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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第109話 婚約者は、証拠の前で声を荒げない

 翌日の王宮は、朝から少しだけ湿った空気をまとっていた。


 雨が降るほどではない。

 けれど雲は低く、庭の木々はいつもより色を沈ませ、石造りの回廊には春先の冷たさが残っている。


 アリア・フォン・ルーヴェルトは、王宮の東翼へ向かいながら、自分の呼吸が浅くならないよう意識していた。


 今日は、箱が開く日だった。


 フェルナー伯爵夫人が持参するという、古い王宮茶会の招待状と意匠資料。

 表向きは、慰問行事に使う栞の意匠参考のため。

 だが実際には、偽造文書に使われた紙と封蝋の手がかりを探るための場だ。


 まだ、夫人が犯人と決まったわけではない。

 そこを間違えてはいけない。


 けれど、今日の箱の中に何があるか。

 何がないか。

 それだけで、かなりのことが分かるはずだった。


「お嬢様」


 隣を歩くリナが、小さく言った。


「大丈夫ですか」


「ええ」


 アリアは前を向いたまま頷いた。


「怒ってはいけない日だから」


「はい」


「……でも、怒っていないわけではないの」


「存じております」


 リナの返事は、驚くほど自然だった。


 アリアは思わず少しだけ横を見る。

 リナはいつものように控えめな顔をしているが、その目はまっすぐだった。


「今日は、私も見ています」


「ええ。お願い」


 自分一人ではない。

 そのことが、今朝はひどく心強かった。


 東翼の閲覧室には、すでに準備が整えられていた。


 窓際の大きな机には白布が敷かれ、資料を傷めぬよう薄手の手袋と、記録用の紙、確認用の小さな拡大鏡が置かれている。女官長補佐、ユリウス、王宮文書室の管理官がそろっており、少し離れた位置にはレオンハルトもいた。


 婚約者の私的な興味ではない。

 王宮の資料確認である。

 その形が、最初から明確に整えられていた。


「来たか」


 レオンハルトが短く言う。


「はい」


 アリアが礼を取ると、彼の視線が一瞬だけ彼女の顔を確認するように止まった。


「顔色は悪くない」


「そう見えるようにしてきました」


 思わずそう返すと、ユリウスが小さく咳払いをした。

 笑いをこらえたのだろう。


 レオンハルトは一拍だけ黙り、そして言った。


「それでいい」


 短い言葉だった。

 でも、それだけで肩の力がほんの少し抜けた。


 やがて扉が開き、フェルナー伯爵夫人が入ってきた。


 今日の夫人は、濃紺のドレスに身を包んでいた。

 派手ではない。

 けれど、年長の貴婦人としての威厳をよく分かっている装いだった。


 後ろには侍女マリーナが控えている。

 さらにもう一人、箱を持つ若い従者。

 エミリアの姿はなかった。


 アリアはそこに、ほんの少しだけ安堵した。

 巻き込まれずに済むなら、その方がいい。


「お招きいただき、光栄でございます」


 フェルナー伯爵夫人は、ゆっくりと礼を取った。


「古いものばかりで恐縮ですが、慰問行事のお役に立つなら」


「ご協力、感謝いたします」


 アリアは静かに返した。


 声は揺れていない。

 自分でも、それを確認する。


 夫人の従者が机の上へ箱を置いた。


 木製の細長い箱だった。

 蓋の縁には小さな金具がつき、長く保管されていたものらしい鈍い艶がある。外側には古い布が巻かれ、丁寧に扱われてきたことは分かった。


 箱の蓋が開く音は、思ったより小さかった。


 かたり、という乾いた音。


 その瞬間、閲覧室の空気が一段深く静まる。


 中には、数枚の古い招待状が入っていた。

 銀の葉の意匠。

 花籠の意匠。

 月桂樹の意匠。

 どれも状態はよく、紙には薄い保護布が挟まれている。


 アリアはまず、感情を消して見た。


 綺麗だ。

 本当に、古い王宮茶会の空気がそのまま残っているようだった。


 だからこそ、これを誰かの偽造に使ったのだとしたら、余計に腹立たしい。


「素晴らしい保存状態ですね」


 女官長補佐が言った。


 夫人は微笑む。


「先代夫人が、こういうものをとても大切にしておりましたの。私は、それを引き継いだだけですわ」


 “引き継いだだけ”。

 その言い方が、少しだけ早かった。


 ユリウスが管理官へ目配せする。

 管理官は手袋をはめ、順に招待状を確認し始めた。


 アリアも隣から、静かに目を通す。


 銀の葉の意匠は、昨日エミリアが好きだと言っていたものと同じだった。

 余白の小さな書き込みもある。


 ――別箱、封蝋写しあり。


 やはり、消されていない。


 アリアはその文字を見つけても、顔を上げなかった。


「フェルナー伯爵夫人」


 声をかけたのは、ユリウスだった。


「この余白の記載についてお伺いしても?」


 夫人の目が、ほんのわずかに動いた。


「余白?」


「別箱、封蝋写しあり、とございます」


 管理官が該当部分を示す。


 夫人は覗き込み、それから「ああ」と小さく笑った。


「先代夫人の覚え書きでしょう。あの方は細かな方でしたから」


「別箱は、現在も?」


「さあ……古いものですので。屋敷のどこかにはあるかもしれませんが、整理しきれておりませんの」


 うまい返答だった。


 否定しない。

 だが、今すぐ出せるとも言わない。


 アリアは黙って聞いた。


 ここで口を挟まない。

 ユリウスに任せる。


「では、後日確認をお願いできますか」


「ええ、もちろん。見つかれば」


 見つかれば。

 その逃げ道も、きちんと置かれている。


 その時だった。


 管理官が、銀の葉の招待状の封蝋跡へ拡大鏡を当てながら、眉をわずかに寄せた。


「こちら、押し跡が二重になっております」


 部屋の空気が変わった。


 ユリウスがすぐに近づく。


「二重?」


「はい。もともとの封蝋跡の上に、薄く写し紙を当てたような圧痕があります」


 フェルナー伯爵夫人の扇が、ほんの一瞬だけ止まった。


 アリアは見た。

 でも、見ていないふりをした。


 管理官は続ける。


「古い資料を意匠確認のため写すこと自体は珍しくありません。ただ、この圧は少し強い。封蝋の縁だけを取ろうとした跡にも見えます」


 ユリウスの声が低くなる。


「最近のものですか」


「断言はできませんが……紙の起毛の状態を見る限り、そこまで古くはありません」


 沈黙。


 フェルナー伯爵夫人が、そこで初めて小さく笑った。


「まあ、先代の頃のものですから。いつ誰が写したのかまでは」


「もちろんです」


 ユリウスは丁寧に言った。


「確認のため、記録を取らせていただきます」


「ええ。どうぞ」


 夫人は笑みを保っている。

 けれど、マリーナの顔色は明らかに悪くなっていた。


 リナが、ごくわずかにアリアへ視線を送る。


 アリアも気づいている。


 マリーナの指先が、手袋の中で落ち着きなく動いていた。

 まるで、自分の手を隠すように。


「マリーナ」


 不意に、フェルナー伯爵夫人が低く呼んだ。


 侍女はびくりと肩を揺らした。


「はい、奥様」


「立ち位置が近いわ。資料に影が落ちています」


「申し訳ございません」


 マリーナは一歩下がる。


 その動きで、袖口から手袋の端が少し見えた。


 薄い染み。

 完全には落ちていない赤茶の跡。


 アリアの胸の奥で、怒りが静かに燃え上がった。


 だが、声は出さない。


 証拠の前で声を荒げるな。

 レオンハルトの言葉を思い出す。


 ユリウスもまた、その染みに気づいたようだった。

 ただ、彼も表情を変えない。


「夫人」


 ユリウスが声をかける。


「この資料を、一時的に王宮文書室で詳しく確認してもよろしいでしょうか。慰問行事の意匠参考として、記録を取らせていただきたい」


 伯爵夫人の笑みが、ほんのわずかに固まった。


「持ち帰りは……先代夫人から受け継いだ大切なものですので」


「もちろん、慎重に扱います。保管記録を作り、確認後すぐにお返しいたします」


「写しでは足りませんの?」


「封蝋の凹凸を確認したいのです」


 ユリウスは、逃げ道を一つずつ塞いでいく。


 夫人は沈黙した。


 周囲には、王宮管理官、女官長補佐、レオンハルト、アリアがいる。

 ここで拒めば、不自然さが残る。


 長すぎない沈黙のあと、夫人は微笑んだ。


「……王宮のお役に立つなら」


「感謝いたします」


 ユリウスが礼を取る。


 その時、アリアは初めて口を開いた。


「フェルナー伯爵夫人」


 夫人の視線が向く。


「はい、ルーヴェルト様」


「大切な資料をお預けいただき、ありがとうございます」


 それだけを言う。


 責めない。

 疑わない。

 ただ、礼を述べる。


 夫人は微笑んだまま答えた。


「慰問行事のお役に立てるなら、光栄ですわ」


「ええ」


 アリアも微笑む。


「きっと、役に立つと思います」


 その言葉の意味を、夫人がどう受け取ったのかは分からない。

 ただ、彼女の扇を握る指先が、またほんの少し強くなった。


 資料確認はそこで終わった。


 フェルナー伯爵夫人とマリーナが退出すると、閲覧室には一気に重い空気が落ちた。


 最初に口を開いたのは管理官だった。


「この封蝋跡、かなり重要です」


 ユリウスが頷く。


「偽造文書の封蝋と比較します」


「はい。押し跡が一致すれば、少なくともこの資料が写し元の一つである可能性が高くなります」


 レオンハルトは黙っていた。

 その沈黙が、何より冷たかった。


 アリアは静かに息を吸う。


「マリーナの手袋」


 リナが小さく言った。


 ユリウスが頷く。


「見ました」


「染みは、まだ残っていました」


「ええ。そちらも確認します」


 アリアは机の上の銀の葉の招待状を見た。


 美しいものだった。

 本来なら、昔の茶会の記憶として大切に残されるべきものだった。


 それが、偽造に使われたかもしれない。


「……許せません」


 小さく漏れた。


 部屋が静かになる。


 レオンハルトがアリアを見る。


「声は荒げていないな」


「荒げておりません」


「ならいい」


 その返しに、少しだけ胸の奥が緩んだ。


 アリアは自分の手を見た。

 指先が少し冷えている。


「殿下」


「何だ」


「証拠が出ても、思っていたより冷静ではいられませんね」


「当然だ」


 レオンハルトは短く言った。


「君の名が汚された」


 その一言で、胸の奥の怒りが、少しだけ正しい場所へ収まる。


「怒っていい。だが、怒鳴るな」


「はい」


「その怒りは、最後まで持っていろ」


 アリアは頷いた。


 ユリウスが資料を丁寧に封じ、管理官へ渡す。


「すぐに比較します。結果が出次第、こちらへ」


「頼む」


 レオンハルトの声が短く落ちる。


 閲覧室を出る頃、外は曇り空のままだった。


 雨はまだ降っていない。

 けれど、空気はさらに重く、湿っている。


 廊下を歩きながら、アリアはふとレオンハルトが隣に並んでいることに気づいた。


 いつの間にか、自然にそうなっていた。


「アリア」


「はい」


「よく耐えた」


 その言葉は、思いがけず胸へ深く落ちた。


「……耐えられていましたか」


「ああ」


「本当は、問い詰めたかったです」


「だろうな」


「なぜ私の名を使ったのか。なぜ殿下へ疑いを向けようとしたのか。なぜ、こんなことをしたのか」


 言いながら、声が少しだけ震えそうになる。


 けれどレオンハルトは、ただ静かに聞いていた。


「でも、まだ言ってはいけないのですね」


「ああ」


「証拠がそろうまで」


「そうだ」


 短い返答。

 厳しい。

 でも、隣にいる声だった。


 アリアは深く息を吸った。


「箱の蓋は、開きました」


「ああ」


「でも、まだ全部ではない」


「そうだ」


「では、待ちます」


 自分に言い聞かせるように言った。


「最後まで」


 レオンハルトは、ほんのわずかに目を細めた。


「それでいい」


 婚約者は、証拠の前で声を荒げない。

 その難しさを知った日、アリアは箱の中に眠っていたものが、ただの古い紙ではなく、誰かの罪へ続く扉だったのだと理解した。


 そして、その扉はもう開き始めている。

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