第111話 婚約者は、勝利の後に笑わない
フェルナー伯爵夫人が別室へ連れて行かれたあと、閲覧室には長い沈黙が残った。
古い招待状の入った箱は、まだ机の上に置かれている。
銀の葉の意匠。
封蝋の押し跡。
王宮茶会の古い記憶。
本来なら、美しいものだったはずだ。
けれど今のアリア・フォン・ルーヴェルトには、その箱がひどく重たいものに見えた。
美しい紙も、丁寧な保管も、先代伯爵夫人の趣味も、すべてが誰かの悪意に利用された。
そして何より、自分の名が使われた。
皇太子の婚約者という名。
アリア・フォン・ルーヴェルトという署名。
その二つを勝手に借り、王宮の手続きを歪めようとした。
怒りはある。
胸の奥で、まだ静かに燃えている。
けれど、勝ったとは思えなかった。
マリーナは泣き崩れていた。
フェルナー伯爵夫人は最後まで誇り高く立っていたが、その顔からはもう余裕が消えていた。
そして、ここにはいないエミリアは、これから母の罪を知ることになる。
誰かを追い詰めた。
誰かの罪を暴いた。
自分の名は守られた。
それでも、胸は晴れなかった。
「アリア」
低い声に呼ばれ、アリアは顔を上げた。
レオンハルトがすぐそばに立っている。
いつの間に近づいたのか分からなかった。
その目は、怒りを奥へ沈めたまま、まっすぐ彼女を見ている。
「顔色が悪い」
「……そうでしょうか」
「そうだ」
短い返答だった。
アリアは自分の手を見下ろす。
指先が、少し冷えていた。
「終わった、のですよね」
そう言ってから、自分でもその言葉が違う気がした。
終わった。
確かに、偽造署名の件は大きく動いた。
フェルナー伯爵夫人の関与も、マリーナの証言も出た。
もう、ただの疑いではない。
けれど、何も終わっていない。
これから処分がある。
フェルナー家への聞き取りがある。
エミリアへの説明がある。
社交界へも、いずれ何かしら伝わる。
終わったのではなく、表へ出ただけだ。
「まだだ」
レオンハルトは、アリアが自分で思ったことをそのまま言った。
「今から後始末が始まる」
「……はい」
「ここで勝った顔をするな」
その言葉に、アリアは息を止めた。
勝った顔。
そんなつもりはなかった。
けれど、言われた瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「私は……」
「君がそういう顔をするとは思っていない」
レオンハルトはすぐに言った。
「だが、周囲はそう見たがる」
アリアは黙った。
その通りだ。
社交界も王宮も、事実そのものより、見え方を先に拾う。
悪事を暴いた婚約者。
偽造された自分の名を守った令嬢。
相手を追い詰めた女。
どんな言葉でも作れる。
「ここで君が少しでも満足そうに見えれば、相手は言うだろう」
レオンハルトの声は低い。
「婚約者が私怨でフェルナー家を潰した、と」
アリアは目を伏せた。
そんなつもりはない。
けれど、“そんなつもりではない”だけでは守れない場所に、自分はもう立っている。
「……分かっています」
「いいや」
レオンハルトは静かに首を振った。
「分かっているなら、なお言っておく」
彼は一拍置いて続けた。
「ここで勝った顔をすれば、君の正しさが汚れる」
その一言は、アリアの胸へ深く落ちた。
正しさが汚れる。
自分の名を守ることは正しい。
偽造を暴くことも正しい。
マリーナ一人へ罪を負わせなかったことも、きっと正しかった。
けれど、その後の振る舞いを間違えれば、正しさそのものが別の色に見えてしまう。
アリアはゆっくり息を吸った。
「では、私はどう立てばよいのでしょう」
答えを求める声ではなかった。
それでも、聞かずにはいられなかった。
レオンハルトはすぐには答えない。
少しの沈黙のあと、静かに言う。
「笑うな」
「はい」
「泣くな」
「……はい」
「怒りを見せるな」
そこだけ、少しだけ胸が痛んだ。
「はい」
「だが、忘れるな」
アリアは顔を上げる。
「忘れるな、ですか」
「ああ」
レオンハルトは、机の上の偽造文書へ視線を落とした。
「君の名を汚したこと。王宮の手続きを歪めようとしたこと。使用人一人へ罪を負わせようとしたこと。その全部を忘れるな」
声は冷たい。
けれど、その冷たさは怒りを制御するためのものだった。
「忘れずに、しかし表へ雑に出すな」
何度も言われてきたことだった。
それでも今は、これまでで一番重く響く。
「……難しいです」
アリアは正直に言った。
「そうだろうな」
「でも、やります」
「ああ」
短い肯定。
それだけで、少しだけ呼吸が戻った。
閲覧室の扉が静かに開き、ユリウスが戻ってきた。
手には新しい記録紙がある。
表情はいつも通り穏やかに見えるが、目の奥は鋭い。
「フェルナー伯爵夫人は別室へ。マリーナは証言保護の扱いで一時的に王宮内に留めています」
「夫人は何か言ったか」
レオンハルトが問う。
「今のところは、侍女が勝手にやったことだと主張するつもりのようです。ただ、マリーナが命令を受けたと証言した以上、すぐには押し切れません」
「証言を崩しに来るな」
「ええ。マリーナへの圧力を防ぐ必要があります」
ユリウスはそう言って、アリアへ視線を向けた。
「ルーヴェルト嬢、あなたにも確認したいことがあります」
「はい」
「マリーナに対して、何か特別な扱いを望みますか」
その問いは、思っていたより重かった。
マリーナは罪を犯した。
文書を偽造し、アリアの署名を真似た。
その行為自体は許されない。
けれど同時に、彼女はフェルナー伯爵夫人に命じられ、最後には証言した。
泣き崩れながら、自分一人ではないと口にした。
助けたい、と思う。
だが、その気持ちだけで処分を軽くしてよいのか。
アリアはすぐには答えなかった。
しばらく考えてから、口を開く。
「特別に救ってほしい、とは言えません」
声は静かだった。
「彼女がしたことは、罪です。私の名を偽り、王宮の手続きを歪めようとしたことに関わった。それは、なかったことにはできません」
ユリウスは黙って聞いている。
レオンハルトも何も言わない。
「ですが」
アリアは続けた。
「彼女一人へすべてを負わせる形には、しないでください」
自分の言葉が、少しずつ固まっていくのを感じた。
「彼女が罪を認め、命令関係を話したことは、きちんと記録してほしいのです。罰をなくすのではなく、罪の重さを正しく測るために」
ユリウスの目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「分かりました」
「それから」
アリアは一瞬だけ迷い、しかし言った。
「彼女がフェルナー伯爵夫人から圧力を受けないようにしてください」
「もちろんです」
ユリウスは即答した。
「そこはすでに手配しています」
アリアは小さく頷く。
これでいいのかは分からない。
けれど、今の自分が言える線はそこだった。
許すのではない。
助けるだけでもない。
正しく扱う。
それが、婚約者としての自分が今取るべき態度なのだろう。
「エミリア嬢には」
アリアが言うと、ユリウスは少しだけ表情を引き締めた。
「まだ詳しい話はしていません」
「彼女を呼ぶのですか」
「必要になるでしょう」
やはり、とアリアは思った。
エミリア。
母の罪を、まだ知らない令嬢。
古い招待状の美しさを無邪気に語っていた娘。
「彼女は、中心ではないと思います」
アリアは静かに言った。
「昨日も、今日も、その印象は変わりません」
「私も同意見です」
ユリウスが頷く。
「ただし、フェルナー家の者である以上、完全に無関係ではいられません」
「……はい」
それも分かっている。
罪を犯していなくても、家の名は傷つく。
母がしたことは、娘の未来にも影を落とす。
その理不尽さを、アリアは他人事とは思えなかった。
悪役令嬢と呼ばれた時、自分もまた、事実ではないもので未来を曇らされた。
だからこそ、エミリアを簡単に断罪したくない。
同時に、母の罪をなかったことにもできない。
「次に呼ぶべきは、エミリア嬢です」
ユリウスが静かに告げた。
その言葉に、アリアの胸が重く沈む。
来ると思っていた。
それでも、実際に言われると苦しい。
「私も同席しますか」
「あなたが望むなら」
ユリウスはそう言ったあと、レオンハルトを見る。
レオンハルトはしばらく黙っていた。
「同席するなら、責めるな」
アリアへ向けられた言葉だった。
「はい」
「庇いすぎるな」
「……はい」
「聞け」
短い三つの言葉。
それが、一番難しいのだとアリアは思った。
責めず、庇いすぎず、聞く。
エミリアの口から何が出るのか。
母を信じたい気持ちか。
裏切られた痛みか。
アリアへの謝罪か。
あるいは、何も知らなかったという混乱か。
どれが出ても、受け止めなければならない。
「分かりました」
アリアは答えた。
「聞きます」
ユリウスが記録紙をまとめる。
「では、午後に調整します。エミリア嬢には、まず王宮側から事情確認として呼び出しを。フェルナー伯爵夫人とは接触させません」
「お願いします」
話が終わると、閲覧室の空気がようやく少し動いた。
女官長補佐が資料を下げ、管理官が封蝋比較記録を慎重に封じる。
リナはアリアのそばへ静かに寄ったが、何も言わなかった。
その沈黙がありがたかった。
王宮の外では、噂が走り始めているだろう。
内側でも、もう完全には隠せない。
フェルナー伯爵夫人が王宮で取り調べを受けている。
侍女が泣き崩れた。
皇太子殿下が怒っている。
婚約者であるアリアが何かされたらしい。
人はきっと、好き勝手に繋げる。
その中でアリアが取るべき態度は、一つしかない。
勝った顔をしない。
怒りに飲まれない。
だが、忘れない。
午後までの少しの間、アリアは小会議室で待つことになった。
レオンハルトは公務のため、一度席を外す。
ユリウスも手配に動いた。
部屋には、アリアとリナだけが残った。
沈黙が落ちる。
しばらくして、リナがそっと口を開いた。
「お嬢様」
「何?」
「先ほどのお嬢様は、とてもお強かったです」
アリアは首を振った。
「強かったわけではないわ」
「そうでしょうか」
「ずっと、怖かった」
正直に言うと、リナは黙って聞いてくれた。
「マリーナが泣いた時、近づきたかった。フェルナー伯爵夫人が“愚かな子”と言った時、怒鳴りたかった。エミリア様のことを考えたら、胸が苦しくなった」
「はい」
「でも、全部できなかった」
「できなかったのではなく、なさらなかったのだと思います」
リナの声は静かだった。
「それは、強いことです」
アリアは目を伏せる。
そう言われても、まだうまく受け取れない。
「……勝ったとは思えないの」
「はい」
「名を守れたはずなのに、全然、嬉しくない」
「それでよろしいのではありませんか」
思いがけない返答に、アリアは顔を上げた。
リナは、いつもより少しだけ真剣な顔をしていた。
「お嬢様が嬉しそうにしていたら、私は少し心配になったと思います」
「リナ」
「だって、誰かが泣いて、誰かの罪が明らかになって、誰かの家が傷つくのです。お嬢様が笑えないのは、きっと正しいことです」
胸の奥が、じんと熱くなった。
「……ありがとう」
「いいえ」
リナは小さく首を振った。
「でも、お嬢様。笑えないことと、ご自分を責めることは違います」
その言葉に、アリアは少しだけ息を止めた。
「今はまだ、笑えなくてよいのだと思います。でも、お嬢様が悪いわけではございません」
そう言われた瞬間、思っていた以上に胸が痛んだ。
自分でも気づかないうちに、少し責めていたのかもしれない。
もっと早く気づけていれば。
マリーナを追い詰めずに済んだのでは。
エミリアを傷つけずに済んだのでは。
フェルナー伯爵夫人がここまで行く前に止められたのでは。
そんな、答えのない考えが胸の中にあった。
「……そうね」
アリアはようやく言った。
「今は、責める時でも笑う時でもないのね」
「はい」
「見る時なのね」
リナは静かに頷いた。
「きっと」
その時、扉が叩かれた。
入ってきたのはユリウスだった。
「エミリア嬢が王宮へ到着しました」
アリアは立ち上がる。
胸は重い。
けれど足は止まらなかった。
「行きます」
ユリウスは一度だけ頷いた。
「彼女は、まだ全容を知りません。ですが、自分が何かの中心に近い場所へ呼ばれたことは理解しているようです」
「……分かりました」
「ルーヴェルト嬢」
「はい」
「あなたが聞くことで、彼女が話せることもあると思います」
その言葉は、少し意外だった。
「私が、ですか」
「ええ。あなたは被害を受けた側です。だからこそ、彼女は嘘をつきにくい。しかし同時に、あなたが責めないなら、話せることもある」
重い役割だった。
でも、逃げるわけにはいかない。
「分かりました」
アリアは静かに頷いた。
廊下へ出ると、王宮の空気は朝よりさらに張っていた。
何かが動いている。
何かが露わになった。
その気配が、石壁の中にまで染み込んでいるようだった。
アリアは歩きながら、自分へ言い聞かせた。
勝った顔をしない。
責めすぎない。
庇いすぎない。
聞く。
エミリアの待つ部屋の前で、一度だけ深く息を吸う。
扉の向こうには、母の罪をまだ知らない娘がいる。
アリアは、そっと扉へ手をかけた。




