第19話 消えた侍女の行方
ミレイユ・ローゼンが保健室で取り乱した翌朝、王立学園の空気は妙に静かだった。
ざわめきが消えたわけではない。
けれど、今までのような“面白がる噂”の音ではなく、皆がどこか様子をうかがっているような沈んだざわめきだった。
被害者が泣き崩れれば、ふつうは同情が強まる。
だが今回ばかりは、そうならなかった。
ミレイユの涙は、守ってあげたくなる弱さというより、何かが崩れかけている者の必死さを見せてしまったからだ。
アリア・フォン・ルーヴェルトは、その微妙な空気の変化を、教室へ入る前から肌で感じていた。
廊下ですれ違う生徒たちの目が、昨日までより慎重になっている。
露骨な敵意も好奇も薄れ、その代わりに“この先どちらへ転ぶのだろう”という、打算めいた観察が強くなっているのだ。
つまり、物語はまだ終わっていない。
そう思った時、東棟へ続く回廊の柱陰から、濃紺の礼装を着たユリウスが姿を見せた。学園の生徒ではない彼が朝の早い時間からいるということは、何か動きがあったのだろう。
「ルーヴェルト嬢」
「おはようございます」
エレノアが一緒だったからか、ユリウスは周囲を一度だけ見回したあと、必要最小限の声量で告げた。
「例の侍女が消えました」
アリアの呼吸が一瞬だけ止まる。
「消えた、とは」
「昨夜、侯爵家別邸の使用人宿舎から姿を消しました。休暇願いもなく、荷も半端に残ったままです」
エレノアがすぐに顔をしかめた。
「逃げたのですわね」
「その可能性が高いです」
ユリウスの返答は淡々としていたが、そこに含まれる意味は重い。
逃げる必要がある。
つまり、その侍女は自分が不利な証言を持っていると分かっている。
「こちらで追っております」
ユリウスはさらに続ける。
「ただ、向こうが先に口を封じようと動く可能性もある」
その言葉に、アリアは背筋が冷えるのを感じた。
ただの学園内の嫌がらせではない。
噂と証言を積み上げて悪役令嬢を作り上げた陰謀は、もう“逃亡”や“口封じ”が自然に出てくる段階にまで進んでいるのだ。
「殿下は?」
「すでに手を打っています」
ユリウスの口調は落ち着いていた。
「ですが、今日一日は特にご注意ください。向こうが焦っている時ほど、別の小さな仕掛けを重ねてくるものです」
エレノアが一歩前へ出る。
「では、アリア様は授業中以外、わたくしと離れません」
「そうしていただけると助かります」
いつものような軽い調子ではない、素直な言い方だった。
それだけ状況が切迫しているということだ。
ユリウスが去ったあと、アリアはしばらく動けなかった。
侍女が消えた。
それは決定的な綻びであると同時に、相手がもう引き返せないところまで来ている証でもある。
「アリア様」
エレノアがそっと呼ぶ。
「大丈夫ですの?」
「……大丈夫よ」
反射的にそう答えてから、アリアはすぐに首を振った。
「いいえ、大丈夫ではないわね。怖いわ」
正直に言うと、エレノアは少しだけ目を丸くしたあと、すぐに真剣な顔で頷いた。
「怖がって当然ですわ。でも、それを口にしてくださってよかった」
それだけで、胸の奥の強張りが少しだけほどける。
今までのアリアなら、たとえ怖くても、それを言葉にする前に押し込めていただろう。
だが今は違う。
守られることに慣れていないままでも、少なくとも“怖い”と言うことくらいは覚え始めている。
教室へ入ると、朝の空気はいつも以上に奇妙だった。
ミレイユの席は空いている。
それだけで、室内にはいくつもの憶測が飛び交っていた。
「今日は休みなの?」
「さすがに昨日のことが響いたのでは……」
「でも、侍女さんがいなくなったって噂も」
「え、何それ」
「だから、ローゼンさん側も実は――」
そこまで聞こえたところで、話し声は慌てて小さくなる。
誰もまだ、はっきりとは言えない。
けれど“ミレイユ側にも問題があるのではないか”という疑念が、確実に教室の中へ入り込んでいた。
アリアが席につくと、今までならあからさまに距離を取っていた女子生徒の一人が、珍しくためらいがちに会釈を寄越した。
ほんの小さな変化だ。
だが、それが逆にアリアの胸へ刺さる。
こういうふうに、人は簡単に空気へ流される。
悪役だと思えば遠ざかり、違うかもしれないと思えば少しだけ態度を和らげる。
責める気にはなれなかった。
ただ、そういうものなのだと思うしかない。
一時間目が始まり、二時間目が終わる頃になっても、ミレイユは来なかった。教師たちも事情を知っているのだろう。誰も明確には説明しないが、どこか教室全体を落ち着かせようとする気配がある。
昼休み前、エレノアが小声で言った。
「これ、かなり動いておりますわね」
「ええ。向こうが出てこないだけで、空気がこうも変わるなんて」
「被害者本人が見えなくなった途端、皆様“本当にそうだったのかしら”と思い始めるのですわ。勝手なものです」
勝手。
たしかにその通りだった。
だが人の噂も、空気も、そんなものなのだ。
だからこそ、それを利用してきた者たちは強かった。
そして今、その武器が逆に向かい始めている。
昼食のあと、東棟の小会議室へ来るよう、今度はレオンハルトから直接短い伝言が届いた。
部屋へ入ると、そこにはいつも通りレオンハルトが立っていた。窓際に置かれた机には王都の地図らしきものが広げられている。彼の前には別の男もいた。護衛か、あるいは探索を担当する人間だろう。
「来たか」
「はい」
レオンハルトはその場にいた男へ視線を送り、男は一礼して退出した。
「侍女の足取りが少し見えた」
単刀直入な言葉だった。
「王都南区の貸し馬車を使っている。だが、その後の行き先が曖昧だ」
「侯爵家とは」
「切れていない」
短く答え、彼は机の上の紙を示した。
「宿舎を出る前に、侯爵家側の小間使いと接触している。逃走の指示か、口封じかはまだ不明だ」
アリアは静かに息を吸った。
ここまでくれば、もう“たまたま”では済まない。
ベアトリス・フォン・エーデルハイム侯爵令嬢の周辺が、はっきりと線で結ばれ始めている。
「ローゼン嬢は本日欠席です」
アリアが伝えると、レオンハルトはわずかに頷いた。
「当然だろう。侍女が消えた以上、向こうも落ち着かない」
「ミレイユさんは……彼女自身は、どこまで把握しているのでしょう」
その問いに、レオンハルトは少しだけ考える間を置いた。
「少なくとも、自分の足元が崩れかけていることは分かっている」
「……それだけですか」
「それだけで十分に人は取り乱す」
確かに、と思う。
全部を知らなくても、自分が守られていた物語の綻びを感じれば、人は焦る。ましてミレイユは、ここ数日ずっと“可哀想な少女”でいることで守られてきたのだ。その立場が崩れる恐怖は、アリアには計りきれないほど大きいかもしれない。
「君は、同情しているのか」
不意にそう問われ、アリアは少し驚いた。
「……少しだけ」
正直に答える。
「怒っていないわけではありません。でも、昨日の泣き方を見ていると……彼女もまた、自分の作ったものに呑まれ始めている気がして」
レオンハルトはしばらく黙ったあと、低く言った。
「それでいい」
「よいのですか」
「感情を一つに決める必要はない」
その言葉は、妙に心へ残った。
怒りだけでも、哀れみだけでもない。
相手を責める気持ちと、壊れかけている姿を見てしまう気持ちが同時にある。
その曖昧さを、今までは自分の弱さだと思っていた。だが、彼はそうではないと言う。
レオンハルトはさらに告げた。
「だが、君が同情したところで、事実は変わらない」
「はい」
「彼女がどうであれ、君の名誉を奪ったことは消えない」
アリアは静かに頷く。
そうだ。
哀れだと思っても、傷は消えない。
婚約破棄の言葉も、公の場で浴びた視線も、全部残っている。
だから、ここで情に流されるわけにはいかない。
「今夜までに侍女を確保したい」
レオンハルトは地図へ視線を落としながら言う。
「そうなれば、向こうの焦りはさらに強くなる」
「……何か、起きますか」
「起こるだろう」
その答えに迷いはなかった。
「だが、もう向こうの方が綱を渡る側だ」
アリアはその言葉を胸の内で繰り返した。
今までは自分がずっと、見えない綱の上へ立たされていた。
落ちれば終わりの場所で、少しの誤解も許されずに。
けれど今、ようやく相手も同じ場所へ立たされ始めているのだ。
その感覚は、復讐の甘さというより、均衡が戻り始める冷たさに近かった。
帰り際、部屋を出る前にレオンハルトが言った。
「今日はすぐ帰れ」
「はい」
「余計な寄り道はするな」
命令口調だったが、昨日までより少しだけ柔らかい。
「……はい、殿下」
答えると、彼はほんの一瞬だけアリアを見た。
「怖いなら、怖いと言え」
その一言に、胸の奥が小さく揺れる。
「……怖いです」
今度は、ためらわず言えた。
レオンハルトは短く頷く。
「なら、なおさら一人で抱えるな」
それだけ告げると、彼は再び地図へ視線を戻した。
アリアは静かに一礼し、部屋を出る。
廊下の窓から見える夕空は、少しずつ色を深めていた。
侍女は消えた。
向こうは焦っている。
そして自分は、ただ怯えて待つだけの立場ではなくなりつつある。
そう実感できたことが、今の彼女には確かな支えだった。




