第104話 婚約者の名を汚した者
翌朝、王宮はいつも通り静かだった。
けれど、その静けさが本当にいつも通りなのか、アリア・フォン・ルーヴェルトにはもう分からなかった。
偽造された署名。
その言葉は、昨夜からずっと胸の奥に残っている。
誰かが、自分の名を使った。
自分の立場を使い、皇太子の婚約者という肩書きを使い、王宮の正式な流れを曲げようとした。
怒りはある。
怖さもある。
ただ、そのどちらも昨夜より少しだけ形が変わっていた。
自分が疑われるかもしれないという怖さではない。
自分の名を通じて、レオンハルトの名まで汚されるかもしれないという怖さ。
だからこそ、表情に出してはいけない。
「お嬢様」
リナが鏡越しに声をかけた。
「本日は……少し眠れていらっしゃらないお顔です」
「分かる?」
「はい。ですが、乱れてはおられません」
リナはそう言って、髪飾りを静かに留める。
「怒っていらっしゃるのですね」
その言葉に、アリアは少しだけ目を伏せた。
「ええ。怒っているわ」
「お嬢様がそうはっきりおっしゃるのは、珍しいです」
「そうね」
アリアは鏡の中の自分を見つめる。
「でも、今回は怒っていいことだと思うの」
リナはすぐには何も言わなかった。
ただ、静かに頷く。
「はい」
その返事だけで、少し救われた。
王宮へ着くと、アリアはいつもと同じように礼を返し、いつもと同じ歩幅で回廊を進んだ。
普段通りに。
ユリウスに言われたその言葉は、簡単なようでいて、実際にはひどく難しい。
偽造文書の件は、まだ表には出ていない。
少なくとも、大きな騒ぎにはなっていない。
だからこそ、こちらが揺れれば、それが最初の違和感になる。
婚約者が妙に硬い顔をしている。
皇太子殿下の側近たちが慌ただしい。
内務が急に書類を洗い直している。
王宮では、そういう小さな欠片から噂が作られる。
だから、歩く。
止まらずに。
いつも通りに。
その日の午前、アリアが案内されたのは、王宮の文書室ではなく、南翼の小応接室だった。
部屋に入ると、レオンハルト、ユリウス、女官長補佐がいた。
そしてもう一人、見慣れぬ男が深く頭を下げている。
質素だが仕立てのよい上着。
商人だろう。
年は四十前後。
顔色は悪いが、目は逃げていない。
「来たか」
レオンハルトが言う。
「はい」
アリアが席へ着くと、ユリウスが短く説明した。
「こちらは、昨日確認を返してきた商会の番頭です。偽造文書を受け取った際の状況を直接聞きます」
番頭は、改めて深く頭を下げた。
「ルーヴェルト様、このたびは、当方の確認が遅れまして」
「確認してくださったから、問題が広がる前に止まりました」
アリアは静かに言った。
「まずは、そのことに感謝いたします」
番頭は驚いたように顔を上げ、それから慌ててもう一度頭を下げた。
「もったいないお言葉でございます」
「では、届いた時のことを教えてください」
ユリウスが促すと、番頭は慎重に話し始めた。
文書は三日前の夕方、商会の王宮取引窓口へ届けられた。
届けたのは、王宮出入りの使いを名乗る少年。
だが商会側の帳簿に残る正規の使いではなかった。
「その場で気づかなかったのですか」
ユリウスが問うと、番頭は苦い顔をした。
「封蝋が、それらしかったのです。古い内務補助室の印に似ておりました。今は使われていないと知っている者もおりますが、若い者ですと判断がつきません」
「あなたは、なぜ確認を?」
「文面に、妙なところがございました」
番頭は懐から控えを出した。
「こちらでございます」
ユリウスが受け取り、アリアへも見えるように置く。
アリアは文面をもう一度読んだ。
昨日見た時にも違和感はあった。
けれど今、落ち着いて見ると、さらに引っかかる部分がある。
「……この文章」
アリアは思わず呟いた。
ユリウスがすぐに見る。
「何か?」
「王宮文書らしくないところがあります」
番頭が顔を上げた。
「当方も、そこが気になりました」
アリアは指先で一文を示す。
――婚約者様のお心添えにより、特に御社の品を用いることが望ましいとのこと。
「王宮の正式文書なら、“お心添え”という言い方はしないと思います」
ユリウスの目が細くなる。
「たしかに」
「それに、私を指すなら“婚約者様”ではなく、もっと形式的な表現になります。これは……王宮文書を真似たというより、社交の手紙を少し堅くしたような文面です」
レオンハルトが低く言った。
「つまり、文官ではない者か」
「断定はできません」
アリアはすぐに首を振る。
「でも、少なくとも王宮文書に慣れた方の文章ではない気がします」
番頭はその言葉に深く頷いた。
「ええ。私もそう思いました。ですが、ルーヴェルト様のお名前がございましたので、万が一にも軽んじてはならぬと」
「それで確認を返した」
「はい」
番頭の判断は正しかった。
もし彼が少しでも欲に傾いていれば、この文書は“都合のよい指示”として処理されていたかもしれない。
「あなたの判断に、感謝します」
アリアがそう言うと、番頭は今度こそ目に見えて安堵した。
「ありがとうございます」
「ただし」
ユリウスが静かに言葉を挟んだ。
「この件は、しばらく外へ出さないでいただきたい」
「承知しております」
「商会内で知っている者は?」
「私と、最初に受け取った若い手代、それから主のみでございます」
「その手代の名を」
「もちろんでございます」
やり取りは淡々と続いた。
だがアリアは、番頭の話を聞きながら、胸の中で別のことを考えていた。
文官らしくない文面。
社交の手紙に近い言い回し。
古い内務補助室の印を知っている。
そして、自分の署名をある程度真似られる。
署名を真似るには、見本がいる。
自分の署名を見たことがある者。
あるいは、最近自分が書いたものを手に取れる立場の者。
「ユリウス様」
アリアが声をかけると、ユリウスはすぐにこちらを見た。
「何でしょう」
「最近、私が署名した文書の中で、控えが王宮内に残っているものはどれほどありますか」
ユリウスは一瞬だけ考えた。
「正式文書は限られます。ですが、婚約発表後の返礼控え、内々の確認書、慰問準備の確認印などはあります」
「その中で、外部の方や年長の夫人方の目に触れる可能性があったものは?」
その問いに、部屋の空気が変わった。
レオンハルトがアリアを見る。
「署名の見本か」
「はい」
アリアは頷いた。
「この偽署名は、まったくの想像ではないと思います。雑ではありませんでした。似せようとした跡があります」
ユリウスが腕を組む。
「返礼控えの一部は、王宮内務とルーヴェルト家の双方に残っています。外部へ直接出るものではありませんが、確認の場で複数の人間が見ています」
「では、そこから洗うべきです」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
怒りはまだある。
けれど、今はその怒りが考える力を邪魔していない。
むしろ、頭が冴えている。
「分かった」
レオンハルトが短く言う。
「ユリウス」
「はい。署名控えへ触れた者、確認の場にいた者、保管庫へ入れる者を洗います」
女官長補佐も静かに頭を下げた。
「内務側も確認いたします」
番頭への聞き取りが終わると、彼は再び深く礼をした。
「当方は、王宮とのお取引を長くいただいております。妙な近道へ乗るつもりはございません」
その言葉には、商人としての矜持があった。
アリアは思わず、少しだけ表情をやわらげた。
「そのお言葉も、覚えておきます」
「恐れ入ります」
番頭が退出すると、部屋の中には静かな緊張だけが残った。
ユリウスがまず口を開く。
「商会側は白に近いですね」
「少なくとも、乗らなかった」
レオンハルトが答える。
「問題は、文書を作った者と、届けさせた者です」
ユリウスの声は低い。
「王宮の古い印を知り、ルーヴェルト嬢の署名を見られ、かつ社交文の癖がある者」
アリアはその言葉を聞きながら、胸の奥に小さな寒さを感じた。
王宮の中か。
王宮に近い社交の中か。
あるいは、その両方に足を置く者か。
「アリア」
レオンハルトに呼ばれ、アリアは顔を上げる。
「はい」
「しばらく、君の署名は単独で出すな」
「分かりました」
「必要な場合は、ユリウスか女官長補佐の確認を通す」
「はい」
「不自由だが」
「不自由ではありません」
アリアはすぐに答えた。
レオンハルトの目がわずかに細くなる。
「私の名を守るためです。なら、当然のことです」
そう言うと、彼は少しだけ黙った。
そして低く返す。
「そうか」
たった二文字だった。
けれど、その声にはわずかな熱があった。
昼過ぎ、アリアは予定通り王宮内の小さな書類確認へ顔を出した。
普段通りに。
それが今日一番難しい仕事だった。
文官たちの前で、昨日と同じように資料を見て、必要なところだけを確認し、笑うべきところでは微笑んだ。
胸の奥では偽造文書のことがずっと重く沈んでいる。
それでも、外へは出さない。
ただ一度、若い女官がペンと署名用の小紙片を差し出しかけた時、女官長補佐が自然に手を添えた。
「そちらは、後ほど確認の上で」
言い方は穏やかだった。
だが、アリアには分かった。
すでに、線が引かれ始めている。
自分の名を守るための線。
婚約者という立場を守るための線。
そして、レオンハルトの名へ刃を届かせないための線。
夕刻、再び小会議室へ戻ると、ユリウスは新しい資料を手にしていた。
「一つ、気になる点が出ました」
レオンハルトの目がすぐに鋭くなる。
「言え」
「偽造文書の紙は、王宮内務の標準紙ではありません。ただし、王宮主催の茶会で配られる招待控えに使われる紙と同じ質です」
アリアは息を呑んだ。
招待控え。
つまり、社交行事の準備に関わる者が触れやすい紙。
「さらに」
ユリウスは続ける。
「古い内務補助室の印影に似せた封蝋ですが、実物ではなく、過去の招待控えに押されたものを見て写した可能性があります」
レオンハルトの声が低くなる。
「王宮外の貴族家でも、古い招待控えを持っている家はあるな」
「はい」
ユリウスは頷いた。
「特に、古くから王宮茶会へ出入りしている家なら」
部屋の空気が、重く沈んだ。
王宮内部だけではない。
外部の古い貴族家にも可能性が広がった。
アリアは指先を静かに重ねる。
怖い。
だが、怯えているだけではいられない。
「では、相手は王宮文書に詳しいのではなく、古い社交の控えを持っている可能性があるのですね」
「そうです」
ユリウスが答える。
「そして、ルーヴェルト嬢の署名を最近見る機会があった」
「婚約発表後の返礼か、慰問行事の確認か」
「そのあたりでしょう」
レオンハルトはしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「狭めろ」
「はい」
「アリア」
「はい」
「君は、しばらく誰の前でもこの件に触れるな」
「分かっています」
「表では、いつも通りに立て」
「はい」
「だが」
彼は一拍置いた。
「自分の名を汚された怒りは、忘れるな」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
「……はい」
アリアは静かに頷いた。
自分の署名は、誰かの近道ではない。
自分の名は、誰かが勝手に使っていいものではない。
そして、怒りはある。
けれどその怒りを、正しい形へ変えなければならない。
王宮の窓の外には、もう夜の気配が降り始めていた。
静かな影が庭を満たし、遠くの灯りが一つずつともっていく。
アリアはその光を見つめながら、心の中でひとつだけ決めていた。
必ず、見つける。
自分の名を汚し、レオンハルトへ疑いを向けようとした者を。
怒鳴るためではない。
泣くためでもない。
婚約者として、正しく断つために。




