第120話 黒枝の帳簿は、香りより雄弁に残る
黒枝樹脂という名は、一度耳に入ると妙に忘れにくかった。
黒い枝。
密やかに残る香り。
私的な手紙に使われる封蝋。
黒枝会という名が、ただの比喩ではないのかもしれない。
そう思った途端、アリア・フォン・ルーヴェルトは、王宮の空気に混じる香りまで疑わしく感じるようになっていた。
もちろん、そんな顔はできない。
朝の王宮は、いつも通りに整っている。
磨かれた床。
静かな足音。
窓辺に置かれた花。
女官たちの礼。
その中に、昨日の香油商が残していった黒枝樹脂の気配がまだ漂っている気がして、アリアはほんの少しだけ呼吸を浅くした。
「お嬢様」
リナが小声で言う。
「大丈夫ですか」
「ええ。ただ……香りって、厄介ね」
「はい?」
「形がないのに、残るでしょう」
リナは一瞬考え、それから小さく頷いた。
「たしかに。消えたように見えて、布や髪に残ることがあります」
「噂と似ているわね」
「……それは、少し嫌な似方ですね」
「本当に」
短いやり取りだったが、少しだけ気持ちが落ち着いた。
今日の予定は、表向きには王宮取引品の品質確認だった。
慰問行事で使う布袋に香りを移すため、昨日選ばれた若葉と柑橘の香油、その納品状態を確認する。
その名目で、王宮は香油商の倉庫へ人を送る。
実際の目的はもちろん、黒枝樹脂と黒い封蝋の取引記録を確認することだった。
アリアは直接倉庫へは行かない。
婚約者本人が商人の倉庫へ出向けば、それだけで話が大きくなる。
だから調査にはユリウスと王宮内務の担当者が向かい、アリアは王宮側で戻ってくる記録を受けることになっていた。
待つ役目。
最近、アリアはこの“待つ”という役目の重さを知りつつあった。
動く方が楽な時もある。
自分で見に行き、自分で問い、自分で確かめたい。
けれど、婚約者という立場では、動きすぎることそのものが刃になる。
だから、待つ。
ただし、何もせず待つのではない。
戻ってきた情報を、きちんと受け取れるように頭を整えておく。
南翼の小閲覧室で、アリアは女官長補佐とともに、過去の慰問行事で使用された香油の記録を確認していた。
「黒枝樹脂は、これまで王宮行事では使われていないのですね」
「少なくとも、正式な行事用としての記録はございません」
女官長補佐が帳簿をめくりながら答える。
「香りが重く、残りすぎます。慰問や子ども向けの贈答には向きません」
「では、王宮内で使うなら私的なものに限られる」
「ええ。夫人方の私物、あるいは個人的な手紙などでしょう」
アリアは、昨日の香油商の言葉を思い出した。
貴婦人方の間で密かに人気。
私的なお手紙向け。
その“密かに”という言葉が、今となってはやけに重い。
「黒枝樹脂を使った封蝋は、見た目で分かりますか」
「完全には難しいと思います。ただ、普通の黒蝋よりも艶があり、温めると香りが立つと聞いたことがあります」
「香りで見分けるのですね」
「はい。ですが、年月が経つと薄れます」
「では、最近使ったものなら?」
女官長補佐は少しだけ考えた。
「封を切った直後なら、分かる者には分かるでしょう」
分かる者には分かる。
それはつまり、黒枝会に属する者同士なら、手紙を開いた瞬間に送り主筋を察せるということでもある。
名前の代わりに香りを使う。
印章の代わりに黒い封蝋を使う。
隠れているのに、内側の者には分かる。
王宮らしい、とアリアは思った。
あまりにも嫌な意味で。
昼過ぎ、ユリウスが戻った。
いつも通りの顔をしていたが、外套の裾にわずかに埃がついている。
王宮内だけを歩いていた時とは違う、外の空気を連れて帰ってきた顔だった。
「お戻りなさいませ」
アリアが言うと、ユリウスは少しだけ目を瞬いた。
「ただいま、と返すべきでしょうか」
「王宮的には違いますか」
「かなり違いますね」
「では、やめておきましょう」
「……いえ」
ユリウスは一瞬だけ迷い、軽く頭を下げた。
「戻りました」
思いがけず素直に返されて、アリアの方が少し困った。
リナが後ろで笑いをこらえている気配がする。
緊張していた空気が、ほんの少し緩んだ。
けれど、ユリウスが机に置いた帳簿の写しを見た瞬間、その緩みはすぐに消えた。
「いくつか、出ました」
ユリウスは短く言った。
「黒枝樹脂そのものの取引記録は、表の帳簿にはほとんどありません。ですが、別帳がありました」
「別帳」
「王宮向けの品質確認という名目で倉庫を見ました。香油商は最初、表帳簿だけを出しましたが、倉庫番が別の帳面を持っていました」
「倉庫番が?」
「ええ。本人は、隠す意図まではなかったようです。むしろ“高価な香料は別に管理するもの”という認識だった」
ユリウスは帳簿の写しを開いた。
そこには、香料の名と数量、納品先が並んでいる。
だが、納品先は家名ではない。
白百合。
銀扇。
北の窓。
古枝。
黒葉。
「符丁ですね」
アリアは思わず呟いた。
「おそらく」
ユリウスが頷く。
「商人は“顧客の好みを守るための印”と言いました」
「貴婦人の香りの好みを外へ出さないため、ですか」
「表向きは」
アリアは帳簿へ視線を落とした。
白百合。
銀扇。
北の窓。
古枝。
黒葉。
この中に、黒枝会につながる名がある。
いや、もしかすると、全部が関係しているのかもしれない。
「グランディル侯爵夫人に当たりそうな符丁は?」
「まだ断定できません。ただ」
ユリウスは一つの項目を指した。
古枝。
「この“古枝”への納品日が、フェルナー伯爵夫人の証言にある黒い封蝋の手紙の到着時期と重なります」
「古枝……」
古い枝。
いかにもだ。
いかにもすぎる。
だからこそ、逆に怪しいとも思える。
「その符丁がグランディル侯爵夫人とは限りませんね」
「はい。わざと別の名を使っている可能性もあります」
「黒葉は?」
「黒葉への納品は、さらに少量です。高価な樹脂を使った封蝋を、ほんの数本だけ。時期は、婚約発表直後と、フェルナー伯爵夫人が動き出す直前」
アリアは胸の奥が冷えるのを感じた。
婚約発表直後。
つまり、自分が正式に皇太子の婚約者になった直後から、黒枝会は動いていたのだ。
「納品先は分からないのですか」
「商人は言いません」
「言わない?」
「“顧客の信用を売る商売ではない”と」
ユリウスの口調に、ほんの少しだけ皮肉が混じった。
「ただし、王宮取引に関わる品質確認で帳簿を押さえています。商人が隠し続けるなら、今度は王宮との取引資格そのものが問題になります」
「それで話しますか」
「商人は、かなり揺れています」
ユリウスは別の紙を取り出した。
「それと、倉庫で黒枝樹脂入りの封蝋棒を確認しました。一本だけ、削った跡があるものがありました」
「削った跡?」
「印影を整えるために、溶かす前に少し削ることがあります。偽造文書の封蝋片と成分を比べます」
アリアは無意識に手を重ねた。
少しずつ、黒い枝が形になっていく。
だが、まだ根には届いていない。
「商人は、黒枝会の名を?」
「知らないと言っています」
「本当に知らないのでしょうか」
「知らない可能性はあります。商人はただ、高価な香料と封蝋を特定の貴婦人筋へ売っているだけかもしれません」
リナが控えめに口を開いた。
「でも、手紙を渡していたのですよね」
ユリウスが頷く。
「そこが問題です。商人は“注文書や香りの覚え書きを同封しただけ”と言っています。手紙の中身は見ていない、と」
「便利な言い方ですね」
アリアが言うと、ユリウスはかすかに笑った。
「王宮向きの感想です」
「喜べません」
「私もです」
その日の夕方、小会議室にはレオンハルトも加わった。
帳簿の写しを見た彼は、しばらく黙っていた。
「符丁か」
「はい」
ユリウスが答える。
「白百合、銀扇、北の窓、古枝、黒葉。現時点では対応する家名は不明です」
「商人は」
「まだ全ては話していません。ただ、取引資格を盾にすれば揺れるでしょう」
「脅すな」
レオンハルトは短く言った。
「逃げ道を用意して話させろ」
アリアはその言葉に少しだけ意外そうに顔を上げた。
レオンハルトは視線だけで気づいたらしい。
「何だ」
「いえ。厳しく詰めるのかと思っていました」
「詰めれば口を閉ざす」
彼は淡々と言う。
「商人は黒枝会の中心ではない。おそらく、運び役だ。運び役を潰せば、その先が切れる」
「話させる方がよいのですね」
「ああ」
アリアは頷いた。
怒りで潰すより、先を見る。
この数日で何度も学んだことだ。
「殿下」
「何だ」
「黒枝会は、貴婦人たちの集まりなのでしょうか」
レオンハルトはすぐには答えなかった。
ユリウスも少しだけ視線を落とす。
「表に出ている部分は、そうかもしれない」
レオンハルトは低く言った。
「表に出ている部分?」
「古い家の夫人たちが、茶会や慈善を使って情報を動かす。それは珍しくない」
「では、その奥があると?」
「あるかもしれない」
レオンハルトは帳簿へ視線を落とした。
「黒枝会が、本当に夫人たちだけの集まりなら、私の婚約者を揺らす理由はある。だが、王宮の調達線や私の名まで狙った。少し、手が広い」
その言葉に、アリアの胸が重くなる。
たしかにそうだ。
嫉妬や社交界の争いだけなら、アリアを困らせればいい。
けれど偽造文書は、王宮の手続きとレオンハルトの信用にまで触れようとした。
そこには、もう少し大きな意図がある。
「では、黒枝会の背後にも誰かが?」
「まだ分からない」
レオンハルトははっきり言った。
「分からないうちは、決めつけるな」
「はい」
その時、扉が叩かれた。
入ってきたのは、内務の若い侍従だった。
ユリウスへ小さく封筒を渡す。
ユリウスは中を確認し、表情を少し変えた。
「商人が、一つだけ話しました」
「何だ」
レオンハルトが問う。
「“黒葉”の納品先です」
部屋の空気が止まる。
ユリウスは封筒の中の紙へ目を落とし、静かに言った。
「グランディル侯爵家ではありません」
アリアは息を呑んだ。
「では」
「セルディア侯爵家です」
セルディア侯爵家。
以前、婚約者であるアリアへ招待枠や席順の相談を持ちかけてきた家。
柔らかな顔で、婚約者の立場を私的な便宜に使おうとした家。
あの若夫人の笑みが、頭をよぎる。
「黒葉が、セルディア……」
アリアは小さく呟いた。
「では、グランディル侯爵夫人は?」
「“古枝”の可能性が高い」
ユリウスが答える。
「商人はまだそこまでは認めていません。ですが、黒葉を明かしたということは、他も時間の問題です」
レオンハルトの顔が冷たくなる。
「二本あるな」
「はい」
ユリウスが頷く。
「グランディル侯爵家とセルディア侯爵家。黒枝会は、少なくとも一つの家だけではありません」
アリアは膝の上で手を握った。
敵が一人ではない。
それは予想していた。
でも、実際に家名が出ると、重さが違う。
フェルナー伯爵夫人は、入口だった。
黒枝会の枝は、もう複数の貴族家へ伸びている。
「アリア」
レオンハルトが呼ぶ。
「はい」
「顔色が悪い」
「……すみません」
「謝ることではない」
彼の声は低いが、責めてはいなかった。
「怖いか」
「怖いです」
アリアは正直に答えた。
「でも、それよりも……腹が立っています」
口にしてから、少しだけ驚く。
最近、自分はよく怒るようになった。
それは悪い変化ではないのだと、少しだけ思えるようになってきた。
「フェルナー伯爵夫人だけではなかった。誰かが誰かを動かし、その後ろでまた別の家が香りを運ばせている。私の名も、殿下の信頼も、マリーナも、エミリア様も……みんな、何かの盤面の駒みたいに扱われている」
言葉が少しだけ強くなる。
でも、声は荒げなかった。
「それが、嫌です」
部屋は静かだった。
レオンハルトはしばらくアリアを見ていた。
やがて言う。
「その怒りは正しい」
短い。
でも、その一言で十分だった。
「だが、今は追いすぎるな」
「はい」
「黒葉が見えた。古枝も見えかけている。だが、枝を折るには根を見なければならない」
根。
黒枝会の根。
そこに誰がいるのか。
それとも、根などなく、古い社交界そのものが絡み合ったものなのか。
まだ分からない。
「次はどうしますか」
アリアが問うと、ユリウスが答えた。
「セルディア侯爵家の動きを見ます。黒葉として黒枝封蝋を受け取っていたなら、何か残っているはずです」
「若夫人は?」
「当面は泳がせます」
泳がせる。
その言葉が、王宮らしくて少し嫌だった。
けれど、今はそれが必要なのだろう。
「グランディル侯爵夫人は」
ユリウスはレオンハルトを見る。
「次の慈善委員会に出席予定です」
レオンハルトの目が鋭くなる。
「アリアも出る」
アリアは顔を上げた。
「私も、ですか」
「ああ」
「危険では」
「危険だから出る」
短い返答。
「向こうは、君を見ている。なら、こちらも向こうを見る」
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
見られているだけでは終わらない。
こちらも見る。
婚約者として。
「分かりました」
アリアは頷いた。
「見ます」
小会議室の外では、夜の気配が濃くなっていた。
王宮の庭には灯りがともり、花も木々も影の中に沈んでいる。
黒枝会の香りは、まだ完全な名を持たない。
けれど、黒葉という枝が見えた。
古枝という枝も見えかけている。
次は、その枝をたどる番だった。




