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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第122話 黒葉の夫人は、近づくほど香りを残す

 セルディア若夫人は、予想よりも早く動いた。


 慈善委員会の翌朝、アリア・フォン・ルーヴェルトが王宮へ着くと、女官長補佐から一通の書状を渡された。


「セルディア侯爵家の若夫人より、ルーヴェルト様へ」


 封筒は淡い菫色だった。


 表には、流麗な筆跡でアリアの名が書かれている。

 封蝋は黒ではない。

 白に近い灰色の蝋で、花の意匠が押されている。


 けれど、封筒を受け取った瞬間、アリアは微かに眉を動かした。


 香りがした。


 強くはない。

 花の香りに紛れるように、ごく薄く、奥に樹脂のような重さがある。


「黒枝樹脂……?」


 思わず小さく呟くと、女官長補佐も目を細めた。


「私にも、少し」


 リナが後ろから控えめに言った。


「昨日の香りほどではありませんが、似ています」


 アリアはすぐに封を切らなかった。


「ユリウス様へ確認を」


「承知いたしました」


 女官長補佐が静かに頷き、すぐに人を走らせる。


 王宮で学んだことがある。


 怪しいと感じたものほど、自分一人で開けてはいけない。

 疑いがあるなら、疑いがある状態をそのまま保存する。

 感情で封を切れば、それだけで証拠の形が変わる。


 少し前の自分なら、ここまで考えなかったかもしれない。


 けれど今は、もう知っている。

 婚約者の一挙手一投足が、相手にとって都合のいい物語へ変えられることを。


 間もなく、ユリウスがやって来た。


 昨日よりも表情が鋭い。

 書状を見た瞬間、彼は封蝋と紙の縁を確認した。


「開封前ですね」


「はい」


「よい判断です」


 その一言に、アリアは少しだけ胸を撫で下ろした。


「香りがします」


「ええ」


 ユリウスは封筒に顔を近づけすぎないよう、慎重に確認する。


「黒枝樹脂そのものではないかもしれません。花の香油に薄く混ぜている」


「意図的でしょうか」


「おそらく」


 ユリウスは短く答えた。


「ただし、“偶然香りが移った”と言い逃れできる程度です」


 またそれだ、とアリアは思った。


 黒枝会に関わるものは、いつもそうだった。


 断定できない。

 けれど、偶然とは思いにくい。

 相手はこちらに気づかせる。

 しかし、こちらが言葉にすれば、証拠が足りない。


 まるで、霧の中から指先だけを伸ばして頬に触れてくるような嫌らしさがある。


「開けましょう」


 ユリウスが言った。


 女官長補佐が記録紙を用意する。

 リナが少し離れた位置で見守る。


 封を切ると、中には短い招待状が入っていた。


 内容は、拍子抜けするほど穏やかだった。


 昨日の慈善委員会での礼。

 黒葉の意匠を寄付者控えに回してくれたことへの感謝。

 そして、もし時間があれば、慰問行事に向けた若い夫人たちの小さな相談会に同席してほしいという誘い。


 場所は、王宮内の西小サロン。

 時間は明後日の午後。


「相談会」


 アリアは静かに読み上げた。


「若い夫人たちの?」


「表向きは自然ですね」


 ユリウスが言う。


「慈善委員会の後、細かい作業を若手で詰めることはあります」


「でも、私を呼ぶ理由は?」


「黒葉がどこまで見られているかを確かめたいのでしょう」


 ユリウスの返答はあっさりしていた。


 アリアは手紙を机に置く。


「行くべきでしょうか」


「行くべきです」


 意外にも即答だった。


「危険ではありませんか」


「危険です」


「では、なぜ」


 ユリウスはアリアを見る。


「向こうがあなたに接触したがっているからです。断れば、相手は別の道を探す。受ければ、王宮内のこちらが整えた場で会える」


「こちらが整えた場」


「西小サロンなら、王宮側の女官を配置できます。参加者も事前に確認できます。相手の手札を、ある程度こちらで制限できる」


 なるほど、と思った。


 行く、ということは相手の誘いに乗ることではない。

 場所と形を整えた上で、相手をこちらの見える範囲へ出すことなのだ。


「殿下は」


「おそらく、同じ判断です」


 その言葉の直後、扉が開いた。


 レオンハルトが入ってくる。


「何が同じ判断だ」


 ユリウスはまったく驚かずに答えた。


「セルディア若夫人の相談会へ、ルーヴェルト嬢が出席する件です」


「行け」


 レオンハルトは一言で言った。


 アリアは思わず瞬きをする。


「即答ですね」


「断る理由がない」


「危険では」


「危険だから行く」


 昨日と同じようなことを言われ、アリアは少しだけ苦笑した。


「最近、危険だから行くことが増えております」


「王宮では珍しくない」


「できれば珍しくあってほしかったです」


 ユリウスが小さく咳払いをした。

 リナが後ろで笑いをこらえている気配がする。


 レオンハルトの目も、ほんの少しだけ和らいだ。


「ただし、一人では行かせない」


「はい」


「リナはそばに。女官長補佐の配下も入れる。ユリウスは近くに控えろ」


「承知しています」


 ユリウスが頷く。


「相談会には、セルディア若夫人のほか、誰が来るのでしょう」


 アリアが尋ねると、ユリウスは招待状を見直した。


「明記はされていません。そこも確認します」


「明記しないのは、普通ですか」


「半分は普通。半分は意図的でしょう」


「半分、ですか」


「社交界は、たいてい半分だけ普通です」


 嫌な真理のような言葉だった。


 レオンハルトが書状を見て、低く言う。


「この香りは挑発だな」


「挑発」


「ああ。黒葉は、こちらが気づいているかを試している」


 アリアは封筒へ視線を落とした。


 花の香りの奥に沈む、黒枝樹脂に似た重さ。


 気づく者には分かる。

 知らない者には、ただ少し大人びた香りに思える。


 黒枝会のやり方そのものだった。


「では、気づいていないふりを」


「いや」


 レオンハルトは首を振った。


「完全に気づいていないふりをすれば、侮られる」


「では?」


「少しだけ、気づいている顔をしろ」


 アリアは思わず困った顔をした。


「……難しいです」


「そうだな」


「殿下、そういう難しい指示を簡単におっしゃいますね」


「君ならできる」


 まっすぐ言われ、言葉が詰まった。


 こういう時、この人は本当にずるい。

 疑う隙間もなく信じてくる。


 アリアは小さく息を吐いた。


「努力します」


「努力では足りない」


「では、やります」


「いい」


 短いやり取りのあと、レオンハルトは書状をユリウスへ戻した。


「返信は」


「受ける方向で。ただし、王宮側の予定調整を挟みます」


「そうしろ」


 そして、彼はアリアを見た。


「アリア」


「はい」


「相手は、君の反応を見に来る」


「分かっています」


「なら、見られることを怖がるな」


 アリアは静かに頷いた。


「はい」


「こちらも見る」


「はい」


 その日の午後は、妙に長く感じた。


 表向きの予定はいつも通りだった。

 慰問行事の文面確認。

 寄付者控えの意匠整理。

 女官たちとの短い打ち合わせ。


 けれど、アリアの頭の片隅にはずっと、菫色の書状とその香りが残っていた。


 セルディア若夫人。

 黒葉の胸飾り。

 黒葉の栞案。

 そして、香りをつけた招待状。


 近づいてくる。


 しかも、逃げるようにではない。

 むしろ、こちらの目の前へ自分から出てくる。


 自信があるのか。

 それとも焦っているのか。


 アリアにはまだ分からなかった。


 夕方、リナが茶を入れてくれた時、ふと呟いた。


「黒葉の夫人は、怖いですね」


「ええ」


 アリアはカップを手にしたまま答えた。


「グランディル侯爵夫人とは別の怖さがあるわ」


「どのように?」


「グランディル侯爵夫人は、古い樹のように見えるの。動かないけれど、根が深い」


「セルディア若夫人は?」


「柔らかい葉のようね。風に揺れるけれど、どこへでも入り込む」


 リナは少し考え、それから言った。


「では、葉は摘めるのでしょうか」


「どうかしら」


 アリアは少しだけ笑った。


「でも、葉を摘んでも根が残れば、また芽が出るのでしょうね」


「嫌な植物ですね」


「本当に」


 その夜、小会議室で返信文が整えられた。


 内容は簡潔だった。


 慰問行事に関する若い夫人方の相談会へ、王宮側の日程が合う範囲で同席する。

 ただし、婚約者としての参加であるため、女官長補佐の配下も同席する。

 議題は慰問行事の実務に限る。


 柔らかい文面だが、線は引かれている。


 ユリウスがそれを読み上げると、アリアは頷いた。


「これなら、私的な集まりではなくなりますね」


「ええ」


「向こうは嫌がるでしょうか」


「嫌がるでしょうね」


 ユリウスはあっさり言った。


「ですが、断れば不自然です」


「断らなければ?」


「こちらの目がある場へ来ることになります」


 どちらにしても、相手は少し困る。


 そういう形を作るのが、王宮のやり方なのだろう。


 レオンハルトは窓際に立ったまま言った。


「アリア」


「はい」


「相手に合わせすぎるな」


「合わせすぎる?」


「柔らかい相手には、こちらも柔らかくなりすぎることがある」


 確かに、とアリアは思った。


 セルディア若夫人は、フェルナー伯爵夫人ほど露骨に追い詰められた顔をしない。

 グランディル侯爵夫人ほど重い圧もない。


 その代わり、話しているうちにいつの間にか距離を詰められる怖さがある。


「気をつけます」


「黒葉は近づくほど香りを残す」


 レオンハルトが低く言った。


「触れれば、こちらにも匂いがつく」


 その言葉は、少し怖かった。


 黒葉と関わるだけで、こちらも黒枝会に近い存在に見せられる可能性がある。

 だから、距離感を間違えてはいけない。


「では」


 アリアは静かに言った。


「香りが移らない距離で、見ます」


 レオンハルトの目が、少しだけ和らいだ。


「それでいい」


 翌々日の相談会。


 セルディア若夫人は、きっと笑って待っている。

 やわらかく、上品に、何事もない顔で。


 けれど、その香りはもう隠しきれていない。


 黒葉の夫人は、近づくほど香りを残す。

 ならばアリアは、その香りに呑まれず、どこから漂ってくるのかを見極めなければならない。


 婚約者として。

 レオンハルトの隣に立つ者として。

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