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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第105話 婚約者の怒りは、静かに証拠を待つ

 王宮には、怒りを大声で示す者ほど早く足を掬われる場所がある。


 アリア・フォン・ルーヴェルトは、そのことを今なら少しだけ理解できるようになっていた。


 偽造された署名。

 自分の名を使い、特定の商会へ便宜を図らせようとした文書。

 それは、ただの嫌がらせではない。


 もし商会が確認せずに従っていたなら、アリアは“皇太子の婚約者という立場を使い、王宮の調達に私的な口出しをした令嬢”にされていただろう。

 そしてその噂は、やがてレオンハルトへも向かう。


 皇太子殿下は、婚約者を通して私的な影響力を広げているのではないか。


 そう言わせるための、よく考えられた刃だった。


 だから怒りはあった。

 胸の奥で、静かに燃えている。


 けれど、それを表へ出してはいけない。

 怒りに任せて動けば、相手はきっと喜ぶ。


 婚約者が取り乱した。

 自分の名を使われた途端、冷静さを失った。

 やはりまだ若い。

 やはり、皇太子妃となるには危うい。


 そんな言葉を、相手に渡してしまう。


 だからアリアは、王宮の回廊をいつも通りの歩幅で歩いた。


 南翼の高窓から落ちる光は淡く、石床は朝の冷たさをまだ残している。

 すれ違う女官たちは、いつものように礼を取る。

 侍従たちの足音も乱れない。


 何も起きていないように見える。


 だが、アリアだけは知っていた。

 静かな水面の下で、すでに何本もの糸が引かれていることを。


「お嬢様」


 半歩後ろを歩くリナが、小さく言った。


「お顔は穏やかでいらっしゃいますが、今日は……少しだけ、怖いです」


 その言い方に、アリアは思わずわずかに口元を緩めた。


「そんなに?」


「はい。怒っていらっしゃるのを、誰にも見せないようになさっているお顔です」


「よく分かるのね」


「長くお仕えしておりますから」


 短い会話だった。

 でも、それだけで胸の張りが少しだけほどける。


「大丈夫よ。怒ってはいるけれど、怒りだけで動くつもりはないわ」


「はい」


「でも、許すつもりもない」


 リナは一瞬だけ息を止めたあと、静かに頷いた。


「それでこそ、お嬢様です」


 その返事があまりにも自然だったので、アリアは少しだけ笑ってしまった。


 最初に向かったのは、王宮内務の文書保管室だった。


 今日の名目は、慰問行事に関する過去の招待控えを確認すること。

 昨日、ユリウスが見つけた紙と封蝋の手がかり。

 王宮主催の茶会で使われる招待控えと同じ紙質。

 古い内務補助室の印影を、実物ではなく過去の控えから写した可能性。


 それが本当なら、犯人は王宮内の文官とは限らない。

 むしろ、古くから王宮茶会へ出入りしている貴族家の誰かが、保管していた控えを利用した可能性もある。


 保管室の扉を開けると、古い紙の匂いがふわりと漂った。


 そこにはすでにユリウスがいた。

 机の上には、古い招待控えが年代順に並べられている。


「来ましたね」


「お待たせしました」


「いいえ。ちょうど始めるところです」


 ユリウスはいつも通り落ち着いていた。

 けれど、その目の下にはわずかな疲れが見える。おそらく昨夜からほとんど休まず、経路を洗っていたのだろう。


「眠られましたか?」


 アリアが思わず尋ねると、ユリウスは少しだけ意外そうな顔をした。


「多少は」


「多少、ですね」


「王宮では十分という意味です」


「それは、十分ではないという意味ではありませんか」


 リナが後ろで小さく息を呑む。

 ユリウスは一瞬だけ目を瞬き、それから珍しく本当に笑った。


「ルーヴェルト嬢、最近かなり言うようになりましたね」


「必要な時だけです」


「それなら私も、必要な時だけ休むことにします」


「それでは足りません」


 言ってから、アリアは自分で少し驚いた。

 以前なら、皇太子の側近へこんなふうに言うことはなかっただろう。


 ユリウスもそれに気づいたらしく、少しだけ表情を和らげた。


「分かりました。今日の件が一区切りついたら、休みます」


「約束です」


「はい」


 短いやり取りだったが、保管室の緊張が少しだけ緩む。


 それから二人は控えの確認に入った。


 招待控えの紙は、たしかに偽造文書と似ていた。

 厚み、繊維の入り方、薄い光沢。

 完全に同じとは断言できないが、かなり近い。


「こちらをご覧ください」


 ユリウスが一枚の古い控えを指した。


 そこには、数年前の王宮茶会の招待文が残されている。

 封蝋部分の押し跡も一部だけ保存されていた。


 古い内務補助室の印。


 偽造文書の封蝋に似ている。


「これを見て写した可能性は高いですね」


 アリアが言うと、ユリウスは頷いた。


「ええ。ただ、ここにある保管控えから直接写したとは限りません。同じ控えを受け取った貴族家が、今も持っている可能性があります」


「その茶会の出席家は?」


「こちらです」


 差し出された名簿を見て、アリアの指が止まった。


 そこには、最近よく顔を見るいくつかの家名が並んでいた。


 セルディア侯爵家。

 フェルナー伯家。

 グランディル侯爵家。

 そして、他にも王宮茶会へ古くから出入りしている家々。


「広いですね」


「広いです」


 ユリウスは淡々と言った。


「ですが、署名の見本と合わせると、少し絞れます」


「私の署名を見た可能性がある者」


「はい」


 ユリウスは別の紙を置いた。


 婚約発表後の返礼確認。

 慰問行事の準備会。

 王宮内の小茶会の名簿確認。

 その場に立ち会った家名や関係者が、いくつか書き出されている。


 二つの名簿を重ねると、重なる家は多くない。


 アリアは黙ってその名を見つめた。


「……フェルナー伯家」


 自然と、その名が口から出た。


 先日、皇太子へ届くはずの細かな案件を、婚約者であるアリアのところで一度受けてほしいと提案してきた家。

 柔らかな言葉で、婚約者を“便利な窓口”にしようとした家。


 そして古い王宮茶会へも出入りしている。


 ユリウスはすぐには肯定しなかった。


「候補の一つです」


「断定はできない」


「はい。今断定すれば、相手に逃げ道を与えます」


 その言い方に、アリアは静かに頷く。


 怒りはまだある。

 けれど、証拠を待つ怒りでなければならない。


「それと、もう一つ」


 ユリウスは声を少し低くした。


「偽造文書を届けた少年ですが、王宮外の使い走りとして雇われていたようです。仲介したのは、王都西区の古道具屋を兼ねた文具商」


「文具商?」


「紙、封蝋、古い印影の写し。すべてが揃う場所です」


 アリアは息を吸った。


 少しずつ線が見えてくる。

 王宮茶会の古い控え。

 署名の見本。

 文具商。

 外部商会への偽造文書。


 まだ点だ。

 けれど、確実に近づいている。


「その文具商は、誰の出入りがあるか分かりますか」


「調べています。表向きは普通の店ですが、貴族家の使用人が古い紙や封蝋を買うこともあるようです」


「つまり、本人が動かなくてもよい」


「ええ。侍女や執事、出入りの使いでも足ります」


 王宮の外へ広がる話になってきた。


 アリアは指先を重ね、ゆっくり息を吐く。


「ユリウス様」


「はい」


「これは、私が直接追いかけすぎてはいけない件ですね」


 ユリウスが少しだけ目を細めた。


「そうお分かりですか」


「分かります。私が前へ出れば、“婚約者が自分の名を汚されて過剰に動いた”と言われます」


「その通りです」


「でも、完全に下がってもいけない」


「ええ」


 ユリウスは静かに頷いた。


「あなたは当事者です。あなたの署名ではないと証言し、あなたの名がどう扱われるべきかを示す必要がある。ですが、捜査そのものは王宮の流れで進めるべきです」


 そこが難しい。


 怒っている。

 前へ出たい。

 自分の名を勝手に使った者を、この目で確かめたい。


 でも、婚約者として正しく立つなら、自分の怒りを理由に王宮の流れを乱してはならない。


「……悔しいですね」


 ぽつりと漏れた。


 ユリウスは少しだけ黙り、それから言った。


「悔しいと思えるなら、十分です」


「十分?」


「怒りも悔しさも、正しく扱えるなら判断の芯になります。消す必要はありません」


 どこか、レオンハルトと似たことを言う。

 やはり長く側近をしていると、言葉の置き方も似るのだろうか。


 アリアが少しだけ笑うと、ユリウスが怪訝そうにする。


「何か?」


「いえ。殿下と少し似たことをおっしゃると思って」


「それは心外ですね」


「心外なのですか?」


「私の方が、多少は柔らかいはずです」


「多少、ですね」


 今度はリナが本当に小さく笑った。

 重かった空気が、少しだけ戻る。


 昼前、アリアは予定通り王宮内の小さな打ち合わせへ出た。


 偽造文書の件など、何も知らない顔で。

 いつも通りに礼を返し、いつも通りに資料へ目を通し、必要なところだけ指摘する。


 その中で、一度だけフェルナー伯家の名が出た。


 来月の小規模茶会に、フェルナー伯爵夫人と令嬢が出席予定だという。

 アリアはその名を聞いても、表情を変えなかった。


「承知しました」


 ただ、それだけを返す。


 けれど胸の奥では、静かに糸が張られていた。


 相手が誰であれ、必ずどこかで綻びが出る。

 自分はそこを見落としてはならない。


 午後、レオンハルトのいる小会議室へ呼ばれた時、彼はすでにユリウスから報告を受けていた。


「フェルナー伯家が候補に上がった」


 レオンハルトは短く言った。


「はい。ただ、まだ候補です」


 アリアがそう返すと、彼の目がわずかに細まる。


「冷静だな」


「冷静でいたいだけです」


「怒っているのだろう」


「はい」


 アリアは正直に頷いた。


「ですが、怒りだけで動けば、相手の望む形になります」


 レオンハルトはしばらく黙っていた。

 そして、低く言う。


「いい」


 その一言だけで、少しだけ胸が落ち着く。


「明後日の茶会にフェルナー伯家が来る」


「はい」


「顔を合わせることになる」


「分かっています」


「避けるか」


 その問いに、アリアは一瞬だけレオンハルトを見た。


 避けることもできるのだろう。

 体調不良。別件。準備の都合。

 婚約者なら、そういう理由を作ることも不可能ではない。


 けれど。


「避けません」


 声は自然に出た。


「まだ相手と決まったわけではありません。決まっていない相手を、私の怒りで避けるのは違います」


 レオンハルトの目が、静かに深くなる。


「それに」


 アリアは続けた。


「もし本当に関わっているなら、私が普段通りそこにいる方が、相手は嫌でしょうから」


 ユリウスが横で小さく息を吐いた。


「……強くなりましたね」


 自分でも、少しだけそう思った。


 以前の自分なら、怖くて逃げたかった。

 あるいは怒りに震えて、どうしてそんなことをしたのかと問い詰めたくなった。


 今は違う。


 証拠を待つ。

 場を崩さず、相手の綻びを待つ。

 それが、今の自分にできる一番静かな反撃だ。


「無理はするな」


 レオンハルトが言う。


「はい」


「だが、行くなら隣にいろ」


 その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。


 隣にいろ。

 それは守るという意味であり、共に見るという意味でもある。


「はい、殿下」


 アリアは静かに答えた。


「隣におります」


 窓の外には、夕方の光が差していた。

 王宮の庭は穏やかで、何も知らぬように花が揺れている。


 けれどその静けさの奥で、少しずつ真実への道が見え始めていた。


 婚約者の怒りは、静かに証拠を待つ。

 その言葉を胸に、アリアは次に来る茶会を思った。


 その場で、自分がどう微笑むべきかを。

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