第17話 学園に走る逆風
翌朝、王立学園の空気はこれまでとは違う種類のざわめきを孕んでいた。
悪評が消えたわけではない。
噂が止んだわけでもない。
けれど、誰もが同じ方向を向いていた昨日までとは、明らかに質が変わっている。
正門をくぐった瞬間から、アリア・フォン・ルーヴェルトはそれを感じ取っていた。
「聞いた?」
「手紙の件、やっぱり変だったとか……」
「でも、皇太子殿下が動いているのでしょう?」
「そこまでのことになるなんて、普通じゃないわよね」
「じゃあ、ローゼンさんの方が……?」
「まだ分からないでしょう」
“まだ分からない”。
たったそれだけの言葉が混じるようになったこと自体、大きな変化だった。
数日前まで、周囲は“きっとアリアが悪い”という前提でしか動いていなかった。だが今は違う。皇太子レオンハルトが公に近い形で介入し、学園側にも調査の手が入ったことで、一方通行だった物語に初めて逆風が吹き始めている。
とはいえ、それがそのままアリアにとって楽になるわけではない。
視線は今もある。
囁きも今もある。
ただ、その中身が「悪役令嬢を眺める好奇」から、「どちらが本当なのかを測る打算」へ変わっただけだ。
「おはようございます、アリア様」
教室へ入ると、エレノアがすぐにやってきた。いつも通り明るい声ではあるが、その目の奥には油断のなさがある。
「おはよう」
「朝から空気が妙ですわね」
「ええ。昨日までよりはましだけれど、別の意味で面倒そう」
アリアがそう返すと、エレノアは小さく肩をすくめた。
「まさにそれですわ。今朝は“皇太子殿下の圧力で話がひっくり返りかけている”という噂まで飛んでおります」
アリアは目を伏せた。
やはり来たか、と思う。
レオンハルトが動けば動くほど、今度は“公正な調査”ではなく“権力による庇護”という見方も出てくるだろう。それはある意味当然だ。都合の悪い者たちは、そうでなければ自分たちの足場を守れない。
「殿下が、無理に私を白く見せようとしていると?」
「ええ。あとは、“やはり公爵家だから”“結局は高位貴族が勝つのね”といった、いかにも弱者側に立っているつもりの言い回しも」
エレノアの口調には、珍しく露骨な苛立ちがあった。
アリアは静かに息を吐く。
これもまた、よく出来た構図だった。
もし自分の汚名が剥がれ始めれば、それは真実に近づいたからではなく、“権力が握り潰したから”だと言い出す。
つまり、どちらへ転んでもアリアを“悪役のまま”にしておける理屈だ。
「……本当に、よく考えられているわ」
「感心している場合ではありませんわ」
「していないわ。呆れているの」
そう答えながらも、アリアの胸には薄い冷えがあった。
敵は、ただ感情で動いているわけではない。
追い詰められてなお、次の見せ方を考えている。
その事実は決して軽くない。
やがて教室の前方がざわつく。
ミレイユ・ローゼンが入ってきたのだ。
今日の彼女は、数日前の“儚げで守られたい少女”という空気をまだ保っていたが、そこへ僅かに焦りが混じって見えた。顔色は相変わらず青白い。けれど以前のように全員が一斉に駆け寄るわけではない。心配そうに声をかける者はいても、その反応には一拍の迷いがある。
「ミレイユさん、大丈夫……?」
「その、無理なさらなくても……」
「……朝から保健室へ行かれた方が」
優しい言葉はある。
だが以前のような“絶対的な被害者”としての熱量は、少しだけ薄れていた。
ミレイユ自身もそれを感じ取っているのだろう。彼女は困ったように微笑みながら、少しだけ視線をさまよわせたあと、ちらりとアリアを見る。
その目には、怯えだけではない何かがあった。
不安。焦燥。あるいは苛立ち。
だが次の瞬間には、またすぐに弱々しい表情へ戻っている。
「わ、私、大丈夫です……皆様にこれ以上ご迷惑をかけたくなくて……」
その台詞も、もう何度も聞いた。
そして今は、その“いつもの台詞”でさえ、少しわざとらしく響き始めている生徒がいるのだと、アリアは周囲の目の揺れで分かった。
一時間目が始まる。
教師は以前よりも明らかに慎重だった。だがその慎重さは、アリアを避けるためというより、“どちらに転んでもまずい”という種類のものに変わっている。
指名の仕方。書類の受け取り方。教室内での視線の巡らせ方。全部がぎこちない。
授業中、アリアはふと気づいた。ベアトリス・フォン・エーデルハイム侯爵令嬢が、以前のように自信満々な態度ではない。扇を持つ手元は優雅だが、時折視線が落ち着かず、周囲をうかがっている。
焦っている。
その事実を確認できただけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。
二時間目のあとの休み時間、案の定ベアトリスは数人の令嬢たちを集めていた。声は潜めているが、完全には聞こえないほどでもない。
「……ですから、これは明らかに皇太子殿下のお立場を利用しているだけですわ」
「でも、手紙の件も再確認されているのでしょう?」
「そうだとしても、第一に守られるのは高位の令嬢の方。平民出身のあの子が不利になるのは当然ですもの」
「たしかに……」
「わたくしたちは、権力に押し切られてはなりませんわ」
あまりにも露骨だった。
エレノアがすぐ横で小さく鼻を鳴らす。
「逆ですわね」
「ええ」
アリアは短く答えた。
ベアトリスは“平民の味方”を装っている。だが、その口調の端々には明らかな上から目線が滲んでいた。本気でミレイユを守りたいのではなく、“弱者に味方する自分”を正義として掲げたいだけだ。
しかも焦っているからこそ、以前より言葉が雑になっている。
「アリア様」
エレノアが低く言う。
「向こう、崩れかけていますわ」
「まだ、よ」
「それでも、綻びは見えます」
その通りだった。
今までは完璧だった。
アリアを悪役にし、ミレイユを可哀想な少女にし、セドリックを正義の王子にする流れが、あまりに綺麗に出来上がっていた。
だが皇太子が介入し、調査が始まったことで、その舞台装置に少しずつ亀裂が入っている。
だからこそ向こうは、“権力の圧力”という新しい物語を急いで作ろうとしているのだ。
昼休み、アリアとエレノアが令嬢用サロンへ向かう途中だった。
背後から、いつになく強い声で呼び止められる。
「ルーヴェルト様」
振り向くと、そこにいたのは上級生の令嬢だった。以前なら表面上は穏やかに接してくれていた人だが、今は明らかに何か言いたげな顔をしている。
「何かしら」
アリアが答えると、その令嬢はためらいつつも言った。
「少し、よろしいかしら。……あなた、皇太子殿下へ何をおっしゃったの?」
エレノアの眉がぴくりと動く。
だがアリアは表情を変えなかった。
「何、と申しますと」
「ですから、殿下がそこまであなたを庇われるようなことですわ。まさか、ご自分だけ被害者のように振る舞ったわけではありませんわよね?」
周囲の空気が止まる。
廊下を行き交う生徒たちも、さりげなく足を緩めて耳をそばだてているのが分かった。
ここで感情的になれば、向こうの思うつぼだ。
アリアは静かに答えた。
「被害者のように、ではありません。実際に、私はしていないことをしたと言われておりますので」
その返答に、令嬢の表情がわずかに歪む。
「ですが、ローゼンさんは傷ついていらっしゃるのでしょう?」
「それと、私が手紙を書いたことは同義ではありません」
「ずいぶんと冷たいのですね」
「冷たいと見えることと、罪の有無は別です」
少し前の自分なら、このやり取りだけで周囲にさらに悪く見られることを恐れただろう。
だが今は違う。少なくとも、“言うべきことを言わずに沈黙するだけでは駄目だ”と分かっている。
その令嬢は何か言い返しかけたが、結局うまく言葉が出なかったらしい。そこへ割って入るように、別の穏やかな声が響いた。
「そこまでにしておきなさい」
皆が振り向く。
現れたのは、学園でも影響力の強い年長の女性教師だった。彼女は周囲を見回し、普段より少し硬い声音で続ける。
「今この件について、軽率な断定は控えるよう、上からも通達が出ています」
上から。
つまり、皇太子側からだ。
その一言で空気がまた変わる。令嬢は明らかに気まずそうな顔をし、周囲も完全には味方しきれなくなる。
「……失礼いたしましたわ」
形だけ礼をして去っていく後ろ姿を見送りながら、アリアは胸の奥で小さく息を吐いた。
こういうことだ。
今までは、自分を責める側が“空気”を武器にしていた。
だが今は、レオンハルトが動いたことで、その空気が一方通行ではなくなっている。
正面から堂々と責めれば、自分たちの方が軽率だと見られかねない。
それが、じわじわと逆風になっている。
サロンへ入ったあと、エレノアが興奮気味に言った。
「見ました? 今の顔。完璧に押し切るつもりで来たのに、教師に止められて引くしかありませんでしたわ」
「ええ」
「これですわよ、これ。今まで散々、空気で押し切ってきたのですもの。今度は自分たちが空気を失う番です」
言い方は少々物騒だったが、アリアは否定しなかった。
少しだけ、胸が軽い。
もちろん、全面的に勝ったわけではない。
むしろここから先の方が厄介だろう。追い詰められた側は、もっと別の手を打ってくるかもしれない。
それでも、“永遠に悪役のまま押し切られるわけではない”という感触がようやく見えてきた。
昼食のあと、放課後までの授業は比較的静かに進んだ。だがその静けさは、嵐の前の凪にも似ている。
そして、その予感は当たった。
放課後、教室へ戻る途中で、アリアは保健室の前に人だかりを見つけた。女子生徒たちが心配そうにざわめき、教師まで出入りしている。
「何があったの?」
エレノアが近くにいた生徒へ尋ねると、その少女はすぐに声を潜めて答えた。
「ローゼンさんが……急に気分が悪くなって。少し取り乱したみたいで……」
アリアの胸がひやりとする。
「取り乱した?」
「ええ。何だか、“どうして私ばかり”とか、“話が違う”とか……。はっきりは聞こえませんでしたけれど」
話が違う。
その言葉は、妙に生々しくアリアの耳に残った。
エレノアも同じように感じたのだろう。ちらりとこちらを見て、小さく言う。
「……焦っておりますわね」
「ええ」
ミレイユが焦っている。
それはつまり、守られるだけの被害者の立場が揺らぎ始めているということだ。
人だかりの向こう、保健室の半開きの扉の隙間から、青白い顔で寝台に座るミレイユの姿が一瞬だけ見えた。彼女はハンカチを握りしめ、何かを必死に訴えているようだったが、今までの“可哀想で儚い少女”というより、追い詰められて余裕を失った顔に近かった。
アリアはその姿を見て、奇妙な感情を覚えた。
ざまぁ、とは違う。
怒りでもない。
ただ、“もう物語は向こうの思い通りには進まないのだ”という冷たい実感だった。
誰かを悪役にして、自分はただ守られる役でいられる。
そんな都合の良い舞台は、崩れ始めている。
夕暮れの廊下で、アリアは静かに目を細めた。
逆風は、ようやく向こうへ吹き始めていた。
だが、それは同時に、相手が次の手を焦って打ってくる合図でもある。
まだ終わりではない。
むしろ、ここからが本当の正念場だ。
そう感じながら、アリアは保健室の扉からそっと視線を外した。




