第18話 泣き崩れる被害者
翌日、ミレイユ・ローゼンは少し遅れて教室へ現れた。
その時点で、すでに周囲の空気は整っていた。昨日の保健室での一件が、半日も経たずにかなり脚色された形で広まっていたからだ。
「ミレイユさん、昨日保健室で倒れたんでしょう?」
「やっぱり、ずっと無理をしていたのね」
「かわいそうに……」
「でも、“話が違う”って何のことだったのかしら」
「聞き間違いでは?」
その最後の言葉に、アリアは内心でほんの少しだけ首を振った。
聞き間違いではない。
あれは明らかに、今までの筋書きに何かズレが生じた者の言葉だった。
だが、周囲はそこへ踏み込むほどまだ冷静ではない。特に、ミレイユを“守るべき存在”として見てきた人間たちほど、自分たちが信じていた物語が壊れることを恐れる。
ミレイユは今日も青白かった。けれど、その脆さの出し方が少し変わっていた。
以前は“か弱くても耐える”風だった。
だが今日は違う。
明らかに「自分は限界です」と見せる雰囲気が濃い。
教室へ入るなり、彼女は数人の女子生徒に支えられるように席へ着き、そのあとすぐ、か細い声で言った。
「ごめんなさい……皆様にまたご心配を……」
周囲はもちろん、すぐに優しい声を返す。
「気にしないで」
「あなたは無理をしすぎたのよ」
「悪いのはあなたじゃないわ」
悪いのはあなたじゃない。
その一言が、以前ほど強い力を持って響かなくなっていることに、アリアは気づいていた。誰もがそれを口にはする。だが、声の熱量が少しずつ落ちている。
絶対的な被害者であり続けるには、少し綻びが見えすぎたのだ。
午前の授業中も、ミレイユはときおり辛そうに伏せる。教師も無視はできず、何度か「保健室へ行くか」と声をかけたが、そのたび彼女は首を振った。
「大丈夫、です……私がここで逃げたら、皆様に余計なご迷惑が……」
その台詞も、以前ならもっと強く効いただろう。
だが今日は、一部の生徒たちが微妙な表情を浮かべているのが分かった。
“またその台詞か”
“本当にそんなに弱っているなら、なぜそこまで言うのか”
そうした違和感が、空気の表面に出始めている。
二時間目のあと、休み時間に入ったところで、ミレイユはついに机へ突っ伏した。
教室が一気にざわつく。
「ミレイユさん!」
「先生を呼んで!」
何人かの生徒が慌てて駆け寄り、また保健室へ連れていこうとする。だがその時、ミレイユは顔を上げ、涙を浮かべた目で震える声を漏らした。
「私、どうしてこんなことに……」
教室中が静まり返る。
「私、ただ……ただ、普通にしていただけなのに……。どうして……どうして私ばかり……」
その言葉は、明らかに“被害者としての嘆き”を意識していた。
だが、以前のような自然さはなかった。
何かを取り戻したくて必死に演じている者の震えが混じっている。
アリアはそれを見て、胸の奥に奇妙な痛みを覚えた。
哀れだと思ったのだ。
自分を悪役にし、周囲を誘導し、それでもまだ泣いて被害者の座へしがみつこうとする姿は、醜いはずなのに、どこか哀れだった。
その時だった。
教室の後方から、ぽつりと声が上がる。
「……でも、ローゼンさん」
皆が振り向く。
言ったのは、今までミレイユに比較的優しく接していた女子生徒の一人だった。彼女自身も、口にしてしまってから少し怯えたように見えたが、それでも続ける。
「本当に辛いなら、休んだ方がいいと思うの。皆に見せるみたいに我慢しなくても……」
空気が変わる。
その言葉は、優しさの形をしていた。
だが同時に、ミレイユの振る舞いの“見せ方”へ初めて疑問を差し込むものでもあった。
ミレイユは目を見開く。
「み、見せるつもりなんて……」
「ごめんなさい、そういう意味じゃなくて……でも、なんだか最近、ずっと無理をしてるところを見せようとしているみたいで」
言われた本人も苦しそうだった。
おそらく彼女は誰かを責めたいのではない。ただ、自分の違和感をごまかしきれなくなったのだ。
教室のあちこちで、微細なざわめきが広がる。
今までは絶対に出なかった類の空気だった。
ミレイユは唇を震わせる。
怯えた被害者の顔を作ろうとしているのに、その下から明らかな焦りが滲む。
このままでは、自分の“可哀想な少女”という役が保てない。
そんな恐れがありありと見えた。
「ち、違うの……私、そんなつもりじゃ……」
その言い方も、どこか薄い。
数日前なら、それだけでまた皆が庇っただろう。だが今は違う。庇う声はある。だが、その庇い方に迷いがあるのだ。
教師がようやく教室へ入ってきて、この騒ぎはひとまず中断された。ミレイユは結局、半ば強引に保健室へ連れて行かれる。
彼女が出て行ったあとも、教室内の空気はしばらく落ち着かなかった。
エレノアが小さく息を吐く。
「……効かなくなってきましたわね」
「ええ」
アリアも短く答える。
泣く。震える。健気に耐える。
それだけでは、もう周囲を完全には動かせない。
むしろ、やりすぎれば“わざとらしさ”が見え始める。
「向こうは、焦っております」
エレノアの口調には、昨夜までの苛立ちとは違う種類の緊張があった。
「追い詰められるほど、泣き方が大げさになっているのですもの。これ、危険な兆候ですわ」
アリアは目を伏せた。
危険。
それは、相手が次の手をもっと雑に、もっと強引に打ってくるかもしれないという意味だろう。
昼休み、サロンへ向かう前にユリウスから短い伝言が届いた。
『保健室での様子はこちらでも把握した。向こうは持ち堪えきれていない。警戒を強める』
それを読んだ瞬間、アリアは静かに紙を折りたたむ。
持ち堪えきれていない。
ならばこの先、何かが起こる。
その確信が、逆に彼女の中に妙な落ち着きを生んでいた。
怯えるだけではない。
今は、自分も流れを見ている。
それが以前との決定的な違いだった。
その日の放課後、アリアは廊下を歩きながらふと考える。
誰かを悪役にして、自分はただ守られる役を演じ続ける。
それは意外なほど脆いのかもしれない。
少しでも綻びが出れば、周囲は敏感にそれを嗅ぎつける。
人は被害者に同情する一方で、その被害者が“被害者らしく”なくなった瞬間、とても冷たくなる。
そういう意味では、ミレイユもまた危うい綱の上に立っていたのだ。
同情は、永遠ではない。
その事実を思い知り始めた教室の空気の中で、アリアは静かに視線を上げる。
向こうの泣きが効かなくなってきている。
それは、流れが変わり始めた証だ。
だが、ここで安心するほど甘くはない。
泣き崩れる被害者が効かなくなったなら、次はもっと直接的な何かが来る。
その時、自分はどう立つか。
その問いだけが、放課後の薄暗い廊下で静かに彼女へ寄り添っていた。




