって、何も感じていないみたいな顔をするところだ」


 その言葉に、アリアの胸の奥で何かがひやりと冷えた。


 何も感じていないわけがない。

 感じすぎるほど感じて、その上で今は崩れないようにしているだけだ。

 なのに彼は、最後までそこを見誤る。


「感じておりますよ」


 声は静かだった。


「ただ、それを殿下に分かりやすく見せる気がないだけです」


 セドリックが目を細める。


「まだ怒っているのか」


「怒っていないとお思いですか」


 問い返した瞬間、彼はわずかに押し黙った。


 それだけで十分だった。彼の中にはまだ、“自分は正義の側から少し行き過ぎただけ”という感覚が残っている。だから怒りや痛みを向けられること自体が、完全には想像できていないのだ。


「……あの夜会の件は」


 セドリックは視線を少し逸らしたまま言葉を継ぐ。


「皆の前でああするしかないと思っていた。あの時は、本当にそう信じていたんだ」


「そうでしょうね」


 アリアの返答に皮肉はなかった。事実としてそう思っただけだ。


 セドリックはかえってその平坦さに傷ついたような顔をした。


「君は、少しも私を責めないんだな」


「責めてほしいのですか」


「そういう意味じゃない」


「では、どういう意味ですか」


 セドリックは答えられなかった。


 たぶん彼は、自分が加害者であることをはっきり突きつけられるのは怖いのだろう。だから“責めてほしいわけではない”と言いながら、同時に“もう少し感情をぶつけてくれれば、自分も整理しやすい”と思っている。


 勝手な話だと、アリアは思った。


「殿下」


 アリアはまっすぐに彼を見る。


「私は、あの場で何よりも悲しかったのです」


 セドリックの肩がわずかに揺れる。


「婚約を解かれたことではありません」


「……では、何が」


「最後まで、私の話を聞こうとなさらなかったことです」


 その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど胸の奥が澄んだ。


 そうだ。

 傷ついた理由はそこなのだ。

 婚約が終わったこと自体ではない。

 信じてほしかった相手が、最初からこちらを“裁く側”でしか見ていなかったこと。


「私は、何度も申し上げました。していないと。濡れ衣だと。けれど殿下は、泣いている方を信じた」


 セドリックは何も言えない。


「それなのに今、“少し早計だったかもしれない”とおっしゃるのですか」


「……」


「私にとっては、それでは足りません」


 はっきり言うと、セドリックの顔から最後の余裕が消えた。


 アリア自身、これほどまっすぐ言葉を返せるとは思っていなかった。以前の自分なら、ここで少し声を和らげただろう。波風を立てず、相手の立場を慮り、感情を飲み込んだに違いない。


 けれど今はもう、それでは駄目だと知っている。


「私は……」


 セドリックは苦しげに息を吐いた。


「私は、君がそこまで傷ついているとは」


「お分かりにならなかったのでしょうね」


 遮るように答えた。


「私は泣かなかったから。取り乱さなかったから。堂々として見えたから。だから、傷ついていないように見えたのでしょう」


「違う、そうじゃない」


「では、何ですか」


 問い詰めるつもりではなかった。だが言葉は自然と鋭くなる。


 セドリックは喉の奥で言葉を探しているようだった。何か言いたいのに、うまく言葉にならない。その不器用さを以前のアリアなら“仕方のないこと”として受け入れただろう。


 今は、受け入れる理由がない。


「……私は、君が強いと思っていた」


 ようやく絞り出されたのは、そんな言葉だった。


「昔からそうだ。君は誰よりきちんとしていて、冷静で、弱音を吐かなくて……だから、多少のことでは揺るがないと」


 アリアは小さく息を吸う。


 それは、ある意味で正直な告白だった。

 そして同時に、あまりにも残酷だった。


 強く見える者は傷つかないと、彼は本気で思っていたのだ。

 泣く者だけが守られるべき存在で、黙って耐える者は平気なのだと。

 そんな愚かな思い込みに、自分は踏みつけられた。


「それは、殿下がそう見たかっただけです」


 アリアは静かに告げる。


「強そうに見える方が、切り捨てる時に楽ですもの」


 その一言が、セドリックにとって相当な痛手だったのだろう。彼は露骨に顔を歪めた。


「……そこまで言うのか」


「本当のことです」


 沈黙が落ちる。


 廊下の向こうで、放課後の生徒たちの足音が遠く響いていた。窓の外では春の終わりの光が少しずつ傾いている。


 やがてセドリックが、低く言った。


「なら、私は……どうすればいい」


 その問いに、アリアはほとんど反射的に答えていた。


「今さら、私に尋ねるのですか」


 セドリックは何も言い返せない。


 そう。

 今さらなのだ。

 信じず、切り捨て、皆の前で婚約破棄を言い渡しておいて、その後始末を相手へ尋ねるなど、あまりにも虫が良すぎる。


「私がほしいのは、殿下の迷いではありません」


 アリアは続けた。


「謝るなら謝る。認めるなら認める。そうでないなら、曖昧なまま近づかないでください」


 セドリックは目を伏せた。


 たぶん今の彼は、謝罪したい気持ちもあるのだろう。

 けれど、それを認めれば自分の誤りも認めることになる。

 第二王子としてのプライドも、正義を振りかざした夜会での振る舞いも、全部崩れてしまう。


 だから彼はまだ、ここで立ち止まっている。


 アリアはそんな彼を見て、改めて気づいていた。


 もう、自分はこの人を待っていない。


 信じてほしいと願った時間は確かにあった。

 だがその願いは、夜会のあの瞬間に終わっていたのだ。


「……話は、以上ですか」


 静かに問うと、セドリックは顔を上げた。


「待ってくれ、アリア」


 その響きに、かつての婚約者らしい切実さが少しだけ混じっていた。

 けれど今のアリアには、それが胸を揺らすことはない。


「殿下」


 呼び返した声は、思っていたより柔らかかった。


「私はもう、あの夜の前には戻れません」


 それは宣言だった。

 非難ではなく、事実としての。


 セドリックの表情が、目に見えて強張る。


「……そう、か」


「はい」


 その時だった。


「それなら、その先は私の役目だな」


 低く静かな声が、二人の間へ割り込んだ。


 アリアの心臓が跳ねる。振り向くより早く、その声の主が誰かは分かっていた。


 レオンハルト。


 東棟へ続く回廊の先から、彼がゆっくりと歩いてくる。いつものように無駄のない足取り。濃い色の上着が夕方の光を受け、輪郭をいっそう鋭く見せていた。


 セドリックの顔色が変わる。


「兄上」


「セドリック」


 たった名前を呼ぶだけで、空気が張り詰める。


 レオンハルトはアリアのすぐ隣までは来ず、だが彼女を背に庇える位置で立ち止まった。その立ち位置そのものが、誰の側へ立つのかを明確に示している。


 アリアはその背中を見ながら、胸の奥が静かに熱くなるのを感じていた。


 今さら遅い。

 その言葉を、ようやく自分の中で完全に手放せた気がした。


 なぜなら、もう後ろを振り返る必要がないと、目の前の現実が示していたからだ。

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