表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

118/127

第118話 黒い封蝋は、まだ王宮の奥で乾かない

 フェルナー伯爵夫人への暫定処分方針がまとまった翌朝、王宮の空気は不思議なほど穏やかだった。


 もちろん、本当に穏やかなわけではない。


 水面だけが静かな池ほど、底には泥が沈んでいる。

 今の王宮は、まさにそれだった。


 アリア・フォン・ルーヴェルトは、南回廊を歩きながら、すれ違う女官たちの礼がいつもより少し深いことに気づいていた。

 昨日の会議の内容が、すでに王宮内の一部へ伝わっているのだろう。


 フェルナー伯爵夫人は厳しく処される。

 けれど、フェルナー家そのものは潰されない。

 エミリアは中心関与なしとして、完全には排除されない。

 マリーナも、罪は問われるが証言者として保護される。


 その判断が、どう受け取られるかは分からない。


 甘いと思う者もいる。

 冷静だと思う者もいる。

 そしてきっと、面白くないと思う者もいる。


「お嬢様」


 半歩後ろを歩くリナが、小さく声をかけた。


「皆様、少し……様子を見ていらっしゃいますね」


「ええ」


「昨日のことが伝わっているのでしょうか」


「全部ではないでしょうけれど、何かが決まったことは伝わっていると思うわ」


 王宮では、正式な発表より先に空気が動く。


 誰かの足音が変わり、誰かの口数が減り、誰かの礼が深くなる。

 それらが集まると、言葉になる前の噂になる。


 アリアは、そこでふと自分の手袋の指先を見た。


 昨日、自分はフェルナー家を潰さないと言った。

 怒りを持ったまま、壊しすぎない道を選んだ。


 それが本当に正しいのかは、まだ分からない。


 でも、少なくとも自分の怒りを慰めるために誰かの未来を焼き払うことだけは、したくなかった。


 その時、向こうからユリウスが歩いてきた。


 いつも通りの落ち着いた足取り。

 けれど、目元にわずかな硬さがある。


「ルーヴェルト嬢」


「おはようございます」


「おはようございます。少し、お時間を」


 その一言だけで、何かが起きたのだと分かった。


 案内されたのは、小会議室ではなく、王宮の東翼奥にある細い閲覧室だった。

 窓が一つだけあり、朝の光が斜めに落ちている。机の上には、封の切られた黒い小箱が置かれていた。


 箱というより、文箱に近い。

 黒漆ではない。深い灰色の木肌に、古い銀具がついている。


 そして、その横に置かれているのは、一枚の封蝋片だった。


 黒い蝋。

 光に当てると、細かな銀粉が混じっている。


 アリアの胸が、静かに冷えた。


「黒い封蝋の手紙、ですか」


「その一部です」


 ユリウスは机の前に立つ。


「フェルナー伯爵夫人の私物整理の中で、燃え残りが見つかりました」


「燃え残り……」


「処分しようとしたのでしょう。ですが、完全には燃えなかった」


 アリアは、机の上の封蝋片を見る。


 花とも星ともつかない印。

 昨日聞いた手がかりが、今、目の前にある。


「夫人は、これについて何と?」


「今のところ、知らないと」


「……そうですか」


 予想していた答えだった。

 けれど、胸の奥に小さな苛立ちが湧く。


 まだ黙るつもりなのだ。


 フェルナー伯爵夫人は、自分が利用された側でもあるかもしれない。

 だが、それでも罪は犯した。

 そして今なお、その背後の影を隠している。


「殿下は?」


「すぐに来られます」


 ユリウスがそう答えた直後、扉が開いた。


 レオンハルトが入ってくる。

 その姿を見た瞬間、部屋の空気が変わった。


 怒っている。


 けれど、怒りを外へ荒く出してはいない。

 静かすぎるほど静かな顔だ。

 だからこそ、余計に怖い。


「見つかったか」


「はい」


 ユリウスが封蝋片を示す。


「燃え残りです。手紙本文は大半が灰になっていますが、一部だけ読めます」


「読めるところは」


 ユリウスは、薄い保護紙に挟まれた焦げた紙片を広げた。


 文字は断片的だった。


 ――婚約者は、いずれ情で鈍る。

 ――名を借り、手続きを揺らせ。

 ――殿下の信頼は、刃にもなる。

 ――黒枝会は、あなたを見ている。


 最後の一文を見た時、アリアの背筋に冷たいものが走った。


「黒枝会……?」


 知らない名だった。


 ユリウスも表情を険しくする。


「少なくとも、王宮内で公に存在する組織名ではありません」


「社交界の私的な集まりか」


 レオンハルトが低く言う。


「可能性はあります。古い貴族家の婦人会、慈善組織、あるいはそれを装った情報交換の場かもしれません」


「黒枝会」


 アリアは小さく繰り返した。


 口にすると、嫌な響きがあった。


 黒い枝。

 根ではなく、幹でもなく、枝。


 王宮の表には出ず、どこかから伸びて、必要な場所へ影を落とすもの。


「フェルナー伯爵夫人は、その名を聞いて反応しましたか」


「まだ本人には見せていません」


 ユリウスが答える。


「先に殿下とルーヴェルト嬢へ」


 レオンハルトは紙片を見たまま、しばらく黙っていた。


 やがて、低く言う。


「フェルナーを呼べ」


「はい」


「ただし、今度は夫人としてではなく、証言者として扱う」


 その言葉に、アリアは顔を上げた。


「証言者、ですか」


「ああ」


 レオンハルトはアリアを見る。


「彼女は罪人だ。だが、背後を知るなら証言者にもなる」


「……夫人が話すでしょうか」


「話させる」


 短い。

 だが、その声には迷いがなかった。


 少しして、フェルナー伯爵夫人が閲覧室へ連れてこられた。


 昨日より、明らかに顔色が悪い。

 それでも背筋は伸びている。

 髪も乱れていない。

 フェルナー家の夫人としての誇りだけは、まだ手放していないのだろう。


 彼女は部屋に入るなり、黒い封蝋片を見た。


 その瞬間、表情がわずかに止まった。


 ほんの一瞬。


 だが、アリアは見逃さなかった。


 レオンハルトも、ユリウスも、おそらく見ていた。


「フェルナー伯爵夫人」


 ユリウスが静かに言う。


「これは、あなたの私物整理の中から見つかったものです」


「……存じませんわ」


 声は整っている。

 けれど、少しだけ乾いていた。


 ユリウスは焦げた紙片を示す。


「黒枝会、という名が残っています」


 夫人の指先が震えた。


 今度は隠しきれていなかった。


「お心当たりが?」


「……ありません」


 返答が、遅い。


 アリアは黙って見ていた。


 昨日までなら、ここで問い詰めたかったかもしれない。

 なぜ黙るのか。

 誰を庇っているのか。

 自分の娘や侍女まで巻き込んで、それでも守る相手なのか。


 でも今は、声を荒げない。


 証拠の前では、相手に言葉を選ばせる方がいい。


 レオンハルトが一歩前へ出た。


「フェルナー」


 夫人が、ゆっくり顔を上げる。


「私は、あなたの罪を軽くするつもりはない」


「……承知しております」


「だが、背後を隠すなら、あなたは利用された者ではなく、今も共犯であり続けることになる」


 その言葉に、夫人の目が揺れた。


 利用された者。

 共犯。


 その二つの違いは大きい。


「あなたはフェルナー家を残したいのだろう」


 レオンハルトの声は静かだった。


「なら、ここで沈黙を選ぶな」


 夫人は唇を引き結んだ。


 アリアは、その横顔を見ていた。


 昨日の会議で、フェルナー家を潰さない方針を選んだ。

 それは夫人を許すためではない。

 エミリアの未来を必要以上に焼かないためであり、王宮の処分を私怨に見せないためだった。


 でも今、この選択が夫人に別の逃げ道を与えている。

 家を残したいなら話せ、という道を。


 壊しすぎなかったからこそ、引き出せる言葉がある。


 そのことに気づき、アリアは胸の奥で静かに息を吸った。


「夫人」


 初めて、アリアが口を開いた。


 フェルナー伯爵夫人の視線がこちらへ向く。


「私は、あなたを許したわけではありません」


 声は穏やかだった。


「あなたが私の名を使ったことも、マリーナへ罪を負わせようとしたことも、王宮の手続きを歪めたことも、消えるとは思っていません」


「……でしょうね」


 夫人の声には、かすかな棘があった。


 だがアリアは、それを受け流した。


「でも、あなたがまだ誰かを恐れているなら」


 夫人の目が、ほんの少しだけ変わる。


「今、黙ることは、その相手を守ることになります」


「私が恐れていると?」


「ええ」


 アリアは、ためらわず頷いた。


「あなたは昨日まで、誇りで黙っているように見えました。でも今は違います。その封蝋を見た時、怖がったように見えました」


 部屋が静まる。


 夫人の顔から、ゆっくりと笑みが消えた。


「……ずいぶん、見るようになられたのね」


「王宮で、学びました」


「殿下の隣で?」


「はい」


 その返答に、夫人は皮肉の言葉を探したようだった。

 けれど、結局何も言わなかった。


 長い沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いた。


「黒枝会という名は、表には存在しません」


 ユリウスが、すぐに記録を取る。


 夫人は続けた。


「正式な会ではありません。招待状もありません。古い家の夫人たちが、慈善や茶会の名を借りて、情報を回す集まりです」


「構成員は」


 レオンハルトが問う。


 夫人は首を振った。


「すべては知りません。互いに名を出さないのが決まりです。紹介も、人を介して行われます」


「あなたを誘ったのは」


 夫人は少しだけ黙った。


 そして、低く答えた。


「グランディル侯爵夫人」


 アリアの胸が鳴った。


 グランディル侯爵夫人。


 古くから社交界に強い影響を持つ年長夫人。

 アリアに対しても、何度か“優しさ”や“甘さ”を探るような言葉を向けてきた人物だ。


「黒い封蝋の手紙は、その夫人からか」


 レオンハルトが問う。


「直接ではありません」


 フェルナー伯爵夫人は答える。


「でも、あの印は……黒枝会からの指示に使われるものです」


 ユリウスの筆が止まる。


「指示?」


「命令ではありません。助言、忠告、提案。そういう形です」


 夫人は苦く笑った。


「断ればいい。表向きは、そういうものですわ。でも断れば、次の茶会で席が遠くなり、慈善委員会で発言が通らなくなり、娘の縁談に妙な噂が混じる」


 声が、少しだけ震えていた。


「私も馬鹿でした。あれを利用できると思ったのです」


「利用?」


 アリアが問う。


「あなたを落とせば、娘の位置が少しでも上がるかもしれない。殿下の婚約者が不安定だと示せば、王宮内の勢力図が変わるかもしれない」


 夫人は、アリアを見た。


「そう思ったのです。……浅ましいでしょう?」


 アリアはすぐには答えなかった。


 浅ましい。

 確かにそうだ。


 でも、その言葉で片づけるには、目の前の女はあまりに疲れていた。


「あなたは、エミリア様のためだとおっしゃいました」


「ええ」


「でも、エミリア様は頼んでいないとも言いました」


 夫人の顔が歪む。


 ほんのわずかに。

 けれど、それは母親の顔だった。


「……あの子は、何も知りません」


「分かっています」


 アリアは静かに答えた。


「だから、あなたが話すべきです。これ以上、エミリア様をあなたの沈黙で危うくしないために」


 夫人は目を閉じた。


 長い沈黙。


 やがて、彼女は疲れたように言った。


「黒枝会は、あなたを見ています」


「私を?」


「ええ。皇太子殿下の婚約者として、あなたがどこまで立つか。どこで折れるか。どこで怒るか」


 夫人は目を開ける。


「今回、私は失敗した。次は別の誰かが来ます」


 部屋の空気が冷えた。


 レオンハルトの声が低く落ちる。


「来させない」


 夫人は力なく笑った。


「来ますわ。王宮で愛される女ほど、憎まれる。私は、それを知っています」


 同じ言葉だった。

 けれど今日は、その毒の奥に恐れが見えた。


 アリアは、膝の上で手を重ねた。


「それでも、私はここにいます」


 夫人がこちらを見る。


「怖くありませんの?」


「怖いです」


 アリアは正直に答えた。


「でも、怖いから退くという場所ではないので」


 その言葉に、夫人は何かを言いかけ、やめた。


 ユリウスが静かに確認を続ける。


「グランディル侯爵夫人との接触日時、黒い封蝋の手紙を受け取った経路、黒枝会に関わる可能性のある人物名。分かる範囲ですべて記録します」


 フェルナー伯爵夫人は、今度は抵抗しなかった。


 少しずつ、話し始めた。


 慈善委員会の帰り。

 王宮西翼の小サロン。

 香油を扱う商人を介した手紙。

 花とも星ともつかない印。

 そして、グランディル侯爵夫人の名。


 すべてが真実かどうかは、まだ分からない。

 だが、閉じていた扉がようやく開いたことだけは確かだった。


 フェルナー伯爵夫人が退室したあと、閲覧室には重い沈黙が落ちた。


 ユリウスが記録を閉じる。


「次の相手が見えましたね」


「グランディル侯爵夫人」


 アリアはその名を口にした。


 何度も会話した相手。

 優しく、上品で、時に鋭く、アリアの甘さを探ってきた年長夫人。


 あの人が、黒枝会。


 いや、少なくとも入口の一つ。


「すぐには動かない」


 レオンハルトが言った。


「当然です」


 ユリウスが頷く。


「フェルナー夫人の証言だけでは足りません。香油商人、手紙の経路、黒蝋の出所を押さえます」


 アリアは黙って聞いていた。


 怒りはある。

 けれど、今度の怒りは少し違った。


 フェルナー伯爵夫人への怒りは、自分の名を汚された怒りだった。

 今、胸に生まれているのは、自分を試すために周囲を巻き込む者たちへの怒りだ。


 マリーナ。

 エミリア。

 フェルナー家。

 その全てが、黒枝会という見えない手に揺らされた。


「殿下」


「何だ」


「今度の相手は、もっと深いのですね」


「ああ」


「王宮の奥にいる」


「そうだ」


 短い返答。

 でも、その重さは十分だった。


「なら」


 アリアは静かに息を吸った。


「私も、もっと静かに見ます」


 レオンハルトの目が、わずかに細められる。


「怖くないのか」


「怖いです」


 そこは、もう否定しない。


「でも、今度は怒るより先に、見なければいけない気がします」


 黒枝会。

 グランディル侯爵夫人。

 古い社交界の枝。


 相手は、感情で切れるようなものではない。

 根を見つけなければ、また別の枝が伸びてくる。


 レオンハルトは、しばらくアリアを見ていた。


 そして低く言う。


「なら、隣で見ろ」


 その言葉に、胸の奥が静かに熱くなった。


「はい」


 アリアは頷いた。


「隣で見ます」


 黒い封蝋は、まだ王宮の奥で乾いていない。

 むしろ、ようやくその影が形を持ち始めたところだった。


 フェルナー伯爵夫人の罪は終わりへ向かう。

 だが、その背後にいた者たちとの戦いは、ここから始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ