第113話 侍女マリーナの告白
マリーナの再聴取は、王宮東翼の奥にある小さな部屋で行われることになった。
そこは、華やかな客を迎えるための部屋ではない。
壁には余計な飾りがなく、窓も細い。置かれているのは長机と数脚の椅子、それから記録用の小机だけだった。
罪を暴くための場所というより、言葉から逃げられない場所。
アリア・フォン・ルーヴェルトは、その部屋の扉の前で一度だけ足を止めた。
昨日、エミリアから聞いた話がまだ胸に残っている。
母は、私のためだと言いました。
でも……私は頼んでいません。
フェルナー伯爵夫人の罪は、もうかなり明らかになっている。
だが、その罪の周囲には、マリーナがいて、エミリアがいて、さらに黒い封蝋の手紙の影がある。
誰か一人を断じて終わりにできるほど、話は単純ではなくなっていた。
「ルーヴェルト様」
ユリウスが横から静かに声をかける。
「無理に同席する必要はありません」
「同席します」
アリアはすぐに答えた。
自分の声が、思ったより落ち着いていたことに少し驚く。
「私の署名が使われた件です。それに、マリーナが何を思って動いたのか、聞いておきたいのです」
「聞くことは、時に責めることより疲れますよ」
「分かっています」
完全に分かっているとは言えない。
それでも、聞かなければならないと思った。
ユリウスはそれ以上止めなかった。
「では、入ります」
扉が開く。
中にいたマリーナは、椅子に座っていた。
昨日見た時よりも、さらに小さく見えた。
手袋は外され、指先は膝の上で固く握られている。目元は腫れており、眠れていないことは明らかだった。
アリアが入ると、マリーナは反射的に立ち上がろうとした。
「そのままで」
ユリウスが言う。
マリーナは中途半端に腰を浮かせ、それからまた座った。
アリアは、マリーナの向かいではなく、少し斜めの位置に腰を下ろした。真正面に座れば、どうしても追い詰める形になる。けれど隣に座るには、まだ近すぎる。
今の距離が、たぶん一番よかった。
「マリーナ」
ユリウスが口を開く。
「昨日の証言を確認します。あなたは、フェルナー伯爵夫人の命令を受け、ルーヴェルト様の署名を偽造した文書を作成した。間違いありませんか」
マリーナは唇を震わせた。
「……はい」
「封蝋の写しを取ったのも、あなたですか」
「はい」
「文具商へ使いを出したのも?」
「はい」
「外部商会へ文書を届けさせたのも?」
マリーナは目を伏せる。
「……はい」
返事はどれも小さい。
しかし、逃げてはいなかった。
ユリウスは記録係へ視線を送り、続ける。
「では、なぜ従ったのですか」
その問いに、マリーナの顔が強張った。
部屋の空気が一段重くなる。
マリーナはしばらく黙っていた。
唇を何度か開き、閉じる。
言わなければならないことが多すぎて、どこから出せばよいのか分からないようだった。
やがて、かすれた声で言う。
「奥様に……逆らえませんでした」
ユリウスは黙って続きを待った。
「フェルナー家に入った時から、私は奥様付きでした。奥様は厳しい方です。でも、仕事を覚えれば認めてくださることもありました。私の家は……あまり豊かではありません。弟が借金を作って、父も病で……」
言葉が途切れる。
マリーナは両手を強く握った。
「奥様は、それを知っていました」
アリアは静かに聞いていた。
「最初は、ただの手伝いだと言われました。古い招待状を出して、封蝋の意匠を写すだけだと。慰問行事の意匠に使うかもしれないから、と」
それは、外から見れば不自然ではない作業だったのだろう。
「それから、ルーヴェルト様の署名を見たことがあるかと聞かれました。私はないと答えました。そうしたら、奥様が控えを見せて……」
マリーナの声が震える。
「婚約発表後の返礼控えでした。奥様は、ほんの少し似せればよいと言いました。正式なものとして出すわけではない。相手が勝手に勘違いするだけだと」
ユリウスの目が冷えた。
「そう説明されたのですね」
「はい」
「あなたは、それが偽造だと分かっていましたか」
マリーナはすぐに答えなかった。
しばらくして、唇を噛み、涙をこぼした。
「……分かっていました」
部屋が静まる。
「分かっていました。いけないことだと、分かっていました。でも……奥様に、うまくいけば弟の借金を肩代わりしてやると言われました。私を家政管理の補佐に上げてもよいと。そうすれば、給金も増えると」
恐怖だけではない。
欲もあった。
マリーナ自身が、それを口にした瞬間、顔をくしゃりと歪めた。
「怖かったのです。でも、それだけではありません。私も、欲が出ました。これがうまくいけば、家を助けられる。もう下働きから侮られずに済む。奥様に認めていただける。そう思ってしまいました」
彼女は両手で顔を覆った。
「申し訳ございません……本当に、申し訳ございません……」
その謝罪は、アリアへ向けられているのか、王宮へ向けられているのか、それとも自分自身へ向けられているのか分からなかった。
アリアは、すぐには何も言わなかった。
かわいそうだ、と思った。
同時に、許せない、とも思った。
家族を助けたかった。
主人に逆らえなかった。
認められたかった。
それらは人間らしい弱さだ。
だが、その弱さで自分の名は偽られた。
王宮の手続きは歪められかけた。
もし商会が確認しなければ、もっと大きな傷になっていた。
マリーナを完全な被害者として抱きしめることはできない。
けれど、ただの悪人として切り捨てることもできなかった。
「マリーナ」
アリアは静かに名を呼んだ。
マリーナは顔を上げる。
涙で頬が濡れていた。
「はい……」
「あなたがしたことは、私には許せません」
その言葉に、マリーナの顔がさらに青ざめる。
だが、アリアは言わなければならなかった。
「私の名を使いました。私が示していない意向を、まるで私が望んだことのように文書へ書きました。もしあれが通っていたら、私だけでなく、殿下のお名前にも疑いが向いたでしょう」
「はい……」
「それは、怖かったから、借金があったから、認められたかったから、で消えるものではありません」
マリーナは泣きながら頷いた。
「はい」
アリアはそこで一度、息を吸う。
「でも」
その一言で、マリーナの目がわずかに揺れた。
「あなた一人にすべてを負わせることも、正しくないと思っています」
ユリウスが静かにこちらを見る。
アリアは、その視線を感じながら続けた。
「あなたが罪を犯したことと、あなたに命じた者がいることは、別々に見なければなりません。あなたの罪は消えません。でも、命令した者の罪も、あなたに押しつけて消してはいけない」
マリーナは口元を押さえ、声を殺して泣いた。
「……ありがとうございます、と申し上げてよいのかも、分かりません」
「礼を言うことではありません」
アリアは首を振る。
「ただ、これから先は、あなたが知っていることを正直に話してください。怖くても。誰かを庇いたくなっても。自分を少しでも軽く見せたくなっても」
マリーナは震えながら頷く。
「はい」
「それが、今あなたにできることです」
「はい……」
ユリウスが静かに口を開いた。
「では、確認を続けます。フェルナー伯爵夫人以外に、この偽造文書について知っている者は?」
マリーナは涙を拭いながら、考えるように目を伏せた。
「直接知っていたのは、奥様と私だけです。文具商へ使いに出した者には、中身は知らせていません。外部商会へ届けた少年も、ただ届け物だと」
「黒い封蝋の手紙については」
その言葉が出た瞬間、マリーナの肩がはっきり跳ねた。
アリアは見逃さなかった。
ユリウスの目も細くなる。
「知っているのですね」
マリーナは唇を震わせた。
「……中身は、知りません」
「では、存在は知っている」
「はい」
「誰から届いたものですか」
「分かりません。本当に、分かりません。奥様は、差出人の名をおっしゃいませんでした。ただ……」
「ただ?」
マリーナは両手を握った。
「奥様は、その手紙を読んだあと、いつもよりずっと静かになりました」
「静か?」
「はい。怒鳴るでもなく、苛立つでもなく、ただ……考え込むようになって」
マリーナの目が、記憶を追うように揺れる。
「そのあとで、私に古い招待状の箱を出すよう命じました。最初は、昔の王宮茶会の封蝋を見たいと。次に、ルーヴェルト様の署名を真似られるかと」
ユリウスが記録係へ視線を送る。
「黒い封蝋の手紙は、何通ありましたか」
「私が見たのは、三通です」
アリアは思わず息を呑んだ。
三通。
エミリアは一通の話しかしていなかった。
だが、マリーナは三通見ている。
「届いた時期は」
「一通目は、婚約発表の少し後。二通目は、ルーヴェルト様が王宮の若い女官たちから信頼を得始めた頃……奥様がそうおっしゃっていました。三通目は、偽造文書を出す二日前です」
「三通目のあとに、実行したのですね」
「はい」
「その手紙は、どこに」
マリーナは首を横に振った。
「奥様が燃やしました。少なくとも、私が見たものは」
「燃え残りは」
「暖炉の灰を、私が片づけました」
ユリウスの声が低くなる。
「灰はどこへ」
「屋敷裏の灰置き場へ。ですが、日が経っています。残っているかは……」
「灰置き場を確認します」
ユリウスはすぐに記録係へ指示を出した。
マリーナは震えたまま、さらに続けた。
「三通目を読んだ時、奥様は笑いました」
アリアの胸が、嫌な音を立てる。
「どんなふうに」
「……怖い笑い方でした。勝てる、とおっしゃいました」
「勝てる?」
「はい。ルーヴェルト様はまだ婚約者になったばかりで、名が軽い。少し揺らせば、周りは疑う。そうすれば、殿下も守りきれない、と」
アリアの指先が冷えた。
私の名は、まだ軽い。
やはり、その言葉はフェルナー伯爵夫人だけのものではない。
誰かが、そう吹き込んだ。
「奥様は、最初から偽造文書を考えていたのですか」
アリアが問うと、マリーナは迷うように眉を寄せた。
「最初は……分かりません。ルーヴェルト様が何か失敗すればよいと、そうおっしゃっていました。でも、具体的な方法は決まっていなかったと思います」
「黒い封蝋の手紙が届いてから、変わった」
「はい」
「手紙の中に、方法が書かれていた可能性がありますね」
ユリウスが静かに言う。
マリーナは頷いた。
「奥様は、二通目の後に“古い印影が役に立つ”とおっしゃいました。三通目の後に、“商会が絡めば疑いは形になる”と」
部屋が、重く沈んだ。
黒い封蝋の手紙は、ただ焚きつけただけではない。
やり方まで示した可能性がある。
フェルナー伯爵夫人は実行犯だ。
だが、その背後には明らかに別の意志がある。
アリアはゆっくり息を吐いた。
怒りは、さらに奥へ向かっていく。
「マリーナ」
アリアはもう一度、彼女の名を呼んだ。
「はい」
「その黒い封蝋に、何か特徴はありましたか」
マリーナは目を閉じ、思い出そうとした。
「黒い蝋に……銀の細い粉が混じっていました」
「銀の粉」
「はい。光に当たると、少しだけきらきらして。印は……」
彼女はそこで口を閉じた。
「印は?」
ユリウスが促す。
「花のようにも、星のようにも見えました。でも、普通の家紋ではなかったと思います。奥様はその印を見ると、すぐに封を切っていました。差出人を知っていたのだと思います」
銀粉入りの黒い封蝋。
花とも星ともつかない印。
新しい手がかりだった。
ユリウスは記録係へ短く指示を出す。
「王宮に出入りする封蝋商、貴族家の私印、銀粉入り黒蝋の購入記録を洗ってください」
「はい」
マリーナの聞き取りは、そこからさらに細かく続いた。
フェルナー伯爵夫人がどの日に誰と会っていたか。
偽造文書を作った夜の状況。
署名の見本をどこから持ち出したか。
マリーナは、途中で何度も泣いた。
それでも、逃げなかった。
自分にも欲があったこと。
罪を軽く見せたくなったこと。
奥様が怖かったこと。
それでも命じられた時、断れなかったこと。
彼女の言葉は決して美しくなかった。
言い訳も混じっていた。
恐怖も、後悔も、自分を少しでも救いたい気持ちも見えた。
だからこそ、嘘ではないのだとアリアは感じた。
すべての聞き取りが終わる頃、マリーナは疲れ切っていた。
ユリウスが記録を閉じる。
「今日のところはここまでです。あなたの証言は記録されます。今後、再確認が必要になることもあります」
「はい」
「フェルナー伯爵夫人との接触は、しばらく禁じます」
マリーナは、小さく頷いた。
「……はい」
その返事には、安堵も混じっていた。
それを見て、アリアは胸が痛んだ。
怖かったのだ。
彼女はずっと。
しかし、その怖さで罪が消えるわけではない。
マリーナが立ち上がろうとした時、ふらついた。
控えていた女官が支える。
彼女はアリアへ向き直り、深く頭を下げた。
「ルーヴェルト様」
「はい」
「謝って済むことではないと、分かっています」
声はかすれていた。
「でも……申し訳ございませんでした」
アリアは、今度はすぐに答えた。
「謝罪は聞きました」
マリーナの肩が震える。
「許すとは、まだ言えません」
「はい」
「ですが、あなたが話したことは、無駄にしません」
マリーナはまた泣きそうな顔をして、それでも必死に頭を下げた。
「ありがとうございます」
彼女が連れて行かれると、部屋には重い沈黙が残った。
ユリウスはしばらく記録紙を見ていたが、やがて低く言った。
「奥が深くなりましたね」
「黒い封蝋の手紙」
アリアは呟く。
「三通もあったのですね」
「ええ。これで、フェルナー伯爵夫人が単独で思いついた件ではない可能性がかなり高くなりました」
「でも、夫人の罪は消えない」
「もちろんです」
ユリウスは静かに頷いた。
「誰かに焚きつけられたとしても、選んだのは夫人です」
その言葉を、アリアは胸の中で繰り返した。
焚きつけられた。
けれど、選んだ。
マリーナもそうだ。
命じられた。
怖かった。
欲もあった。
そして、選んだ。
人は、いつも一色ではない。
だからこそ、罪を測るのは難しい。
夕刻、レオンハルトのいる小会議室で報告が行われた。
マリーナの証言。
三通の黒い封蝋の手紙。
銀粉入りの黒蝋。
花とも星ともつかない印。
フェルナー伯爵夫人が手紙を読んだ後に具体的な行動を始めたこと。
レオンハルトは、最後まで黙って聞いていた。
報告が終わると、彼は静かに言った。
「マリーナは、証言者として保護する」
「はい」
ユリウスが答える。
「ただし、罪は問う」
「当然だ」
短いやり取りだった。
アリアは、その言葉を聞いて少しだけ胸を撫で下ろす。
罰をなくすわけではない。
だが、すべてを背負わせるわけでもない。
少なくとも、そこは守られた。
「アリア」
レオンハルトに呼ばれる。
「はい」
「今日の聞き取りはどうだった」
アリアは少しだけ考えた。
「苦しかったです」
正直に答える。
「マリーナを許せないと思いました。でも、全部を彼女に負わせたくないとも思いました。話を聞けば聞くほど、簡単に言えなくなりました」
「それでいい」
「よいのですか」
「ああ」
レオンハルトは迷いなく言う。
「簡単に言えるなら、最初から聞く意味がない」
その言葉に、胸の奥が少しだけ楽になった。
「罪を薄めることと、罪の重さを正しく測ることは違う」
レオンハルトは続けた。
「マリーナには罪がある。だが、夫人がその上に罪を被せることは許さない。黒い封蝋の相手も同じだ」
アリアは静かに頷く。
「はい」
「君は今日、そこを間違えなかった」
その一言だけで、今日一日張り詰めていた何かが少し緩んだ。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
いつもの返し。
それが少しだけ嬉しかった。
ユリウスが資料をまとめながら言う。
「次は、フェルナー伯爵夫人への再聴取です。マリーナの証言を突きつけることになります」
アリアは息を吸った。
また、厳しい場になる。
フェルナー伯爵夫人は簡単には折れないだろう。
使用人の妄言だと言うかもしれない。
マリーナへ責任を戻そうとするかもしれない。
けれど、もう状況は変わっている。
マリーナは語った。
黒い封蝋の手紙の存在も出た。
フェルナー伯爵夫人がどれほど強く立とうと、周囲の証拠は少しずつ彼女の足場を削っている。
「同席するか」
レオンハルトが問う。
アリアは目を伏せた。
同席したくない気持ちもある。
夫人の冷たい目を見るのは、正直怖い。
自分が勝った側だと責められるのも、きっと苦しい。
それでも。
「同席します」
アリアは答えた。
「ただし、必要な時だけ話します」
「それでいい」
レオンハルトは短く頷いた。
窓の外では、日が沈み始めていた。
王宮の庭が夕暮れの色に沈み、枝先の若葉だけがかすかに光を残している。
マリーナの告白は、事件を終わらせなかった。
むしろ、さらに奥へ続く扉を開いた。
フェルナー伯爵夫人。
黒い封蝋の手紙。
そして、その向こうにいる誰か。
アリアは胸の奥の怒りを、もう一度静かに抱え直した。
怒りだけで動かない。
けれど、怒りを忘れない。
それが今の自分にできる、婚約者としての立ち方だった。




