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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第108話 婚約者は、箱の蓋が開く音を待つ

 証拠が近い。


 その言葉は、夜が明けてもアリア・フォン・ルーヴェルトの胸の奥に残っていた。


 フェルナー伯爵夫人が見せた古い招待状。

 七年前の銀の葉の意匠。

 余白に小さく記された、別箱、封蝋写しあり、という文字。


 あれを見つけた瞬間、点と点の間に細い糸が張られた気がした。


 けれど、糸はまだ糸でしかない。

 掴もうと強く引けば切れる。

 見失わないよう、静かに辿らなければならない。


 アリアは王宮へ向かう馬車の中で、膝の上に置いた手をじっと見つめていた。


 偽造された署名。

 自分の名前を使い、王宮の調達を歪めようとした文書。

 その背後にいる者が誰であれ、もうただの悪意では済まない。


 それは王宮の秩序を傷つける行為だった。

 そして、レオンハルトの名へ疑いを向ける行為でもあった。


「お嬢様」


 向かいのリナが、小さく声をかけた。


「今日は、いつもよりお静かですね」


「考えていたの」


「フェルナー伯爵夫人のことでしょうか」


「ええ」


 隠す必要はなかった。

 リナはすでに、必要なところまで知っている。


「昨日、あなたが言ってくれたこと」


「私が、ですか?」


「エミリア様の侍女筋から様子を知る方が安全ではないか、という話」


 リナは少しだけ背筋を伸ばした。


「出過ぎたことを申しました」


「いいえ。大事な視点だったわ」


 アリアは窓の外へ視線を向ける。


「エミリア様ご本人へ不用意に近づけば、彼女を傷つけるかもしれない。でも、何も知らずに放っておけば、もっと大きく巻き込まれるかもしれない」


「はい」


「だから、周囲の空気を知る必要がある」


 リナは少しだけ考え込んだあと、控えめに言った。


「フェルナー家の侍女マリーナは、王宮の洗濯室に出入りする下働きの娘と親しいと聞いたことがございます」


「洗濯室?」


「はい。以前、手袋の染み抜きのことで相談していたのを、別の侍女から聞きました」


 手袋の染み。


 アリアの中で、昨日見たフェルナー伯爵夫人の指先の赤茶の跡がよみがえる。


「封蝋の跡かしら」


「断定はできません。ただ、蝋の染みは普通の水では落ちにくいので」


「そうね」


 リナはそこで少しだけ声を落とした。


「今日、王宮の洗濯室へ顔を出せます。名目は、慰問行事で使う布袋の縫製確認です」


「危なくはない?」


「無理には聞きません。噂話として出たものだけ拾います」


 アリアはすぐに返事をしなかった。


 リナに危険な役をさせたいわけではない。

 けれど、リナはもうただ後ろで控えているだけの侍女ではなかった。

 この王宮の中で、アリアと一緒に歩いてくれている。


「一人では動かないで」


「はい」


「女官長補佐に話を通してから」


「もちろんです」


「それから、何か分かっても、その場で追わないこと」


 リナは微笑んだ。


「お嬢様と同じですね」


「私より、あなたの方が落ち着いている時もあるわ」


「それは、恐れ多いです」


 そう返すリナの顔が少しだけ得意げで、アリアは小さく笑った。


 王宮へ着くと、空気はいつもよりわずかに張っていた。


 昨日の資料確認の件は、まだ表に出ていない。

 だが、何かが水面下で動いている時の空気を、アリアはもう感じ取れるようになっていた。


 南翼の小文書室に入ると、ユリウスがいつものように紙束を前にしていた。

 ただし今日は、机の端に小さな封筒が一つ置かれている。


「おはようございます」


「おはようございます、ルーヴェルト嬢」


 ユリウスは顔を上げ、アリアの後ろにいるリナにも視線を向けた。


「リナから聞きましたか」


「洗濯室のことですね」


「ええ。女官長補佐には話を通してあります。布袋の確認名目で動く分には不自然ではありません」


 仕事が早い。


 アリアは少しだけ息を吐いた。


「ありがとうございます」


「ただし、リナ一人にはしません。女官長補佐の部下が一人付きます」


「それなら安心です」


 リナも深く頭を下げた。


「お気遣いありがとうございます」


「あなたは最近、かなり重要なところを見ていますからね。無駄に危ない橋は渡らせません」


 ユリウスの言い方は淡々としている。

 けれど、その中にはきちんと気遣いがあった。


 リナが部屋を出ると、小文書室にはアリアとユリウスだけが残った。


「それで」


 アリアは机の端の封筒を見る。


「そちらは?」


「フェルナー伯家の古い茶会控えについて、別方向から確認したものです」


 ユリウスが封筒を開き、中から薄い紙を取り出した。


「七年前の王宮茶会。銀の葉の意匠。あの年、フェルナー伯家へ送られた招待状は二通ありました」


「二通?」


「ええ。一通は当主夫人宛て。もう一通は、当時まだ存命だった先代伯爵夫人宛てです」


 アリアは目を瞬いた。


「昨日見せられたのは?」


「現夫人宛ての方でしょう」


「では、もう一通が別箱に?」


「可能性は高いですね」


 ユリウスは紙を指先で軽く叩いた。


「さらに、その先代伯爵夫人は古い紙文具や封蝋を収集する趣味があったようです。亡くなった後、その収集品の管理は現伯爵夫人が引き継いでいます」


 別箱。

 封蝋写しあり。

 先代伯爵夫人の収集品。


 糸が、また一本太くなった。


「その箱を確認する理由は作れますか」


「簡単ではありません。ですが、先代夫人の収集品に王宮の古い印影が含まれているなら、本来は保管状態の確認が必要だと主張できます」


「それは王宮側から?」


「ええ。ただし、急に動けば警戒されます」


「では、相手が自分から出す形にしたいですね」


 言ってから、アリアは自分の言葉に少し驚いた。


 以前なら、証拠を見つけたい一心で、王宮から確認を入れてもらおうと考えたかもしれない。

 今は違う。

 相手がどう動けば、どこに不自然さが出るかを先に考えるようになっている。


 ユリウスも、それに気づいたように薄く笑った。


「その通りです」


「何か手がありますか」


「今日の午後、フェルナー伯爵夫人は王宮内の慈善委員会に出席します」


「慈善委員会」


「慰問行事の関連です。あなたも同席予定ですね」


「はい」


「そこで、古い王宮茶会の意匠を慰問行事の栞へ参考にしたい、という話を自然に出すことはできます」


 アリアは少し考えた。


「昨日見せていただいた招待状が素晴らしかったので、ほかにも参考になるものがあれば、と?」


「ええ。ただし、あなたから強く求めない」


「夫人が出すと言うのを待つ」


「そうです」


 待つ。

 また、待つのだ。


 アリアはゆっくり頷いた。


「分かりました」


 午後の慈善委員会は、王宮西翼の明るい会議室で行われた。


 出席者は多くない。

 王宮の慈善行事に関わる夫人たち、文官、女官長補佐、そして婚約者としてのアリア。

 フェルナー伯爵夫人も、当然のようにそこにいた。


 今日の夫人は、昨日より落ち着いて見えた。

 淡い灰青のドレスに、控えめな真珠。

 笑みも穏やかで、昨日の緊張をうまく隠している。


「ルーヴェルト様」


 席に着く前、夫人が声をかけてくる。


「昨日は、古いものをお見せしてしまって、かえって退屈ではありませんでした?」


「とても興味深かったです」


 アリアは穏やかに返した。


「特に、銀の葉の意匠が印象に残りました」


「まあ、エミリアが喜びますわ。あの子、あれが好きで」


「エミリア様は、意匠を見る目がおありなのですね」


「どうかしら。まだまだ子どもですもの」


 夫人は笑ったが、その声は少し硬い。


 委員会が始まると、話は贈答品や慰問先の子どもたちへ渡す小物に移った。


 栞の意匠案が机に広げられる。

 花、鳥、月桂樹、王宮の紋を崩したもの。

 どれも悪くないが、少しありきたりでもある。


 そこで女官長補佐が、さりげなく言った。


「ルーヴェルト様、昨日の古い茶会意匠の中に、参考になりそうなものがあったと伺いました」


 自然な振りだった。


 アリアは頷く。


「はい。フェルナー伯爵夫人が見せてくださった、銀の葉の意匠がとても綺麗でした」


 その瞬間、会議室の数人がフェルナー伯爵夫人へ視線を向けた。


 夫人は微笑みを崩さない。


「あれは古いものですけれど、今でも十分に美しい意匠ですわね」


「ええ。もし差し支えなければ、似た意匠を参考にさせていただくことはできますか?」


 アリアはそこで止めた。


 “ほかのものも見たい”とは言わない。

 “別箱はありますか”とも言わない。


 ただ、参考にできるかと聞く。


 フェルナー伯爵夫人は、一拍だけ沈黙した。


「もちろんですわ」


 そして、そう答えた。


「家に古い控えがいくつかございます。必要でしたら、後日写しをお届けいたします」


 写し。

 原物ではない。


 ユリウスが言っていた通り、見せたいものだけを出すつもりなのだろう。


 アリアは微笑む。


「ありがとうございます。ただ、栞の職人が細部を確認するなら、押し跡や紙の陰影も見たいかもしれません。可能なら、王宮側で一度原物を確認できると助かります」


 夫人の扇が止まった。


 ほんの一瞬だが、確かに。


「原物、ですか」


「難しければ、写しで十分です」


 すぐに逃げ道を置く。


 強く求めない。

 相手に選ばせる。


 けれど、周囲の夫人たちはすでに聞いている。

 王宮の慰問行事に使う意匠の参考として、フェルナー家の古い招待状を借りる話になったのだ。


 ここで拒めば、少し不自然に見える。


「いえ」


 夫人は微笑んだ。


「それほどお役に立つなら、いくつかお持ちいたしますわ」


「ありがとうございます」


 アリアは礼をした。


「大切なものですから、保管のままお借りできる形で十分です」


 その一言で、夫人の目がほんの少しだけ揺れた。


 保管のまま。

 つまり、箱ごと。


 夫人は気づいただろうか。

 アリアは自分からは何も言わなかった。


 会議はその後、穏やかに進んだ。


 栞の意匠は、銀の葉を参考にした案を一つ作ることになった。

 子ども向けには鳥の意匠も残す。

 女官たちの意見も自然に採り入れられた。


 見た目には、何も不穏なところのない会議だった。


 だがアリアは、終わり際にフェルナー伯爵夫人が侍女へ低く何かを伝えたのを見た。


 侍女は、マリーナだった。


 王都西区の文具商へ出入りしていた、伯爵夫人付きの侍女。


 その顔はよく整えられていたが、主人の言葉を聞いた瞬間、明らかに強張った。


 アリアは見ないふりをした。


 見ていたと悟らせてはいけない。


 会議が終わったあと、廊下の角でリナが合流した。


「お嬢様」


 声は小さい。


「何か分かった?」


「洗濯室の娘から少しだけ」


 リナは周囲を確認し、さらに声を落とした。


「マリーナは数日前、赤茶の蝋がついた手袋を染み抜きに出しています。ですが、その手袋はフェルナー伯爵夫人のものではなく、侍女用の古い手袋だったそうです」


「侍女用」


「はい。けれど、上等な封蝋を扱った跡だったので、洗濯室の娘が不思議に思ったと」


 マリーナが直接封蝋を扱った。

 少なくとも、可能性は高い。


「その手袋は?」


「もう戻されたそうです。ただ、染みは完全には抜けなかったと」


 アリアは静かに頷いた。


「ありがとう。無理はしなかった?」


「はい。噂話として聞いただけです」


「よかった」


 その時、回廊の向こうからユリウスが歩いてきた。


 まるで待っていたかのようなタイミングだった。


「リナから聞きましたか」


「はい」


「こちらにも一つ」


 ユリウスは短く言った。


「フェルナー伯爵夫人が、明日“保管箱の一部”を王宮へ持参すると申し出ました」


 アリアは息を吸った。


「一部、ですか」


「ええ。一部です」


 つまり、まだ選ぼうとしている。


「別箱を隠す可能性がありますね」


「あります」


「ですが、持ってくる箱に何が入っているかで、逆に分かることもある」


「その通りです」


 ユリウスは頷いた。


「明日、王宮の閲覧室で確認します。あなたも同席してください」


「はい」


 その夜、小会議室でレオンハルトへ報告がなされた。


 フェルナー伯爵夫人が原物を持参すること。

 侍女マリーナの手袋に赤茶の蝋の跡があったこと。

 ただし、まだ決定的ではないこと。


 レオンハルトは黙って聞いていた。


 報告が終わると、短く言う。


「明日だな」


「はい」


 ユリウスが答える。


「箱が開けば、何か出る可能性があります」


 アリアは静かに手を重ねていた。


 箱が開く。

 その中に何があるのか。

 何がないのか。

 どちらであっても、何かは分かる。


「アリア」


 レオンハルトに呼ばれ、顔を上げる。


「はい」


「明日、声を荒げるな」


「……はい」


「証拠が出ても、だ」


 その言葉に、胸がきゅっと締まる。


 もし出たら。

 自分の名を汚した証拠が、目の前に現れたら。


 怒りが抑えられるだろうか。


「努力します」


「努力では足りない」


 レオンハルトの声は厳しかった。


「婚約者として、声を荒げるな」


 アリアは息を止め、そして頷いた。


「分かりました」


 ユリウスが静かに補う。


「証拠の前で声を荒げれば、相手は感情論へ逃げます。静かに確認し、逃げ道を一つずつ塞ぐ方が強い」


 その通りだ。


 明日は、怒る日ではない。

 証拠を見る日だ。

 そして、必要なら断つ日だ。


「……箱の蓋が開く音を、待ちます」


 アリアが小さくそう言うと、レオンハルトの目が少しだけやわらいだ。


「ああ」


 短い肯定。


「隣にいる」


 その一言だけで、胸の奥に芯が戻った。


 明日、箱が開く。


 婚約者の怒りは、証拠の前で声を荒げてはいけない。

 そのことを胸に刻みながら、アリアは静かに夜の王宮を後にした。

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