第121話 黒葉の夫人は、やわらかく笑う
慈善委員会の日、王宮の西翼には、朝から妙に甘い香りが漂っていた。
花の香りではない。
香油でもない。
もっと薄く、上品で、けれど底の方に黒いものが沈んでいるような香りだった。
アリア・フォン・ルーヴェルトは、回廊へ足を踏み入れた瞬間、昨日の黒枝樹脂を思い出した。
樹脂と墨。
焦げた木。
花の奥に隠した、乾いた苦み。
強く香るわけではない。
むしろ、気づかない者ならそのまま通り過ぎてしまう程度だ。
だからこそ、嫌だった。
「お嬢様」
隣のリナが、小さく声を落とす。
「昨日の香りに似ていませんか」
「ええ」
アリアは歩みを止めなかった。
「でも、似ているだけでは何も言えないわ」
「はい」
王宮では、偶然も装飾になる。
そして装飾は、時に証拠に似た顔をする。
だから焦ってはいけない。
今日の慈善委員会には、グランディル侯爵夫人とセルディア侯爵家の若夫人が出席する予定だった。
黒枝会の入口として名前が出たグランディル侯爵夫人。
香油商の別帳で“黒葉”と結びついたセルディア侯爵家。
昨日までのアリアなら、どちらを見るべきか迷ったかもしれない。
だが今は違う。
どちらも見る。
ただし、見ていることを悟らせない。
それが今日の役目だった。
委員会の部屋へ入ると、すでに数人の夫人たちが席についていた。
長机には慰問行事の資料が並べられ、春の栞の意匠案、贈答品の一覧、寄付先の孤児院や施療院の名簿が整えられている。
窓辺には白い花。
控えめな菓子。
そして、やはりかすかな黒枝樹脂の香り。
グランディル侯爵夫人は、上座に近い位置にいた。
深緑のドレス。
白髪を美しく結い上げ、扇を静かに持っている。
表情は穏やかで、まるで王宮の古い肖像画から抜け出してきたようだった。
セルディア侯爵家の若夫人は、その少し離れた位置に座っていた。
淡い菫色のドレスに、黒い葉を模した小さな胸飾り。
黒葉。
あまりにも出来すぎている。
ただの流行かもしれない。
いや、わざと見せているのかもしれない。
アリアは、その胸飾りを一瞬だけ見て、すぐに目を外した。
「ルーヴェルト様」
最初に声をかけてきたのは、セルディア若夫人だった。
「本日もお会いできて嬉しゅうございます」
「こちらこそ」
アリアはいつも通りに微笑む。
「その胸飾り、とても繊細ですね」
あえて触れた。
若夫人は少しだけ目を丸くし、それから嬉しそうに胸元へ手を添えた。
「まあ、お気づきくださったのですね。黒葉の意匠ですの」
「黒葉」
「ええ。最近、古い社交界で少し流行っているのです。葉の形は控えめですけれど、黒はどんな色にも合いますでしょう?」
古い社交界。
その言葉を、アリアは胸の中で繰り返した。
「確かに、落ち着いていて素敵です」
「ルーヴェルト様にもお似合いになると思いますわ」
「私には、少し大人びすぎているかもしれません」
「あら」
若夫人は扇の陰で笑った。
「もう皇太子殿下の婚約者でいらっしゃるのに?」
軽い冗談のようでいて、そこにはいつもの探りがあった。
婚約者なのだから、大人の社交へ入れ。
黒葉の意匠を身につける側へ来い。
そう言われているようにも聞こえる。
アリアは柔らかく首を傾けた。
「婚約者になったからこそ、身につけるものは慎重に選びたいのです」
若夫人の笑みが、ほんの少し止まった。
「まあ、慎重でいらっしゃる」
「ええ。まだ学ぶことばかりですから」
そこへ、グランディル侯爵夫人の声が滑り込んできた。
「慎重でいられるのは、若い方の美徳ですわ」
穏やかな声だった。
けれど、その一言で部屋の空気が少し変わる。
アリアは礼をする。
「グランディル侯爵夫人」
「ルーヴェルト様、今日もお健やかそうで何よりです」
「ありがとうございます」
「最近、王宮ではあなたのお名前をよく聞きますの」
その言い方は褒め言葉にも聞こえた。
だが、アリアはもう知っている。
こういう言葉ほど、軽く受け取ってはいけない。
「よい意味であれば、ありがたいのですが」
「あら、もちろん」
侯爵夫人は微笑んだ。
「若い女官たちに慕われ、場を乱さず、殿下のお名前もきちんと守られる。ご立派なことですわ」
丁寧に並べられた褒め言葉。
だが、その一つひとつは、アリアがこの数日で積み上げてきた行動そのものだった。
どこまで見られているのか。
誰から聞いているのか。
アリアは、背筋を伸ばしたまま答えた。
「私一人の力ではありません。周囲の方々が支えてくださるからです」
「その支えを得られることも、力ですわ」
グランディル侯爵夫人は、少しだけ目を細めた。
「ただ、支えは時に絡みつくこともあります。枝が増えれば、根元が見えにくくなるでしょう?」
枝。
その言葉が、部屋の中でひどく静かに響いた気がした。
アリアはすぐには返さなかった。
沈黙を一拍置く。
それから、微笑む。
「でしたら、絡まらないように剪定を覚えなければなりませんね」
セルディア若夫人の扇が、ぴたりと止まった。
グランディル侯爵夫人は、微笑んだままだった。
けれど、その目の奥だけがわずかに鋭くなる。
「まあ。頼もしいこと」
「まだ、覚え始めたばかりです」
「そうでしょうね」
侯爵夫人はそれ以上、何も言わなかった。
委員会が始まると、話題は慰問行事の詳細へ移った。
贈答品の配分。
訪問先での挨拶順。
同行する女官の人数。
そして、子どもたちへ渡す栞の意匠。
銀の葉と鳥の意匠は好評だった。
だが、そこでセルディア若夫人が、さりげなく一枚の意匠案を差し出した。
「もしよろしければ、こちらも候補に加えてはいかがでしょう」
紙には、黒い葉を細く伸ばした意匠が描かれていた。
美しい。
確かに美しい。
けれど、慰問行事の子どもたちへ渡す栞には、少し冷たすぎる。
女官長補佐がわずかに眉を動かした。
周囲の夫人たちは、様子を見るように黙っている。
若夫人はにこやかに続けた。
「黒葉は、困難にも枯れない強さを表しますの。慰問にはふさわしいかと」
また、黒葉。
アリアは、その紙を静かに受け取った。
ここで強く退ければ、相手は“婚約者が私案を嫌った”と言える。
逆に受ければ、黒葉の意匠が王宮の慰問行事に入り込む。
小さなことだ。
でも、小さな意匠は、時に合図になる。
「とても美しい意匠ですね」
まず、そう言った。
若夫人の笑みが深くなる。
「そうでしょう?」
「ええ。ただ、今回の慰問先には幼い子どもたちも多くおります」
アリアは、隣に置かれていた鳥の意匠案へ視線を移した。
「黒葉の強さも素敵ですが、子どもたちへ最初に渡すなら、もう少し明るい意匠の方が喜ばれるかもしれません」
「でも、強さを伝えることも大切ですわ」
「ええ。ですから」
アリアは黒葉の意匠を机へ置いた。
「黒葉は、寄付者控えの飾りに使うのはいかがでしょう。慰問先へ渡す栞ではなく、委員会の記録用として」
若夫人の笑みが、ほんの一瞬だけ揺れた。
慰問先へ広げるのではなく、内側の記録に留める。
しかも、完全に否定はしない。
外へ合図として出す道を塞ぎつつ、提案そのものの顔は潰さない。
女官長補佐がすぐに頷いた。
「よろしいかと存じます。寄付者控えの飾りであれば、黒葉の意匠も落ち着いて映えるでしょう」
周囲の夫人たちも、異論を挟みにくくなった。
セルディア若夫人は、ゆっくり扇を閉じた。
「……ルーヴェルト様は、本当にお上手になられましたわね」
「お上手、ですか」
「ええ。断らずに、置き場所を変える」
声は柔らかい。
だが、中身は鋭かった。
アリアは静かに微笑む。
「ものには、それぞれ合う場所があると思いますので」
「人も?」
今度は、グランディル侯爵夫人が言った。
アリアは侯爵夫人を見る。
「はい」
迷わず答えた。
「人も、言葉も、意匠も。置き場所を誤れば、良いものでも歪みます」
部屋の空気が、また少し静かになった。
侯爵夫人は、満足したようにも、面白がるようにも見える目でアリアを見つめた。
「本当に、よく学んでいらっしゃる」
「学ぶことが多い王宮ですので」
「そうでしょうね」
そこで会話は切れた。
委員会が終わる頃には、表向きの議題はすべて滞りなく進んでいた。
栞は鳥と銀の葉を中心に。
黒葉の意匠は寄付者控えの飾りへ。
香りは若葉と柑橘。
黒枝樹脂は使わない。
何も起きていないように見える。
けれど、アリアには分かっていた。
今日、黒葉は試された。
そして、外へ出る道を一つ塞いだ。
委員会後、廊下へ出ると、セルディア若夫人が追いついてきた。
「ルーヴェルト様」
「はい」
「先ほどの黒葉の意匠、悪く思われたわけではありませんわよね?」
「もちろんです。だから、記録用に残す提案をいたしました」
「……そうですわね」
若夫人は微笑む。
だが、その笑みには先ほどまでより少しだけ硬さがあった。
「黒葉は、外へ出すにはまだ早いのかもしれません」
アリアは、胸の中でその言葉を拾った。
外へ出すには、まだ早い。
「流行とは、時期が大切ですものね」
アリアは穏やかに返す。
「ええ。本当に」
若夫人は礼をして去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、アリアは静かに思う。
彼女は、知っている。
少なくとも、“黒葉”がただの意匠ではないことを。
小会議室へ戻ると、レオンハルトとユリウスが待っていた。
アリアが今日のやり取りを話す間、二人は一度も口を挟まなかった。
黒葉の胸飾り。
古い社交界で流行っているという言葉。
黒葉の栞案。
外へ出すにはまだ早い、という若夫人の発言。
すべて話し終えると、ユリウスが低く言った。
「かなり踏みましたね」
「踏みましたか」
「ええ。向こうの尾を」
レオンハルトは机に置かれた資料へ視線を落とす。
「セルディアは、黒葉だな」
「ほぼ」
ユリウスが答える。
「証拠としてはまだ足りませんが、商人の帳簿と今日の言動で、かなり濃くなりました」
「グランディルは」
「枝という言葉を出しました。こちらも、偶然とは言いにくい」
アリアは思い出す。
枝が増えれば、根元が見えにくくなる。
あの言葉。
何気ない忠告のようでいて、黒枝会を知っている者の言葉にも聞こえる。
「殿下」
「何だ」
「グランディル侯爵夫人は、私が何を知っているかを測っているようでした」
「ああ」
「セルディア若夫人は、黒葉を外へ出そうとしていました」
「そうだな」
「では、二人は同じ黒枝会でも、役割が違うのでしょうか」
ユリウスが少しだけ目を細めた。
「よい見立てです」
「見立て、ですか」
「はい。グランディル侯爵夫人は試す側。セルディア若夫人は広げる側。少なくとも今日の動きではそう見えます」
試す側。
広げる側。
黒枝会は、単に一つの集まりではない。
中に役割がある。
それが、また気味悪かった。
「黒葉の意匠を慰問行事へ入れようとしたのは、合図でしょうか」
「可能性はあります」
ユリウスが答える。
「王宮行事に黒葉が採用されれば、“黒葉は王宮に入った”という示しになる」
「そんな小さなことで?」
「社交界では、小さなことで十分です」
レオンハルトが低く言った。
「扇の色、席の近さ、花の種類。全部が意味を持つ」
「……そうでした」
アリアは、深く息を吐いた。
危なかった。
ただの美しい意匠として受け入れていたら、知らないうちに王宮の慰問行事へ黒葉の合図を入れていたかもしれない。
「よく置き場所を変えた」
レオンハルトが言う。
「外へ出さず、内側へ留めた」
「完全に拒めば、警戒されると思いました」
「ああ。だからいい」
その一言に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
けれど、安心はできない。
黒葉は、外へ出る道を一つ塞がれた。
なら次は、別の道を探すだろう。
「次はどうなりますか」
アリアが問うと、ユリウスは静かに答えた。
「セルディア若夫人は、近いうちにあなたへもう一度近づくと思います」
「なぜですか」
「今日、あなたに読まれたからです」
ユリウスは淡々としている。
「自分がどこまで見られているか、確かめたくなるはずです」
アリアは思わず少しだけ肩に力を入れた。
レオンハルトがそれを見る。
「怖いか」
「はい」
「だが、向こうも怖い」
「……向こうも?」
「ああ」
レオンハルトは、アリアをまっすぐ見た。
「君がどこまで見ているか分からない。だから近づいてくる」
その言葉に、アリアの胸の奥で何かが落ち着いた。
見られているだけではない。
相手もこちらを恐れている。
そう思えば、少しだけ呼吸がしやすくなる。
「分かりました」
アリアは頷いた。
「近づいてくるなら、見ます」
「それでいい」
窓の外では、夕暮れが王宮の庭へ広がっていた。
白い花が影に沈み、葉の形だけが薄暗く浮かんでいる。
黒葉の意匠は、まだ外へ出なかった。
けれどその葉脈は、確かに王宮の中へ伸び始めている。
アリアはそれを、見逃さないと決めた。




