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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第119話 黒枝会の香りは、まだ名を持たない

 黒枝会。


 その名を聞いた翌朝、アリア・フォン・ルーヴェルトは、鏡の前でしばらく黙っていた。


 昨日までとは、敵の形が違う。


 フェルナー伯爵夫人の罪は見えた。

 偽造された署名。

 黒い封蝋。

 侍女マリーナ。

 古い招待状の写し。


 それらはまだ整理の途中ではあるが、少なくとも輪郭はある。


 けれど、黒枝会は違った。


 社交界の奥に伸びる、名前のない枝。

 正式な会ではなく、招待状もなく、互いの名を明かさず、それでも確かに誰かを動かしている。


 フェルナー伯爵夫人を動かした者。

 その背後で、アリアがどこで折れるのかを見ていた者。


 そして、おそらくは、これからも別の誰かを差し向けてくる者。


「……深いわね」


 思わず漏らすと、背後で髪を整えていたリナが手を止めた。


「黒枝会のことでございますか」


「ええ」


 アリアは鏡の中の自分を見つめた。


「フェルナー伯爵夫人は、私を直接傷つけようとした。でも、黒枝会は違う気がするの」


「違う、と申しますと?」


「私を傷つけたいだけではなく、私がどう傷つくかを見ている」


 口にして、自分でも嫌な言葉だと思った。


 怒るのか。

 泣くのか。

 逃げるのか。

 レオンハルトへ縋るのか。

 それとも、婚約者として立つのか。


 黒枝会は、それを試している。


 そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。


「お嬢様」


 リナの声が少しだけ低くなる。


「本日は、少しお顔色が悪いです」


「そう?」


「はい。怒りというより……気味の悪さを我慢していらっしゃるお顔です」


 アリアは小さく笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


「ええ。気味が悪いのだと思う」


 相手がはっきり怒鳴ってくるなら、まだ受け止めようがある。

 悪意をぶつけてくるなら、返し方を考えられる。


 でも、姿の見えない誰かに観察されているという感覚は、別の種類の怖さだった。


「でも、行かなければ」


「はい」


 リナは静かに頷いた。


「本日も、お傍におります」


 その一言で、少しだけ呼吸が深くなった。


 王宮へ着くと、空気はいつもより柔らかかった。


 柔らかい。


 それがかえって、アリアには怖かった。


 フェルナー伯爵夫人の件は、まだ表向きには整理の途中だ。

 王宮全体に大きく広がってはいない。

 けれど、何かがあったことは、もう一部の者が感じ取っている。


 そのせいか、すれ違う女官たちの礼は少し慎重で、侍従たちの目線もいつもより静かだった。


 黒枝会の名を知っている者は、この中にいるのだろうか。

 それとも、誰も知らないまま、ただ王宮の空気だけが先に揺れているのだろうか。


 アリアは、胸の中の不安を顔に出さないよう歩いた。


 南翼の小会議室へ入ると、レオンハルトとユリウスがすでにいた。


 机の上には数枚の資料。

 その中に、黒い封蝋片が布の上に置かれている。


 見た瞬間、胸が少しだけ強く鳴った。


「来たか」


「はい」


 レオンハルトはアリアの顔を見て、すぐに言った。


「眠れていないな」


「少しは」


「少し、か」


 短いやり取り。


 けれど、その目は責めていない。

 ただ、こちらの状態を見ている。


 アリアは椅子へ座りながら、小さく息を吐いた。


「黒枝会のことを考えてしまいました」


「当然だ」


 レオンハルトは否定しなかった。


 ユリウスが資料を一枚前へ出す。


「フェルナー伯爵夫人の証言から、いくつか接点が見えてきました」


「接点?」


「黒い封蝋の手紙は、直接グランディル侯爵夫人から渡されたわけではありません。香油商人を介して届けられています」


 香油商人。


 昨日も出た言葉だ。


「その商人は?」


「王都の貴婦人たちに香油や練り香を売る者です。表向きはごく普通の商売人ですが、複数の古い貴族家へ出入りしています」


「グランディル侯爵家にも?」


「ええ。フェルナー家にも。セルディア侯爵家、ほかにも数家」


 アリアは資料へ視線を落とした。


 香油の注文記録。

 納品先。

 茶会の日程。

 慈善委員会の出席者。


 ただの商人なら、貴婦人の私室へ入ることもある。

 手紙を渡しても不自然ではない。

 香りの小瓶や包み紙に、短い文を紛れ込ませることもできる。


「黒枝会は、香りに隠れて動くのですね」


 ぽつりと言うと、ユリウスが少しだけ目を細めた。


「よい見方です」


「よい、というより……嫌な見方です」


「王宮では、嫌な見方ほど役に立ちます」


 アリアは苦笑した。


「嬉しくありません」


「私も勧めたくはありません」


 少しだけ空気が緩む。


 だが、レオンハルトは黒い封蝋片を見たまま言った。


「グランディル侯爵夫人は、まだ動かすな」


「はい」


 ユリウスが頷く。


「フェルナー伯爵夫人の証言だけでは足りません。香油商人の経路、黒蝋の入手先、手紙の筆跡、最低でも二つは押さえたいところです」


「香油商人を呼ぶのですか?」


 アリアが尋ねると、ユリウスは首を振った。


「今はまだ。急に呼べば、背後へ知らせが飛ぶ可能性があります」


「では、どうやって」


「向こうから来てもらいます」


 ユリウスは、何でもないことのように言った。


「本日午後、王宮内で春の香り選定があります。慰問行事で用いる布袋に薄く移す香りを決める場です。その商人も呼ばれています」


 アリアは思わずレオンハルトを見た。


「偶然……ではありませんね」


「偶然にした」


 レオンハルトが短く答える。


 なるほど、と思った。


 王宮が動く時は、こういう形になるのだ。

 いきなり問い詰めるのではなく、自然な場を作り、その中で相手を見る。


 怒りよりも、観察。


 待つことも攻めること。


 今まで何度も学んできたことが、また別の形で目の前に来ている。


「私も同席しますか」


「ああ」


 レオンハルトは即答した。


「ただし、君は聞き役だ」


「分かっています」


「黒枝会の名は出すな」


「はい」


「グランディルの名もだ」


「はい」


 アリアは頷いた。


「今日は、香りを見る日ですね」


「そうだ」


 レオンハルトの目が、ほんの少しだけやわらぐ。


「だが、香りだけを見るな」


 午後、王宮西翼の小サロンには、柔らかな香りが満ちていた。


 薔薇。

 菫。

 白檀に似た落ち着いた木の香り。

 柑橘を薄く混ぜた軽い香油。


 小瓶が並ぶ机は華やかで、一見するとただの穏やかな選定会に見える。


 出席しているのは、女官長補佐、数人の夫人、慰問行事に関わる担当者、そしてアリア。

 レオンハルトは表には出ていない。

 ユリウスも少し離れた位置で記録役のように控えている。


 やがて、香油商人が入ってきた。


 五十前後の男だった。

 髪には白いものが混じっているが、背筋は伸びている。

 着ているものは派手ではないが、香油商らしく袖口にほんのり香りが染みているようだった。


「お目にかかれて光栄でございます、ルーヴェルト様」


 男は深く礼を取った。


「本日は、慰問行事用の香りをいくつかお持ちいたしました」


「ありがとうございます」


 アリアは穏やかに返した。


「子どもたちも訪れる場ですので、強すぎないものがよいと聞いております」


「ええ。ですので、花よりも葉や果実の香りを中心に」


 商人は慣れた手つきで小瓶を並べた。


 最初に出されたのは、薄い柑橘の香りだった。

 明るく、軽く、春の慰問には向いている。


 次に、若葉の香り。

 さらに、白い花を思わせるもの。


 アリアは一つずつ丁寧に確かめた。

 香りを嗅ぐふりをしながら、商人の指先を見る。


 手入れされている。

 爪も綺麗だ。

 ただ、右手の親指の内側に黒っぽい跡がある。


 黒い蝋か。

 それとも、香料の色か。


 断定はできない。


「こちらは?」


 アリアは、机の端に置かれた小さな黒い瓶を指した。


 商人の動きが、ほんの一拍だけ遅れた。


「そちらは、少々大人向けの香りでございます。慰問には重いかと」


「見ても?」


「もちろんでございます」


 商人は笑って瓶を差し出した。


 中の香りは、樹脂と墨を混ぜたような深い香りだった。

 嫌な香りではない。

 でも、春の子ども向け慰問には確かに重い。


「珍しい香りですね」


「黒枝樹脂を少し使っております」


 黒枝。


 その言葉が出た瞬間、アリアの胸が止まりかけた。


 だが、顔には出さない。


「黒枝樹脂、ですか」


「はい。南方から入る珍しい樹脂でして。香りが長く残るので、貴婦人方の間で密かに人気がございます」


 密かに。


 ユリウスの筆が、紙の上で一瞬だけ止まったのをアリアは見た。


「黒い封蝋にも使われますか?」


 アリアは、あえて何気ない声で尋ねた。


 商人は少しだけ笑った。


「お詳しいですね。ええ、香りつきの封蝋に混ぜることもございます。もっとも、王宮の正式文書には向きません。私的なお手紙向けです」


 私的な手紙。


 黒い封蝋。


 黒枝樹脂。


 一本の細い線が見えた。


「その香りつきの封蝋は、こちらでも扱っているのですか?」


「ええ。ただ、高価ですので限られたお客様だけでございます」


「そうなのですね」


 アリアは瓶を静かに置いた。


「今日の慰問用には、少し重いかもしれません」


「おっしゃる通りでございます」


 商人は微笑む。

 けれど、その額にごく薄く汗が浮いている。


 その後、選定は滞りなく進んだ。


 最終的には、若葉と柑橘を薄く混ぜた香りが選ばれた。

 子どもたちへ渡す布袋にほんのわずか香りを移すだけなので、強すぎないことが大切だ。


 表向きは、それだけの会だった。


 しかし、商人が退出する時、ユリウスが自然に声をかけた。


「香油商殿」


「はい」


「黒枝樹脂の香りつき封蝋について、後ほど取引記録を確認させてください。王宮内で同系統の香りを使う可能性がありますので」


 商人の顔が、一瞬だけ固まった。


「取引記録、でございますか」


「ええ。王宮で扱うなら、出所を確認する必要があります」


「もちろんでございます。すぐに」


「急ぎません」


 ユリウスは微笑んだ。


「ただ、正確なものをお願いします」


 正確なもの。


 その言葉が、静かに刃のように落ちる。


 商人は深く礼を取った。


「承知いたしました」


 商人が出て行くと、サロンにはしばらく香りだけが残った。


 アリアは黒い小瓶が置かれていた場所を見つめる。


「黒枝樹脂」


 小さく呟く。


 ユリウスが近づいてきた。


「名前がつながりましたね」


「偶然ではないのでしょうか」


「偶然かもしれません」


 ユリウスは言った。


「ですが、偶然なら取引記録を見せられるはずです」


「見せられなければ」


「何かあります」


 王宮らしい答えだった。


 その日の夕刻、小会議室で報告を受けたレオンハルトは、黒枝樹脂の名を聞いて目を細めた。


「黒枝会の黒枝は、樹脂か」


「由来の一つかもしれません」


 ユリウスが答える。


「香りつき封蝋に使われる。私的な手紙向け。貴婦人層に限られる。黒枝会の連絡方法としては、かなり自然です」


「取引記録は」


「取り寄せます。ただし、改竄される可能性があります」


「先に商人の倉庫を押さえられるか」


「王宮取引に関わる品質確認名目なら、可能です」


 レオンハルトは短く頷いた。


「やれ」


「はい」


 アリアは二人のやり取りを聞きながら、胸の奥にゆっくりと重さが増していくのを感じていた。


 黒枝会。

 黒枝樹脂。

 黒い封蝋。

 香油商人。


 姿の見えない会が、少しずつ香りと蝋の形を持ち始めている。


「アリア」


 レオンハルトがこちらを見る。


「はい」


「今日、よく聞いた」


「黒い瓶のことですか」


「ああ」


「ただ、気になっただけです」


「その“気になった”が、よかった」


 短い褒め方だった。


 けれど、アリアの胸には静かに届いた。


「……香りが残っていました」


「何の香りだ」


「重い香りです。花ではなく、樹脂と墨のような」


 アリアは少し考え、言った。


「隠しても残る香りでした」


 ユリウスが、少しだけ表情を動かした。


「まさに、黒枝会らしいですね」


 アリアは黙って頷く。


 黒枝会は、まだ名を持たない。

 けれど、香りを持っていた。

 そしてその香りは、王宮の奥へ続いている。


 怖い。

 だが、もうただ気味が悪いだけではなかった。


 形が見え始めたものは、追える。


 アリアは静かに息を吸った。


「殿下」


「何だ」


「今度の相手は、香りのように残るのですね」


「ああ」


「なら、消える前に辿りましょう」


 レオンハルトの目が、わずかにやわらぐ。


「そうだな」


 黒枝会の香りは、まだ名を持たない。

 けれど、その匂いはもう確かに、アリアたちの前へ漂い始めていた。

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