第110話 婚約者は、封蝋の一致を静かに受け取る
結果が出たのは、その日の夕刻だった。
空は結局、雨を落とさなかった。
ただ、曇りだけが長く王宮の上へ居座り、庭の木々も、石造りの回廊も、どこか湿った沈黙をまとっていた。
アリア・フォン・ルーヴェルトは、小会議室の窓辺に立ったまま、外を見ていた。
何かを見ていたわけではない。
むしろ、何も見ないようにしていたのかもしれない。
フェルナー伯爵家から預かった、銀の葉の招待状。
封蝋の押し跡。
偽造文書に使われた封蝋の痕。
それらを、今ごろ王宮文書室の管理官たちが比べている。
もし一致すれば、フェルナー家の保管資料が偽造に使われた可能性は大きくなる。
けれど、それだけではまだ誰がやったかは決まらない。
伯爵夫人か。
侍女マリーナか。
あるいは、さらに別の誰かか。
証拠は近い。
近いからこそ、焦ってはいけない。
「座れ」
後ろからレオンハルトの声がした。
アリアは振り返る。
「立っていた方が落ち着きます」
「落ち着いて見えない」
「……そうですか」
「ああ」
あまりに率直で、少しだけ笑ってしまった。
レオンハルトは机の前に立ち、腕を組んでいる。
いつも通り冷静に見えるが、彼もまた苛立っていないわけではないのだろう。指先が一度だけ机を叩いたのを、アリアは見ていた。
「殿下も、落ち着いて見えません」
思わず言うと、レオンハルトはわずかに眉を動かした。
「私がか」
「はい」
「そうか」
それだけ言って、彼は机から手を離した。
不思議なやり取りだった。
緊迫しているはずなのに、こうして短い言葉を交わせるだけで、胸の奥の硬さが少しだけほどける。
そこへ、扉が叩かれた。
入ってきたのはユリウスだった。
手には封じられた薄い書類束を持っている。
彼の顔を見た瞬間、アリアは結果を聞く前に分かってしまった。
何かが出たのだ。
「結果が出ました」
ユリウスの声は低く、余計な揺れがなかった。
レオンハルトが短く言う。
「言え」
ユリウスは書類を机へ置いた。
「フェルナー伯爵家より提出された銀の葉の招待状、その封蝋跡に残っていた圧痕と、偽造文書の封蝋痕を照合しました」
アリアは知らず、指先を握りしめていた。
「完全一致とは言えません。偽造側は写しであり、蝋の質も違います。ただし、縁の欠け方、葉脈部分の潰れ、外輪の微細な歪みが一致しています」
ユリウスは一拍置いた。
「偽造文書の封蝋は、あの招待状の封蝋跡を写し元にした可能性が極めて高い」
静かな言葉だった。
けれど、その瞬間、部屋の空気が確実に変わった。
アリアは声を出さなかった。
怒りが、胸の奥で熱を持つ。
けれど同時に、不思議なくらい頭は冷えていた。
箱の蓋が開いた。
そして、その中から確かに証拠の端が見えた。
「マリーナの手袋は」
レオンハルトが問う。
「洗濯室の娘から証言を取りました。数日前、マリーナが赤茶の蝋染みがついた侍女用手袋を染み抜きに出しています。さらに、文具商の帳簿にも、マリーナの名はありませんが、フェルナー伯爵家の使いが封蝋と写し紙を購入した記録があります」
「使いの名は」
「フェルナー家の台所番の甥です。本人は“マリーナに頼まれた”と証言しています」
アリアは思わず目を伏せた。
マリーナ。
やはり彼女が直接動いていた。
しかし、まだ終わらない。
「夫人は?」
アリアが問うと、ユリウスがこちらを見た。
「そこが問題です。現時点では、夫人が直接命じた証拠はありません」
「……マリーナが独断で?」
「形だけなら、そう逃げることは可能です」
ユリウスの声音は冷静だった。
だが、その奥には苦さがある。
「しかし、侍女一人が独断で婚約者の署名を偽造し、王宮の古い印影を写し、外部商会へ文書を出すには、動機も危険も大きすぎます」
レオンハルトが低く言った。
「夫人の意向があったと見るのが自然だな」
「はい。ただ、自然であることと証明できることは別です」
その言葉に、アリアはゆっくり息を吐いた。
王宮らしい。
本当に、王宮らしい。
誰もが分かっている。
けれど、紙の上ではまだ届かない。
「マリーナを呼ぶのですか」
アリアが尋ねると、ユリウスは頷いた。
「すでに王宮へ留めています。フェルナー伯爵夫人には、資料確認の追加があるとして残っていただいています」
「エミリア様は?」
「本日は同行していません」
そのことに、少しだけ安堵した自分がいた。
巻き込まれずに済む。
少なくとも、今この場では。
レオンハルトはしばらく黙っていた。
それから、アリアを見る。
「君は同席するか」
問いは静かだった。
だが、それがどれほど重い問いか、アリアには分かった。
自分の名を偽造した件だ。
当事者として同席する権利はある。
だが、同席すれば感情が揺れる。
もしマリーナが泣き崩れたり、伯爵夫人が知らぬ存ぜぬを通したりすれば、自分は冷静でいられるだろうか。
少し前なら、迷ったかもしれない。
けれど今は、答えがあった。
「同席します」
アリアは静かに言った。
「ただし、問い詰める役ではなく、私の署名ではないことを確認する当事者として」
ユリウスが、わずかに目を細める。
「よい線引きです」
「声は荒げません」
アリアは続けた。
「怒りはあります。でも、ここで怒りを見せたら、話が私の感情へ移ってしまいます」
レオンハルトは黙って聞いていた。
「これは、私の名を汚した話であると同時に、王宮の正式な手続きが歪められた話です。だから、私だけの怒りにしてはいけないと思います」
言い切ったあと、自分でも少し驚いた。
こんなふうに考えられるようになったのだ、と。
レオンハルトは一拍置き、低く言った。
「それでいい」
その一言が、今のアリアには何より必要だった。
事情聴取の場は、同じ東翼の小閲覧室に移された。
窓は閉じられ、机の上には偽造文書、銀の葉の招待状、封蝋比較の記録、そして文具商の帳簿写しが並べられている。
そこへ、マリーナが連れてこられた。
彼女は青ざめていた。
昨日見た時よりもずっと顔色が悪く、手袋をしていない指先は小刻みに震えている。
その後ろに、フェルナー伯爵夫人がいた。
彼女はまだ美しかった。
背筋は伸び、表情も崩れていない。
ただ、その目元だけがひどく硬い。
「これは、どういうことでございましょう」
夫人は最初にそう言った。
声は落ち着いている。
けれど、その落ち着きは少し作られすぎていた。
ユリウスが静かに答える。
「フェルナー伯爵家よりお預かりした資料と、先日発見された偽造文書について、確認したいことがございます」
「偽造文書」
夫人は眉を寄せる。
「そのような物騒な話に、なぜ我が家が」
「順に確認いたします」
ユリウスは感情を挟まない。
まず、偽造文書が机へ置かれた。
次に、銀の葉の招待状。
そして封蝋痕の比較記録。
マリーナの肩が、目に見えて震えた。
夫人はそれを見ない。
ただ、まっすぐユリウスを見ている。
「この偽造文書には、ルーヴェルト様の署名を模したものが記されています」
ユリウスが言う。
「ルーヴェルト様」
アリアは静かに前へ出た。
「これは、私の署名ではありません」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「私はこのような文書に署名しておりません。また、特定の商会へ便宜を図る意向を示したこともありません」
それだけを、はっきりと言う。
マリーナの目が一瞬、アリアへ向いた。
その目には、恐怖と後悔が入り混じっていた。
ユリウスが続ける。
「偽造文書に使われた封蝋痕は、フェルナー伯爵家より提出された銀の葉の招待状の封蝋跡を写し元にした可能性が高いと判断されました」
「偶然ではございませんの?」
夫人の声はまだ落ち着いている。
「古い王宮の印影など、似たものは多くございましょう」
「可能性としては」
ユリウスは認めた。
「しかし、文具商の帳簿に、フェルナー家の使いが封蝋と写し紙を購入した記録があります」
夫人の扇が止まった。
「さらに、その使いは、マリーナ殿に頼まれたと証言しています」
部屋の視線がマリーナへ集まる。
マリーナは震えたまま、唇を開いた。
だが声が出ない。
「マリーナ」
フェルナー伯爵夫人が低く呼んだ。
その声を聞いた瞬間、マリーナの顔が完全に青ざめた。
アリアは、その反応を見て胸が痛んだ。
この侍女は、伯爵夫人を恐れている。
少なくとも、それだけは確かだった。
「答えなさい」
夫人は静かに言う。
「あなたが何か勝手なことをしたのなら、ここで正直に申し上げるのです」
勝手なこと。
その言葉が、アリアの耳に引っかかった。
切り捨てる準備だ。
マリーナは息を詰まらせ、床へ膝をつきそうになった。
だがその前に、ユリウスが言った。
「立ったままで結構です」
短いが、強い声だった。
マリーナは震えたまま、何とか立ち続ける。
「マリーナ殿」
ユリウスの声は冷静だ。
「偽造文書を作成したのは、あなたですか」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて、マリーナは震える声で言った。
「……私が」
フェルナー伯爵夫人は目を閉じた。
まるで、残念な使用人の罪を聞いた主人のように。
「私が、書きました」
マリーナは続けた。
「封蝋も、私が写しました。文具商へも……使いをやりました」
部屋の空気が重く沈む。
だが、アリアは違和感を覚えた。
言葉が、まるで用意されていたようだった。
私は。
私が。
私が。
全部を引き受けるための言葉。
ユリウスも同じことを感じたのだろう。
声を変えずに問う。
「なぜですか」
マリーナの唇が震える。
「……フェルナー家のために」
「誰の指示ですか」
「誰の指示でもありません」
即答だった。
早すぎる。
アリアは、そこで初めて口を挟んだ。
「マリーナ」
彼女はびくりと震えた。
アリアはできるだけ静かに言った。
「私の署名を、どこで見ましたか」
マリーナは顔を上げた。
目が泳ぐ。
「それは……王宮で、偶然」
「どの文書ですか」
「覚えて……おりません」
「では、私の署名の最後の癖を、なぜ間違えたのですか」
その問いに、マリーナは固まった。
部屋の空気が変わる。
アリアは続けた。
「私の署名は、最後の文字を少し上げて終えます。でも偽造文書では、下げて終えている。これは、私の署名を見慣れていない方が、形だけを写した時の癖です」
マリーナの目に涙が浮かぶ。
「あなたは、私の署名を直接よく見たわけではないのでしょう」
マリーナは何も言えなかった。
「では、誰が見本を用意しましたか」
その瞬間、フェルナー伯爵夫人が口を開いた。
「ルーヴェルト様」
声は穏やかだったが、冷たい。
「使用人が罪を認めております。これ以上、何を」
「私は、私の名を使われました」
アリアは夫人を見た。
声は荒げない。
だが、引かない。
「ですから、確認しています」
夫人の目が細くなる。
「婚約者というお立場で、使用人一人を追い詰めるのですか」
来た。
アリアは胸の奥で思った。
今度は自分を、弱い者を責める婚約者にしようとしている。
けれど、もうその流れには乗らない。
「いいえ」
アリアは静かに答えた。
「むしろ、使用人一人にすべてを負わせないために確認しています」
夫人の表情が、初めてわずかに乱れた。
マリーナが、涙をこぼす。
その涙を見て、アリアは胸が締めつけられた。
けれど、止まらなかった。
「マリーナ。あなたが書いたことは、罪です」
きちんと言う。
「けれど、あなた一人で始めたことなのかどうかで、意味は変わります」
マリーナは唇を噛んだ。
夫人が低く言う。
「黙りなさい、マリーナ」
その一言で、全員が気づいた。
言いすぎたのは、夫人の方だった。
ユリウスが静かに視線を上げる。
「フェルナー伯爵夫人。なぜ、今そこで黙らせる必要が?」
夫人の顔が固まる。
「私は、使用人がこれ以上醜態をさらさぬように」
「醜態かどうかは、こちらで判断します」
ユリウスの声は低い。
レオンハルトは、それまで一言も発していなかった。
だが、ここで初めて口を開いた。
「マリーナ」
その声だけで、部屋の空気が変わった。
マリーナは泣きながら顔を上げる。
「誰に、命じられた」
短い問い。
逃げ道のない問いだった。
マリーナは震えた。
夫人は扇を握りしめている。
長い沈黙のあと、マリーナは崩れるように膝をついた。
「……奥様に」
その声は、かすれていた。
「フェルナー伯爵夫人に、命じられました」
部屋の中から、音が消えた。
アリアは目を閉じなかった。
見ていなければならないと思った。
夫人は、しばらく無表情だった。
それから、ゆっくりと笑みを消した。
「愚かな子」
それは、マリーナへ向けた言葉だった。
しかしその一言で、すべてが決定的になった。
アリアは声を荒げなかった。
怒りはある。
今までで一番強いかもしれない。
けれど、その怒りを叫びに変える必要はなかった。
なぜなら、証拠はもう目の前にある。
マリーナの証言。
封蝋の一致。
文具商の帳簿。
そして、夫人自身が口にした“愚かな子”という切り捨て。
レオンハルトが静かに言った。
「フェルナー伯爵夫人」
夫人は彼を見た。
美しい顔に、もう笑みはなかった。
「あなたには、別室で話を聞く」
「……殿下」
「今ここで弁明する必要はない」
彼の声は冷たかった。
「だが、私の婚約者の名を使い、王宮の文書を偽造した疑いについて、正式に扱う」
夫人の顔が、初めて青ざめた。
アリアはその様子を見ていた。
少し前の自分なら、勝ったと思ったかもしれない。
あるいは、怖くなって目を逸らしたかもしれない。
今は違う。
これは勝ち負けではない。
誰かの罪が、ようやく表へ出ただけだ。
マリーナは床に伏せて泣いていた。
アリアは彼女へ近づきたい衝動を抑えた。
今ここで優しくすれば、それもまた別の意味を持つ。
慰めは、今ではない。
けれど、ひとつだけ言った。
「マリーナ」
彼女は涙に濡れた顔を上げる。
「あなたの罪は消えません。でも、話したことは無駄にはしません」
マリーナは、声にならない声で泣いた。
それ以上は言わなかった。
フェルナー伯爵夫人とマリーナがそれぞれ別に連れて行かれたあと、閲覧室にはしばらく沈黙が残った。
ユリウスが資料を整え、管理官が記録を封じる。
リナはアリアの背後に静かに立っている。
レオンハルトだけが、アリアのそばへ来た。
「耐えたな」
低い声。
その一言で、急に胸の奥が熱くなった。
「……声を荒げませんでした」
「ああ」
「でも、本当は」
言葉が少しだけ詰まる。
「本当は、怒鳴りたかったです」
「知っている」
「なぜ、私の名を使ったのか。なぜ、殿下まで巻き込もうとしたのか。なぜ、マリーナに全部を背負わせようとしたのか」
「知っている」
同じ言葉を、もう一度。
それだけで、アリアはようやく深く息を吐けた。
「殿下」
「何だ」
「証拠の前で声を荒げないというのは、思っていたより苦しいですね」
「そうだな」
否定しない。
慰めもしない。
ただ認めてくれる。
それが今は、何よりありがたかった。
レオンハルトは少しだけ声を落とした。
「だが、君が荒げなかったから、夫人は逃げられなかった」
アリアは顔を上げる。
「私が?」
「ああ」
「私は、ほとんど何も」
「必要な問いを置いた」
彼は言う。
「署名の癖。見本。使用人一人に背負わせないという線。あれで流れが変わった」
アリアは、マリーナが泣き崩れる前の顔を思い出した。
追い詰めたのだろうか。
救ったのだろうか。
そのどちらでもあるのかもしれない。
「……正しかったのでしょうか」
小さく問うと、レオンハルトは迷いなく答えた。
「正しかった」
その一言に、胸の奥で何かがほどけた。
窓の外では、低い雲の切れ間から、ほんの少しだけ光が差していた。
雨は降らなかった。
けれど、空気はまだ湿っている。
婚約者は、証拠の前で声を荒げない。
その苦しさを知った日、アリアは自分の名を汚した者を、怒りではなく、証拠と言葉で断った。
そしてその静けさこそが、何より強い刃になったのだった。




