第20話 後悔は、遅れてやってくる
その日の夕方、第二王子セドリック・ヴァルディスは王宮の一室で、初めてはっきりと“嫌な予感”の正体に触れていた。
報告は簡潔だった。
学園側で再確認された手紙の筆跡。
便箋の出所。
夜会前後の噂の流れ。
そして、侍女の失踪。
それらはまだ決定打ではない。
だが、それぞれが少しずつ、彼自身の断罪がいかに脆い土台の上に乗っていたかを示していた。
「……侍女が消えた?」
セドリックは思わず聞き返した。
報告役の側近は、慎重な顔つきで頷く。
「はい。侯爵家側の使用人との接触も疑われております」
侯爵家。
その響きに、セドリックの脳裏へベアトリスの顔が浮かぶ。学園内でよくミレイユを気遣い、アリアの冷たさをそれとなく話題にしていた令嬢だ。
まさか。
いや、だが。
セドリックは無意識に眉間を押さえた。
あの夜会の場面が何度も蘇る。
自分は正しいと思っていた。
弱い立場の少女を守り、冷酷な婚約者を切り捨てる。それが自分の役目だと、疑わなかった。
だがもし、その土台に誰かの誘導が混ざっていたのだとしたら。
「殿下」
側近が言いづらそうに口を開く。
「第一皇太子殿下が、かなり本腰を入れておられるようです」
その一言が、セドリックの胸へひどく重く落ちた。
兄、レオンハルト。
常に冷静で、簡単には動かず、動く時は大抵すでに勝算がある人。
そんな相手が、ただ王家の体面のためだけにここまで執着するだろうか。
いや、しない。
その事実が、セドリックをさらに苛立たせる。
兄上は、自分が間違っていたと考えているのか。
いや、それだけではない。
兄上は、アリアの方に理がある可能性を本気で見ている。
そこまで思い至った瞬間、セドリックの中で何かが揺れた。
アリア。
自分の元婚約者。
完璧で、冷たく、融通が利かず、いつもこちらを苛立たせるような言い方しかできない女。
そう思ってきた。
けれど本当に、それだけだっただろうか。
ふと、昔の記憶がよみがえる。
幼い頃、王宮の礼法の席で、誰より早く正しい所作を身につけていたのはアリアだった。
社交の場で、こちらが失言しかけた時、気づかれぬよう話題をずらしてくれたのも彼女だった。
自分が面倒だと思ってきた“堅さ”は、本当はずっと王家のため、公爵家のために積み上げられてきたものだったのではないか。
そんな考えがよぎった途端、胸の内側がいやにざわついた。
今さら、だ。
今さらそんなことを思い出して何になる。
それでも、一度生まれた違和感は消えない。
「……下がれ」
側近へそう命じ、一人になると、セドリックは深く息を吐いた。
自分は、利用されたのではないか。
その疑念を完全には否定できなくなっている。
同時に、それは自分自身への嫌悪でもあった。
もし本当にそうなら、自分は“正義”に酔ったまま、皆の前で婚約者を断罪したことになる。
しかもその場で、兄に止められた。
屈辱だった。
だが、屈辱以上に胸を刺すものがある。
アリアが最後まで、自分はしていないと静かに言い続けたこと。
あの場で泣き縋りもせず、ただ濡れ衣は認めないと告げたこと。
あの時は、その態度すら冷たく見えた。
だが今は違う見え方が混ざる。
もしかすると、あれは最後の最後まで自分を信じてほしかった者の矜持だったのではないか。
「……馬鹿げている」
思わずそう呟く。
自分でそう思う。
今さらそんな解釈をしたところで、夜会で告げた婚約破棄は消えないのだ。
その時だった。
扉の向こうで控えめなノックがした。許可を出すと、入ってきたのは別の近習だった。
「殿下、学園より追加の報せが」
セドリックは顔を上げる。
「何だ」
「ローゼン嬢、本日は欠席とのことです。体調不良とされておりますが、周囲がかなり動揺しているようです」
体調不良。
それもまた、以前なら彼の庇護欲を刺激しただろう。だが今は違う。真っ先に浮かんだのは“逃げた侍女との関係を知っているからではないか”という疑念だった。
それが何より苦かった。
自分はもう、ミレイユを無条件には信じられなくなっている。
「……そうか」
短く答えると、近習はさらに言った。
「それから、ルーヴェルト嬢ですが」
その名が出た瞬間、セドリックの胸がわずかに強く鳴る。
「何だ」
「本日も登校されております。以前より周囲の空気は揺れているようで……」
「……そうだろうな」
出ている。
逃げずに。
あれだけのことがあったあとで。
その事実が、今さらながら重くのしかかる。
自分ならどうだっただろう。
あれだけ公の場で恥をかかされれば、少なくとも一日は人前へ出たくない。
だがアリアは出た。
きっと、震えながらでも。
きっと、傷つきながらでも。
なぜ、あの時その痛みを想像しなかったのだろう。
答えは簡単だ。
見ようとしなかったからだ。
泣いている方だけを見て、泣いていない方の痛みを無いものにした。
その自覚が、遅れてじわじわと彼を責める。
「……下がれ」
再び一人になると、セドリックは窓辺へ歩み寄った。
夕暮れの王都は静かだ。石造りの建物の屋根が赤みを帯び、遠くの塔の上には鳥が旋回している。平穏そのものの光景だが、彼の胸中はひどくざわついていた。
自分は間違えたのではないか。
その疑問は、もう疑問ではなくなりつつある。
だが認めれば何になる。
婚約破棄を撤回するのか。
皆の前で断罪した誤りを公に認めるのか。
それは第二王子として、あまりにも痛い。
プライドも、立場も、何より自分自身の“正しさ”が崩れる。
それでも、胸の奥のざわめきは消えない。
夜会の最後に、アリアが言った言葉が脳裏に蘇る。
――婚約を解かれることと、濡れ衣を受け入れることは、別です。
あの時はただ反発した。
だが今になって、その強さが違う形で胸に刺さる。
自分は、彼女のあの言葉の意味を、何一つ理解していなかったのかもしれない。
やがて、セドリックはゆっくりと拳を握った。
確かめなければならない。
真実を。
そして、自分がどこで踏み外したのかを。
たとえそれが、今さら遅すぎるとしても。
夕陽が窓辺を赤く染める中、第二王子は初めて、自分の選んだ“正義”の形を疑い始めていた。




