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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第103話 婚約者の署名は、誰かの近道ではない

 王宮の文書室には、独特の匂いがある。


 紙とインク。

 蝋と革表紙。

 それから、長く閉じ込められた沈黙の匂い。


 アリア・フォン・ルーヴェルトは、その部屋に入るたび、王宮という場所は言葉だけでなく、紙の上にも権力が宿るのだと思うようになっていた。


 口で言ったことは、場の空気に溶ける。

 けれど、紙に記されたものは残る。

 誰が書いたのか。

 誰の名で出されたのか。

 どの印が押されたのか。


 その一つひとつが、人を動かし、時には誰かを傷つける。


 だから最近のアリアは、以前よりずっと文書を見る目が慎重になっていた。


 この日、彼女が呼ばれたのは、慰問行事に関する返礼文の確認だった。


 春の慰問行事そのものは、まだ先の話だ。

 けれど、王宮では“まだ先”と思える時期からすでに準備が動き始める。贈答品、同行者、返礼先、招待状、礼状。そのすべてに順序があり、順序を間違えれば、それだけで別の意味を持つ。


 女官長補佐と文官補佐が並ぶ机の上には、すでにいくつもの封筒が積まれていた。


「本日は、主に受領済みの祝意への返礼文でございます」


 文官補佐が少し緊張した声で言った。


「正式な王家名義ではなく、ルーヴェルト様個人宛てに届いたものを中心にまとめております」


「分かりました」


 アリアは椅子へ腰を下ろし、最初の文面へ目を通した。


 婚約への祝意。

 慰問行事への期待。

 今後の社交への挨拶。


 どれも丁寧だが、文面の奥にはそれぞれ微妙な温度差がある。純粋な祝意に近いものもあれば、明らかにこちらの反応を探っているものもある。


 それでも、返礼としては大きな問題はない。


 二通目、三通目と確認していく。

 リナは少し離れた位置で控え、必要に応じて控え紙を整理してくれていた。


 その時、文官補佐が「あ」と小さく声を漏らした。


「どうしました?」


 アリアが顔を上げると、彼は慌てて手元の封筒を押さえた。


「いえ、こちらは返礼ではなく……別の束に紛れていたようです」


 そう言って抜き取ろうとした紙の端に、アリアは見慣れない言葉を見つけた。


 ――皇太子殿下婚約者アリア・フォン・ルーヴェルト様のご内意により。


 胸の奥で、冷たいものが鳴った。


「その文書を、見せていただけますか」


 声は自分でも驚くほど静かだった。


 文官補佐の顔色が変わる。

 女官長補佐もすぐに視線を寄せた。


「ルーヴェルト様、こちらはまだ確認前でして」


「だからこそです」


 アリアは手を差し出した。


 文官補佐は迷ったが、すぐに紙を渡した。隠せばかえって大事になると判断したのだろう。


 文書は、外部の商会へ宛てたものだった。


 慰問行事で用いる一部の布製品について、特定の商会の品を優先的に扱うよう求める内容。

 その理由として、“皇太子殿下婚約者アリア・フォン・ルーヴェルト様のご内意”という文言が使われている。


 そして末尾には、アリアの名を模した署名らしきものまであった。


 ただし、ひどく巧妙な偽物だった。


 字の流れは似せている。

 だが、最後の綴りの癖が違う。

 何より、アリアは自分の名をこの形で書かない。


「……私の署名ではありません」


 部屋の空気が止まった。


 リナが一歩前へ出かける。

 アリアは目線だけでそれを止めた。


 ここで慌てれば、相手の狙いどおりになる。


 女官長補佐が紙を受け取り、険しい顔で確認した。


「これは……」


「どこから来たものですか」


 アリアが問うと、文官補佐が急いで控えをめくった。


「外部商会からの確認願いです。王宮からこのような指示があったが、正式な調達線と異なるため確認したい、と」


「その商会は、従わずに確認を返してきたのですね」


「はい」


 そこだけは幸いだった。

 もし商会がそのまま従っていたら、特定業者への便宜供与という形で話が広がったかもしれない。


 いや、たぶんそれが狙いなのだ。


 婚約者が、慰問行事に関わる調達へ私的に口を出した。

 自分の名で商会を動かそうとした。

 しかも皇太子の婚約者という立場を使って。


 アリアの手の中で、紙の感触だけがやけにはっきりしていた。


「ルーヴェルト様」


 女官長補佐の声は低かった。


「すぐにユリウス様へ」


「ええ。ですが、その前に二つ確認させてください」


「何でしょう」


「この文書は、王宮内のどの部署から出た形になっていますか」


 文官補佐が紙面の印を確認する。


「内務補助室の古い控え印に似せています。ですが、現在は使われておりません」


「では、正式な王宮文書ではない」


「はい。偽造です」


 その言葉が落ちた瞬間、室内の緊張が一段深くなった。


 アリアはもう一度、文面を見た。


 怒りはある。

 けれど、それより先に、奇妙な冷静さがあった。


 相手は、自分を怒らせたいのだろうか。

 あるいは慌てさせたいのだろうか。

 偽署名を突きつけられた婚約者が感情的になれば、それだけでまた別の噂を作れる。


 だが、ここで怒鳴っても何も戻らない。


「二つ目」


 アリアは紙を机に置いた。


「この商会へは、すぐに正式な確認文を出してください。内容は、“当該文書は王宮およびルーヴェルト様の正式な指示ではない。調達は既定の王宮手続きに従う”で十分です」


 文官補佐が一瞬だけ目を上げる。


「ルーヴェルト様ご自身の名義でお出ししますか」


「いいえ」


 アリアは即座に答えた。


「王宮内務の名義で」


 ここが大事だった。


 自分の署名を否定するために、自分の名で文書を出せば、また“婚約者が直接処理した”という形になる。

 偽造を否定するための文書で、さらに自分の名を前面へ出す必要はない。


「私は確認を求められた当事者として、これは私の署名ではないと証言します。ですが、正式な否定と調達線の整理は王宮の流れで行うべきです」


 女官長補佐が、深く頷いた。


「承知いたしました」


 その時、扉が軽く叩かれた。


 入ってきたのはユリウスだった。

 おそらく誰かがすでに知らせたのだろう。歩みは静かだが、目の奥にいつもの穏やかさはない。


「文書を」


 無駄のない言葉だった。


 女官長補佐が渡す。

 ユリウスは一読し、眉をほとんど動かさずに言った。


「偽造ですね」


「はい」


「ルーヴェルト嬢は?」


 視線がアリアへ向く。


「私の署名ではありません」


「でしょうね」


 あまりにも即答だったので、アリアは少しだけ瞬いた。


 ユリウスはその反応に気づき、薄く息を吐いた。


「あなたは、自分の名でこのような文書を出す方ではありませんから」


 その何気ない一言に、胸の奥が不意に熱くなる。


 信じられている。

 それが分かる言葉だった。


 だが、今は感情に浸る場面ではない。


「商会へは王宮内務名義で否定文を出すようお願いしました」


「適切です」


 ユリウスは短く言い、それから文官補佐へ向き直った。


「この文書がどの経路で混じったか、封筒、封蝋、受け取り記録をすべて出してください。急いで。ただし騒がずに」


「はい!」


 文官補佐が慌てて動く。


 ユリウスは再びアリアを見た。


「殿下へは私から」


「私も伺います」


 自然にそう言っていた。


 ユリウスは一瞬だけ目を細める。


「今すぐでなくても」


「いいえ」


 アリアは首を振った。


「私の名が使われています。殿下へ向かう刃にもなり得ます。なら、私もその場でお話しします」


 ユリウスはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「分かりました」


 小会議室へ向かう道中、リナはずっと黙っていた。

 けれど扉の前まで来た時、低く言った。


「お嬢様」


「何?」


「怒っていらっしゃいますか」


 アリアは一瞬だけ考えた。


「ええ」


 正直に答える。


「でも今は、怒るより先に直すことがあるわ」


 リナは深く礼を取った。


「はい」


 小会議室では、レオンハルトがすでに待っていた。


 机の上には何も置かれていない。

 だが、それがかえって彼の苛立ちを示しているように見えた。余計なものをすべてどけて、話だけを受ける姿勢なのだ。


「来たか」


「はい」


 ユリウスが文書を差し出す。

 レオンハルトは目を通し、最後の偽署名のところで指を止めた。


 長い沈黙。


 それから、低く言った。


「私の婚約者の名を使ったか」


 その声には、静かな怒りがあった。


 アリアは背筋を伸ばす。


「殿下」


「何だ」


「これは、私への攻撃だけではありません」


「分かっている」


 即答だった。


「君の名で便宜を図った形にし、君の判断を疑わせる。同時に、私が君を通して調達へ影響を与えているようにも見せられる」


 やはり、彼も同じところを見ている。


「商会は確認を返してきました。そこは幸いでした」


「そうだな」


「王宮内務名義で否定文を出すようお願いしています。私の名義では出しません」


 レオンハルトの視線が、そこで少しだけ変わった。


「なぜだ」


「私の署名ではないと証言はします。けれど、否定まで私個人の名で出せば、また私が直接処理した形になります」


 言葉を一つずつ置く。


「婚約者の署名は、誰かの近道ではありません。偽造を否定する時も、その線は守るべきだと思いました」


 レオンハルトはしばらくアリアを見ていた。


 やがて、短く言う。


「正しい」


 その一言で、少しだけ息ができた。


 だが安堵するには早い。


 ユリウスが静かに続ける。


「問題は、文書の出所です。外部商会を経由していますが、王宮内の古い控え印に似せている。内部事情を知る者が関わっている可能性があります」


「分かっている」


 レオンハルトの声は冷たい。


「調べろ」


「すでに」


「静かにだ」


「承知しています」


 そのやり取りは短い。

 だが、王宮の空気が一段変わるのをアリアは感じた。


 これはただの嫌がらせではない。

 婚約者の名を使って、王宮の権限の線を乱そうとする行為だ。

 レオンハルトが怒るのは当然だった。


「アリア」


 不意に名前を呼ばれ、胸が小さく鳴った。


 公の場ではない。

 けれど、レオンハルトがこういう場で名だけを呼ぶ時は、たいてい真正面の言葉が来る。


「はい」


「怖いか」


 問いは静かだった。


 アリアは少しだけ息を吸い、正直に答える。


「怖いです」


 偽造された署名。

 自分の名を勝手に使われる気味悪さ。

 しかもそれが、レオンハルトへ向かう刃にもなるという現実。


 怖くないはずがなかった。


「でも」


 アリアは続けた。


「今は、怒りの方が少し勝っています」


 ユリウスがわずかに目を上げる。

 レオンハルトは静かに続きを待った。


「私の名を使われたことよりも、その名で王宮の正式な流れを歪めようとしたことが、許せません」


 言ってから、自分でも驚いた。


 以前の自分なら、まず“私が疑われるかもしれない”と怯えただろう。

 でも今は違う。


 自分の名がどう見られるかだけではない。

 その名を使って、誰かが王宮の秩序を近道にしようとした。

 そのことへの怒りがある。


 レオンハルトの瞳の奥に、ごくかすかな熱が灯った。


「なら、その怒りは持っていろ」


「よろしいのですか」


「必要な怒りだ」


 短い肯定。


「ただし、表へ雑に出すな」


 その付け足しに、アリアは思わず少しだけ笑いそうになった。


「はい」


「君の名を使う者には、君の名の重さを思い知らせる」


 レオンハルトの声は静かだった。


 だが、その静けさが何より怖い。


 ユリウスが小さく息を吐く。


「こちらで経路を洗います。ルーヴェルト嬢は、しばらく普段通りに」


「普段通り、ですね」


「ええ。こういう時に一番難しいやつです」


 その言い方に、少しだけ空気が戻る。


 アリアは頷いた。


「分かりました」


 部屋を出る時、レオンハルトがもう一度言った。


「アリア」


「はい」


「君の署名は、君が守れ。だが、君一人で抱えるな」


 その言葉に、胸の奥が静かに熱くなる。


「……はい」


 自分の名を守る。

 でも、一人では抱えない。


 婚約者という立場に立ってから、アリアは何度も新しい重さを知ってきた。

 その中でも今日の出来事は、ひどく冷たく、そしてはっきりした形をしていた。


 婚約者の署名は、誰かの近道ではない。

 誰かが勝手に使っていい印でもない。


 そのことを、今度はこちらが示さなければならない。

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