第112話 エミリアは、母の罪を知らない
部屋の扉を開ける前、アリア・フォン・ルーヴェルトは一度だけ息を整えた。
自分に言い聞かせる。
責めない。
庇いすぎない。
まず、聞く。
それだけのことが、今はひどく難しい。
扉の向こうにいるのは、フェルナー伯爵夫人ではない。
侍女マリーナでもない。
昨日の茶会で、古い招待状の意匠について少し嬉しそうに語っていた令嬢だ。
エミリア・フェルナー。
母の罪を、まだ知らない娘。
「どうぞ」
中から聞こえた声は、細く、少し硬かった。
アリアは扉を開けた。
小応接室の中は、必要以上に飾られていなかった。
淡い色の壁紙、低い机、向かい合う長椅子。窓は半分だけ開いていて、外から湿った風が入ってくる。
エミリアは長椅子の端に座っていた。
昨日と同じように上品な装いをしている。
けれど、顔色は悪い。両手は膝の上できちんと重ねられているが、指先だけが落ち着きなく動いていた。
アリアの姿を見た瞬間、エミリアは立ち上がった。
「ルーヴェルト様」
礼は乱れていない。
だが、深く下げられた頭がなかなか上がらない。
「お掛けください」
アリアは静かに言った。
エミリアは一瞬だけ迷い、それから恐る恐る腰を下ろす。
アリアも向かいに座った。
部屋の隅にはユリウスが控えている。
リナもアリアの背後に立った。
レオンハルトはいない。
それは、彼なりの配慮なのだろう。
皇太子本人がこの場にいれば、エミリアは必要以上に怯える。
母の罪を知る前に、口を閉ざしてしまうかもしれない。
「エミリア様」
アリアが名を呼ぶと、彼女の肩が小さく揺れた。
「はい」
「今日は、いくつか確認したいことがあってお呼びしました」
「……母のことでしょうか」
その問いは、思っていたより早く出た。
アリアは一拍置いて頷く。
「はい」
エミリアの唇がかすかに震える。
「母は……何か、したのでしょうか」
その声には、怖れがあった。
けれど同時に、どこかで答えを知っているような響きもあった。
アリアはすぐには答えなかった。
どこまで話すべきか。
どう伝えるべきか。
母の罪を娘へぶつけることにならないよう、それでも事実から逃げないように。
言葉を選ぶ。
「フェルナー伯爵夫人は、王宮で事情を確認されています」
「事情……」
「私の署名を偽造した文書に関わった疑いがあります」
エミリアの顔から血の気が引いた。
言葉の意味が、すぐには身体に入ってこなかったのだろう。
彼女は小さく瞬きをし、それから唇だけを動かした。
「署名……偽造……?」
「はい」
「ルーヴェルト様の、ですか」
「そうです」
エミリアは両手を強く握った。
「そんな……」
否定の言葉だった。
しかし、完全に信じられないという声ではなかった。
アリアはそこに気づいた。
「何か、思い当たることがありますか」
できるだけ穏やかに問う。
エミリアは一瞬、顔を上げた。
しかしすぐに視線を落とす。
「分かりません」
そう言ったあと、慌てて付け足す。
「本当に、分からないのです。ただ……」
「ただ?」
「最近、母がとても苛立っていました」
小さな声だった。
「婚約発表のあとから?」
アリアが問うと、エミリアはこくりと頷いた。
「はい。いえ、その前から少しずつ……。でも、正式に発表されてからは特に」
彼女は手の甲をじっと見つめていた。
「母は、王宮の話をよくしていました。今までは、私には難しいからと言って、詳しいことは教えてくれなかったのに。最近は、ルーヴェルト様のお名前をよく……」
そこで言葉が止まる。
「私の名を?」
「はい」
エミリアはかすれた声で答えた。
「ルーヴェルト様は恐ろしい方だと」
リナが背後でわずかに息を呑む気配がした。
アリアは、表情を変えないようにした。
「恐ろしい、ですか」
「はい。でも、悪口というより……」
エミリアは自分でもうまく言えない様子で、視線を揺らした。
「母は、怖がっていたのだと思います」
その言葉は、アリアの胸に深く引っかかった。
嫉妬ではなく、恐れ。
「私を?」
「はい」
エミリアは小さく頷く。
「母は言いました。皇太子殿下に愛されるだけの令嬢なら、まだよい。でも、王宮の中で信頼を得る令嬢は厄介だと」
アリアは黙って聞いた。
「ルーヴェルト様は、最初は傷ついた令嬢として同情されていただけだった。でも今は違う。女官たちも、文官たちも、少しずつルーヴェルト様を見る目を変えている。そうなれば、もうただの婚約者ではなくなる、と」
エミリアの声は震えていた。
おそらく母の言葉を思い出しているのだろう。
その言葉を口にすること自体が、母を裏切るように感じているのかもしれない。
「母は……私に、あなたを見なさいと言いました」
「私を?」
「はい」
エミリアは顔を上げた。
その目は赤くなっていたが、涙はまだ落ちていなかった。
「あれが、王宮で選ばれる女の顔だと。愛されるだけでは足りない。信頼を取る女が一番強いのだと」
アリアは、何も言えなかった。
フェルナー伯爵夫人が自分をどう見ていたのか。
その輪郭が、少しずつ見えてくる。
ただ妬んでいたのではない。
娘の未来を奪われたと思っただけでもない。
恐れていたのだ。
アリアが、皇太子の隣で本当に力を持ち始めることを。
「エミリア様」
アリアは静かに言った。
「あなたは、皇太子妃の候補にと、お母様から期待されていたのですか」
その問いに、エミリアは小さく肩を震わせた。
そして、少しだけ笑った。
笑ったというより、泣き出さないために口元を動かしたような笑みだった。
「そうだったのだと思います」
「ご自身では?」
「私は……」
言葉が詰まる。
しばらくして、エミリアは首を横に振った。
「分かりません。小さい頃から、母がそういう話をしていました。王宮で恥をかかないように。選ばれる令嬢になれるように。笑い方、歩き方、手紙の書き方、茶器の置き方……全部」
指先が、また膝の上で震える。
「でも私は、母が思うほど強くありません。王宮で立つのも怖いです。人の視線も苦手です。古い招待状の意匠を見ている方が、ずっと楽しい」
それは、昨日のエミリアの表情そのものだった。
銀の葉の意匠を語った時の、小さな明るさ。
母に止められて怯えた顔。
アリアは、胸の奥が少し痛んだ。
「母は、私のためだと言いました」
エミリアの声が、さらに細くなる。
「ルーヴェルト様が殿下の婚約者になられた時、母は……“あなたの未来が閉ざされた”と」
「あなたは、そう思いましたか」
エミリアはすぐに首を振った。
「いいえ」
その返答だけは、驚くほど早かった。
彼女自身も、それに少し驚いたようだった。
目を見開き、それからゆっくりと言葉を続ける。
「私は、殿下のことをよく知りません。遠くから見たことはあります。お姿も、立場も、もちろん存じています。でも……その方の隣に立ちたいと、本気で思ったことはありません」
そこで、初めて涙がこぼれた。
「母は、私のためだと言いました。でも……私は頼んでいません」
その言葉は、部屋の中へ落ちて、長く残った。
アリアはすぐに慰めなかった。
近づいて背を撫でることもできた。
大丈夫、と言うこともできた。
けれど、それは今ではない。
エミリアの涙は、母への裏切りと、自分の未来を母に握られていたことへの痛みと、アリアへの申し訳なさが混ざったものだ。
簡単な言葉で拭ってよいものではない。
「エミリア様」
アリアは、静かに声をかけた。
「あなたが頼んでいなくても、フェルナー伯爵夫人があなたのためだと言ったとしても、起きたことは消えません」
エミリアは泣きながら頷いた。
「はい」
「あなた自身が偽造文書に関わったとは、今のところ見ていません」
「……はい」
「ですが、フェルナー家の名で起きたことです。あなたが何も感じずに済む話でもありません」
「はい」
エミリアは両手で涙を押さえた。
その姿は、ひどく若く見えた。
「私は、どうすればよいのでしょう」
小さな問いだった。
アリアは答えを持っていなかった。
母の罪を知った娘へ、どう生きろと言えばいいのか。
そんなことを、簡単に言えるはずがない。
それでも、何も言わないわけにはいかなかった。
「まずは、事実を見ることだと思います」
アリアは言った。
「あなたのお母様が何をしたのか。なぜそうしたのか。誰を傷つけたのか。そして、あなた自身は何を望んでいるのか」
エミリアは涙で濡れた目を上げる。
「私自身が……」
「はい」
アリアは頷いた。
「お母様が望んだ未来ではなく、あなたが望む未来です」
エミリアは、まるでその言葉を初めて聞いたかのような顔をした。
それが、また胸に痛かった。
きっと彼女は、ずっと母の望む未来の中で生きてきたのだろう。
皇太子妃候補。
王宮にふさわしい令嬢。
フェルナー家の娘。
その前に、一人のエミリアでいる時間が少なかったのかもしれない。
「私は……」
エミリアは小さく呟いた。
「私は、怖いです」
「ええ」
「母を嫌いになりたくありません。でも、母がしたことは怖い。ルーヴェルト様に申し訳ない。マリーナにも……。でも、母が罰せられるのも怖い」
言葉が崩れ、涙がまた落ちる。
「全部、怖いのです」
アリアは、ゆっくり息を吸った。
「怖くてよいと思います」
エミリアが顔を上げる。
「よい、のですか」
「ええ」
アリアは静かに答えた。
「怖くないふりをすると、きっと間違えます」
自分にも言っている気がした。
怒っていないふり。
傷ついていないふり。
平気なふり。
王宮では必要な時もある。
けれど、自分の中でまで嘘をつけば、きっと壊れてしまう。
「怖いまま、見ればよいのだと思います」
アリアは続けた。
「今は」
エミリアは、言葉を失ったようにアリアを見つめた。
しばらくして、深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
その声は、最初の形式的なものとは違っていた。
「母が、ルーヴェルト様のお名前を汚しました。殿下にも、ご迷惑をおかけしました。フェルナー家の娘として、お詫び申し上げます」
アリアは、その謝罪をすぐには受け取らなかった。
受け取れば、彼女は少し楽になるかもしれない。
だが、それで終わらせてはいけない。
「謝罪は受け止めます」
アリアは言った。
「でも、あなた一人が背負うことではありません」
エミリアの肩が震える。
「あなたは、あなたが知っていることを正直に話してください。それが今、あなたにできることです」
「……はい」
エミリアは涙を拭った。
「話します」
そこから、彼女は少しずつ知っていることを語り始めた。
母が最近、先代伯爵夫人の遺品箱を頻繁に開けていたこと。
侍女マリーナを夜遅くまで私室に呼んでいたこと。
自分が入ろうとすると、すぐに話をやめたこと。
そして一度だけ、母がこう言ったこと。
「ルーヴェルト様の名は、まだ軽い。今なら、揺らせる」
その言葉が出た瞬間、部屋の空気が変わった。
ユリウスの目が鋭くなる。
リナも背後で息を止めた。
アリアは、ゆっくりとその言葉を繰り返した。
「私の名は、まだ軽い」
エミリアは怯えたように頷く。
「母が言いました。誰かの手紙を読んだあとに」
「手紙?」
ユリウスが初めて口を開いた。
エミリアはびくりとしたが、すぐに答えた。
「黒い封蝋の手紙でした」
黒い封蝋。
アリアの胸の奥で、冷たいものが広がる。
「差出人は?」
「分かりません。母は、私が近づくとすぐに隠しました。でも……その手紙を読んだあとから、母はルーヴェルト様のことを、以前より強く気にするようになりました」
ユリウスが静かに記録を取る。
「その手紙は、今も?」
「分かりません。母はよく、読んだあとの手紙を暖炉で燃やします」
燃やす。
証拠が残っているかは分からない。
だが、新しい影が現れた。
フェルナー伯爵夫人を焚きつけた者。
アリアの名を軽いと言った者。
アリアは、自分の怒りが別の形へ変わっていくのを感じた。
フェルナー伯爵夫人だけではない。
この事件の奥に、まだ何かがいる。
「エミリア様」
アリアは声を落ち着けた。
「その話は、とても大切です。話してくださってありがとうございます」
エミリアは小さく頷いた。
「私……母を売ったのでしょうか」
苦しそうな声だった。
アリアは、少しだけ言葉に迷った。
違う、と簡単に言ってあげたかった。
でも、それは違う。
彼女は確かに母に不利なことを話した。
それは彼女にとって裏切りのように感じるだろう。
だから、アリアは別の言葉を選んだ。
「あなたは、見たことを話しました」
エミリアは涙を浮かべたままアリアを見る。
「それ以上でも、それ以下でもありません」
その言葉に、エミリアは崩れるように泣いた。
今度は、アリアも少しだけ立ち上がった。
近づきすぎない距離で、彼女の前に膝を折る。
「エミリア様」
「はい……」
「今は、泣いてよいと思います」
その一言で、エミリアは声を殺しきれなくなった。
リナがそっと新しいハンカチを差し出す。
アリアはそれを受け取り、エミリアの手元へ置いた。
慰めすぎない。
けれど、突き放さない。
その線を探しながら。
聞き取りが終わったあと、エミリアは別室へ案内された。
フェルナー伯爵夫人とは会わせない。
それはユリウスの判断だった。
扉が閉まると、部屋の中にはしばらく沈黙が残った。
ユリウスが記録紙を見下ろしながら言う。
「黒い封蝋の手紙」
アリアは頷く。
「フェルナー伯爵夫人は、誰かに動かされた可能性がありますね」
「その可能性が高くなりました」
「私の名は、まだ軽い」
アリアは静かに呟いた。
その言葉は、胸の奥でひどく冷たかった。
ユリウスは顔を上げる。
「その一文、覚えておいてください」
「もちろんです」
「おそらく、これで終わりではありません」
「……はい」
分かっていた。
フェルナー伯爵夫人は、罪を犯した。
だが、彼女は最初の火元ではないかもしれない。
誰かが、彼女の嫉妬と恐れを見抜き、火をつけた。
アリアの名を軽いと見て、揺らせると思った。
その誰かが、まだいる。
しばらくして、レオンハルトのいる小会議室へ移動した。
ユリウスが報告する間、レオンハルトは一言も発しなかった。
ただ、黒い封蝋の手紙という言葉が出た瞬間、その目だけが冷えた。
「燃やした可能性があるか」
「はい」
「探せ」
「すでにフェルナー家の私室確認を手配しています。ただ、残っているかは」
「灰でもいい」
短い言葉だった。
アリアはその声の冷たさに、背筋が伸びる。
「殿下」
呼ぶと、レオンハルトがこちらを見る。
「何だ」
「エミリア様は、母の罪を完全には知りませんでした」
「ああ」
「でも、何も知らなかったわけでもありません」
「そうだな」
「彼女は、これから苦しむと思います」
レオンハルトは少し黙った。
「だろうな」
「私は、彼女を許したわけではありません。でも……」
「守りたいのか」
まっすぐ問われ、アリアはすぐには答えられなかった。
守りたい。
その言葉は少し違う気がした。
「壊したくないのだと思います」
やっと出た言葉は、それだった。
「彼女がしたことではないものまで、彼女へ落としたくありません」
レオンハルトはアリアを見つめる。
しばらくして、低く言った。
「分かった」
それだけ。
でも、その一言で十分だった。
「ただし」
続く声は厳しい。
「彼女を守るために、フェルナー伯爵夫人の罪を軽く見るな」
「はい」
「黒い封蝋の相手もだ」
「はい」
アリアは静かに頷いた。
エミリアは、母の罪を知らなかった。
けれど、母の影の中にいた。
そして母のさらに向こうには、黒い封蝋の手紙がある。
王宮の空気は、また一段深く沈んでいた。
この事件は、終わりに向かっているのではない。
もっと奥へ進み始めている。
アリアはそのことを、はっきり感じていた。




