第107話 婚約者は、証拠の前で声を荒げない
フェルナー伯爵夫人の指先に残っていた、薄い赤茶の跡。
古い招待状。
封蝋。
娘のエミリアが何気なく口にした、母が昔の王宮茶会の記録を残しているという話。
どれも、ひとつだけなら何の意味も持たない。
けれど、いくつも重なると、偶然という言葉だけでは片づけにくくなる。
それでもアリア・フォン・ルーヴェルトは、翌朝の王宮で誰にもその話をしなかった。
もちろん、レオンハルトとユリウスには伝えてある。
女官長補佐も、必要な範囲では知っている。
だが、王宮の回廊で交わす挨拶も、書類室での確認も、若い女官たちへ向ける微笑みも、すべていつも通りにした。
いつも通り。
このところ、その言葉が何より難しくなっている。
「お嬢様」
小文書室へ向かう途中、リナが小さく声をかけてきた。
「はい?」
「本日のお顔は、昨日より穏やかです」
「そう?」
「はい。でも、たぶん穏やかなのではなく……穏やかにしていらっしゃるのですね」
アリアは思わず少しだけ笑った。
「あなたには、もう隠せないわね」
「長くお仕えしておりますから」
「それ、最近よく聞くわ」
「便利な言葉ですので」
小さな冗談に、胸の緊張が少しだけほどける。
けれど、その奥にある怒りは消えない。
偽造された署名。
自分の名を汚した者。
その背後に、フェルナー伯爵夫人がいるのかもしれない。
まだ“かもしれない”だ。
そこで踏みとどまらなければならない。
小文書室へ入ると、ユリウスがすでに待っていた。机の上には、昨日よりさらに数枚の資料が増えている。
「おはようございます、ルーヴェルト嬢」
「おはようございます。……進展がありましたか?」
「少しだけ」
ユリウスはそう言って、一枚の控えを差し出した。
「王都西区の文具商について調べました。ここ半年ほど、フェルナー伯家の侍女が数回出入りしています」
リナが息を呑む気配がした。
アリアは紙へ目を落とす。
「侍女の名前は」
「マリーナ。伯爵夫人付きの侍女です」
「エミリア嬢の侍女ではなく?」
「ええ。夫人付きです」
胸の奥で、点がまたひとつ線へ近づいた。
けれど、まだ足りない。
「購入したものは分かりますか?」
「文具商の帳簿では、古い意匠の封蝋、厚手紙、写し紙。それから、修復用の小筆」
「修復用?」
「古い招待状や手紙を保管する時に使うものです。表向きは不自然ではありません」
「表向きは、ですね」
「はい」
ユリウスは淡々と頷いた。
アリアは資料を見つめる。
古い招待状を持っている。
封蝋に触れている。
紙を買っている。
そして、自分の署名を見る機会もあった。
だが、まだ伯爵夫人が直接偽造文書を作ったという証拠ではない。侍女が独断で動いた可能性もある。あるいは、誰かに頼まれただけかもしれない。
「……エミリア嬢は?」
自然と、その名が出た。
ユリウスはアリアを見た。
「今のところ、彼女が文具商へ出入りした記録はありません」
「そうですか」
「気にしていますね」
「はい」
否定はしなかった。
「彼女は、昨日の茶会で本当に余計なことを言ってしまった顔をしていました。もし知っていてわざとなら、かなり芝居が上手いことになります」
「王宮では芝居が上手い若い令嬢も珍しくありませんが」
「ええ。でも」
アリアは少し考えてから続けた。
「母親に止められた瞬間、怖がっていました。秘密が漏れることを恐れたというより、叱られることそのものに怯えたように見えたのです」
ユリウスは何も言わず、しばらくアリアを見た。
「観察が細かくなりましたね」
「喜んでいいのか分かりません」
「王宮では、かなり褒めています」
その言い方が少しだけおかしくて、アリアは短く笑った。
「ありがとうございます」
「ただ、あなたの見立ては私も近いです。エミリア嬢は、少なくとも中心ではないでしょう」
「巻き込まれている可能性は?」
「あります」
ユリウスの声は低い。
「伯爵夫人が娘の持ち物や手習い帳を使って署名の見本を得た可能性も、完全には消えません」
その言葉に、アリアは眉を寄せた。
「それは……嫌ですね」
「ええ」
ユリウスも珍しく、少しだけ苦い顔をした。
「ですが、貴族家では親の思惑に子が巻き込まれることは多い」
「だからこそ、慎重にしなければなりません」
「その通りです」
その時、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは女官長補佐だった。
「失礼いたします。フェルナー伯爵夫人より、ルーヴェルト様宛てに短い書状が届いております」
部屋の空気が、すっと変わった。
アリアはすぐに手を出さなかった。
「封は開いていますか」
「いいえ。未開封です。ただ、通常の社交文として届けられました」
ユリウスが目で確認を求める。
アリアは頷いた。
「こちらで開けても?」
「ええ」
女官長補佐が封を開け、文面を机に広げる。
内容は短かった。
昨日の茶会での礼。
エミリアが話しすぎたことへの詫び。
そして、もしアリアが古い王宮茶会の招待状に興味があるなら、いくつか見せてもよいという申し出。
あまりに都合がよすぎた。
リナが思わず小声で言う。
「お見せしてくださる、と……?」
ユリウスは文面を見ながら、静かに息を吐いた。
「誘っていますね」
「罠でしょうか」
アリアが問うと、ユリウスはすぐには答えなかった。
「罠か、あるいは先に見せておきたいものだけを見せて、疑いを薄めたいのか」
「そのどちらでも、向こうから動いたことになりますね」
「ええ」
アリアは文面をもう一度見た。
丁寧な字。
整った言葉。
だが、どこか急いでいるようにも見える。
昨日、エミリアが古い招待状の話をした。
こちらが何かを察したと、夫人も気づいたのだろう。
だから先に、見せられるものだけを差し出す。
そうすれば、“隠していません”という顔ができる。
「受けるべきでしょうか」
アリアが言うと、ユリウスは彼女を見る。
「あなたは、どう思いますか」
試されている。
けれど、嫌な試しではなかった。
アリアは少しだけ考えた。
「受けるべきだと思います」
リナがわずかに身を固くする。
「ですが、フェルナー家へ私一人で伺う形ではなく、王宮茶会の資料確認という形にした方がいいです」
ユリウスの目が細くなる。
「理由は」
「個人的な訪問にすると、相手の場になります。けれど王宮資料の確認という形なら、こちらの流れで見られます」
「続けて」
「それに、伯爵夫人が“見せたいものだけ”を持ってくるなら、それ以外のものが何かも分かるかもしれません。古い招待状の束に、不自然に抜けている年代があれば」
ユリウスが、ほんの少しだけ笑った。
「よいですね」
「よい、ですか」
「ええ。かなり」
アリアは少しだけ胸を撫で下ろした。
だが、すぐに気を引き締める。
「ただし、エミリア嬢を必要以上に追い詰めない形にしたいです」
「そこも考えます」
ユリウスは書状を畳み直した。
「殿下へ通します。おそらく、王宮側で小さな資料確認の席を設けることになるでしょう」
その日の午後、王宮東翼の小閲覧室に、フェルナー伯爵夫人とエミリアが招かれた。
名目は、古い王宮茶会の意匠確認。
慰問行事に使う招待状や栞の参考として、過去の招待状をいくつか見せてもらう、という形だった。
完璧な名目だ。
誰も不自然には思わない。
だが、部屋に入ってきたフェルナー伯爵夫人の顔を見た瞬間、アリアは胸の奥で静かに糸を張った。
夫人はいつも通り美しかった。
微笑みも、礼も、何一つ崩れていない。
ただ、昨日より少しだけ目元が硬い。
「ルーヴェルト様」
夫人は優雅に礼を取る。
「このような古いものが、お役に立つなら幸いですわ」
「こちらこそ、ありがとうございます」
アリアも穏やかに礼を返した。
エミリアは母の少し後ろに立っている。
昨日より緊張しているように見えた。
「エミリア様も、ありがとうございます」
アリアが声をかけると、彼女は驚いたように顔を上げた。
「いえ……私は、ただ母について来ただけですので」
「昨日のお話がなければ、こうして見る機会もありませんでした」
そう言うと、エミリアの頬が少しだけ赤くなった。
「そうでしたら……よかったです」
夫人の視線が、ほんの一瞬だけ娘へ向いた。
やはり、娘が余計なことを言うのを警戒している。
机の上に、古い招待状が並べられた。
十年前。
七年前。
五年前。
三年前。
どれも丁寧に保管されている。
紙の質。
封蝋の押し跡。
意匠。
ユリウスは少し離れた位置で控え、女官長補佐が記録役として同席している。
表向きは資料確認。
しかし、この場にいる全員が、それ以上の意味を分かっていた。
アリアは一枚ずつ丁寧に見た。
「どれも状態がよいのですね」
「古い紙が好きでして」
夫人は笑う。
「王宮の招待状は、その年の空気が残りますの」
「素敵な考え方ですね」
そう返しながら、アリアは内心で確認していた。
偽造文書に似ていた紙は、三年前の茶会控えにかなり近い。
封蝋の意匠は五年前のものに似ている。
しかし、ここにある控えはどれも完全だ。
切り取られた跡も、写し紙を強く当てた跡も見えない。
つまり、見せる用に選ばれたものだ。
「他にも、お持ちなのですか?」
アリアは何気ない調子で尋ねた。
夫人の微笑みは崩れなかった。
「ええ、いくつかは。ただ、本日は参考になりそうなものだけを」
「そうでしたか」
追わない。
そこで踏み込めば、相手は守りに入る。
代わりに、エミリアへ視線を向ける。
「エミリア様は、どれがお好きですか?」
「私ですか?」
「ええ」
エミリアは少し戸惑い、それから一枚を指した。
「私は……この、銀の葉のものが好きです。母はもっと古い意匠が好きなのですけれど」
「銀の葉」
アリアはその招待状を手に取る。
七年前の王宮茶会。
その封蝋跡は、偽造文書のものとは少し違う。
だが、紙の余白に小さな書き込みがあった。
――別箱、封蝋写しあり。
ごく小さな文字。
たぶん、保管時の覚え書きだ。
アリアはすぐに顔を上げなかった。
指先だけでその文字を確認し、心の中へ入れる。
別箱。
ここにはないものがある。
「本当に、綺麗ですね」
アリアは自然に微笑んだ。
「私も、この銀の葉は好きです」
エミリアの表情が少しだけ明るくなる。
「本当ですか?」
「ええ。派手すぎないのに、印象に残ります」
「私もそう思います」
エミリアは、ほんの少しだけ嬉しそうに笑った。
その横で、伯爵夫人の指が、扇の柄を静かに握り直した。
見られたか。
それとも、娘が自然に話していることに焦ったのか。
アリアは、どちらとも取れる反応を胸に留めた。
資料確認は、何事もなく終わった。
表向きは、だ。
フェルナー母娘が退出したあと、小閲覧室にはアリア、ユリウス、女官長補佐、リナだけが残った。
ユリウスが静かに言う。
「何か見ましたね」
アリアは頷いた。
「七年前の銀の葉の招待状です。余白に、小さく“別箱、封蝋写しあり”とありました」
ユリウスの表情が変わる。
「別箱」
「はい。今日見せられたものは、たぶん選ばれたものです。でも、写しを取ったものや封蝋だけを保管したものが別にあるのだと思います」
女官長補佐が低く言った。
「それは、フェルナー家内に?」
「おそらく」
アリアは答えた。
「少なくとも、伯爵夫人はそれを見せたくないのだと思います」
ユリウスはすぐに動いた。
「フェルナー家の別箱を確認するには、正当な理由が要ります」
「古い王宮招待状の意匠確認では足りませんか」
「任意なら。ただし相手が出さないと言えばそこで終わりです」
アリアは少し考えた。
「では、エミリア嬢からは?」
ユリウスがこちらを見る。
「彼女を巻き込むことになります」
「無理にではありません」
アリアは首を振った。
「彼女は本当に古い意匠が好きなのだと思います。もし次に話す機会があれば、“封蝋の写しも見てみたい”と自然に言えるかもしれません」
「危険です」
ユリウスは即座に言った。
「伯爵夫人が娘を警戒しているなら、あなたが接触すれば娘が責められる可能性がある」
その言葉に、アリアは唇を引き結んだ。
そうだ。
そこを忘れてはいけない。
「……そうですね。軽率でした」
「軽率ではありません。ですが、相手の家の中で誰が傷つくかは考える必要があります」
アリアは静かに頷く。
「はい」
すると、後ろでリナが控えめに口を開いた。
「恐れながら」
全員の視線が向く。
リナは少し緊張しながらも、はっきり言った。
「エミリア様の侍女筋から、何か聞けるかもしれません。ご本人に直接触れるより、まず周囲の様子を知る方が安全ではないでしょうか」
ユリウスが目を細めた。
「なるほど」
アリアはリナを見る。
「ありがとう。確かに、その方がいいわ」
リナはほっとしたように頭を下げた。
小会議室へ戻ると、レオンハルトが待っていた。
ユリウスが経緯を説明する間、彼は一言も挟まなかった。
だが、別箱という言葉が出た瞬間、指先が机を一度だけ叩いた。
「そこだな」
「おそらく」
ユリウスが答える。
「証拠が残っている可能性があります」
「取れるか」
「慎重に進めます。家宅に踏み込む段階ではありません」
「分かっている」
レオンハルトの視線がアリアへ移る。
「君は、よく見つけた」
「偶然です」
「偶然を見落とさなかった」
その言い方に、胸が少しだけ熱くなる。
「……ありがとうございます」
「だが、焦るな」
「はい」
「証拠は近い。だからこそ、相手も動く」
その言葉で、部屋の空気が重くなった。
近づいている。
だから相手も焦る。
今日の伯爵夫人の硬い目元を思い出す。
「殿下」
「何だ」
「もしフェルナー伯爵夫人が本当に関わっていたとして、エミリア嬢が知らなかった場合……彼女はどうなりますか」
レオンハルトはすぐには答えなかった。
少しの沈黙のあと、低く言う。
「関与していなければ、罪には問わない」
「家としては?」
「傷は残る」
正直な答えだった。
アリアは目を伏せる。
「そう、ですよね」
「だが、罪を隠せばもっと深く傷つく」
レオンハルトは続けた。
「君が気にしているのは分かる。だが、守る相手を間違えるな」
その言葉は厳しかった。
でも、必要な厳しさだった。
「はい」
アリアは静かに答える。
エミリアを気の毒に思う気持ちはある。
けれど、それを理由に偽造を見逃すことはできない。
自分の名が使われ、王宮の線が歪められたのだ。
婚約者として、情と判断を混ぜてはいけない場所がある。
「アリア」
「はい」
「君は今日、疑いを微笑みに隠せた」
レオンハルトが静かに言う。
「だが次は、微笑みだけでは足りない」
アリアは彼を見る。
「証拠、ですね」
「ああ」
婚約者の怒りは、静かに証拠を待つ。
その証拠は、もうかなり近くにある。
窓の外は、すでに夜へ傾き始めていた。
王宮の庭に落ちる影は深く、静かで、何も語らない。
けれどアリアには、その静けさの向こうで、誰かが焦り始めている気がしてならなかった。




