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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第101話 婚約者の信頼は、殿下の盾にもなる

 信頼を私物にしてはいけない。


 その言葉は、翌朝になってもアリア・フォン・ルーヴェルトの胸の中に静かに残っていた。


 王宮で向けられる信頼は、個人の人気ではない。

 若い女官たちが安心して意見を出せるようになったことも、侍女たちが以前より少しだけ柔らかい目を向けてくれるようになったことも、すべてを“自分が好かれたから”と受け取ってしまえば、たちまち足元を掬われる。


 それは、婚約者としての力ではなく、慢心になる。


 だからこそ、今朝のアリアはいつも以上に自分へ言い聞かせていた。


 受け取った信頼は、王宮の流れへ返す。

 自分のものにしない。

 レオンハルトのものにも、ルーヴェルト家のものにも、勝手に変えない。


 そうしなければならない。


「お嬢様」


 リナが髪を整えながら、鏡越しに静かに声をかける。


「本日は、少しだけ難しいお顔です」


「難しい顔?」


「はい。悩んでいるというより、何かを間違えないように考えていらっしゃるお顔です」


 アリアは鏡の中の自分を見つめた。


「……そうね。今日は、少し慎重でいたいの」


「何かご不安が?」


「信頼をいただけるようになった時が、一番危うい気がするの」


 リナは手を止めずに、黙って続きを待ってくれた。


「敵意は分かりやすいわ。探りも、牽制も、慣れたとは言わないけれど、だんだん形が見えるようになってきた。でも、信頼は違う。嬉しい分だけ、気づかないうちに踏み込みすぎてしまうかもしれない」


 リナは少しだけ目を伏せた。


「お嬢様は、そのようなことをなさらないと思います」


「そう思ってくれるのは嬉しいわ。でも、そういう言葉に甘えてはいけないのだと思う」


 言いながら、アリアは自分でも驚いていた。

 少し前の自分なら、誰かにそう信じてもらえるだけで十分に嬉しくて、それ以上を考える余裕はなかったかもしれない。


 今は違う。


 信じられることの重さを、少しずつ分かり始めている。


 王宮へ着くと、空気は昨日よりさらに落ち着いていた。


 落ち着いている。

 けれど、どこか薄い緊張が張っている。


 最近のアリアには、それが分かるようになっていた。

 大きな事件が起きた直後のざわめきではない。

 誰かがまだ表に出していない話を持っている時の空気だ。


 南回廊を進んでいると、女官長補佐が珍しく予定より早く姿を見せた。


「ルーヴェルト様」


「おはようございます」


「おはようございます。……少し、お時間をいただけますか」


 その声はいつも通り丁寧だった。

 けれど、目元が少し硬い。


 アリアはすぐに頷いた。


「もちろんです」


 案内されたのは、会議室ではなく小さな控えの間だった。

 そこにはユリウスもいた。


 レオンハルトはいない。

 そのことが、逆に事態の性質を示しているように感じた。


「何かございましたか」


 アリアが問うと、ユリウスは一枚の紙を机へ置いた。


「今朝、内務側で妙な話が出ました」


「妙な話?」


「若い女官たちの間で、“ルーヴェルト様へ直接意見を上げれば、殿下へも通りやすい”という噂が流れ始めています」


 アリアは息を呑んだ。


 昨日、自分は言ったはずだ。

 自分個人への忠誠ではなく、王宮への責任として受け取る、と。


 だが、それをねじ曲げればこうなる。


 アリアを通せば、皇太子へ届く。

 アリアの近くにいれば、王宮内で有利になる。

 つまり、“婚約者の周囲に小さな派閥ができ始めている”という話に変えられる。


「……早いですね」


 アリアは小さく言った。


 ユリウスは頷く。


「ええ。昨日の今日です」


 女官長補佐が、悔しさを押し殺したように続けた。


「若い女官たち自身が意図しているわけではないと思います。けれど、そういうふうに見せたい者がいるのでしょう」


「私が女官たちを取り込もうとしている、と」


「あるいは」


 ユリウスが静かに言う。


「殿下が婚約者を通じて王宮内に私的な影響網を作ろうとしている、と」


 胸の奥が冷えた。


 自分への攻撃だけではない。

 レオンハルトへ向かう刃でもある。


 婚約者への信頼が、皇太子への疑念に変えられる。

 それは、今までのどの嫌味よりも厄介だった。


「殿下は」


 アリアが思わず尋ねると、ユリウスは落ち着いて答えた。


「すでに把握されています。ただ、今回はルーヴェルト様ご自身がどう扱うかを見る必要があると」


 アリアは静かに息を吸った。


 見る必要がある。

 それは突き放されたわけではない。

 むしろ、任されたのだ。


 信頼を私物にしないと言った自分が、その信頼をどう王宮へ返すのか。

 そこを、今まさに問われている。


「分かりました」


 アリアは顔を上げた。


「今日の準備会は予定通りありますね」


「はい」


 女官長補佐が頷く。


「では、その場で一つ、確認を置かせてください」


「確認、でございますか」


「はい。大げさな声明ではなく、仕事の流れとして」


 ユリウスの目が、わずかに細められる。


「なるほど」


 何をするつもりか、彼には伝わったのだろう。


「お願いします」


 女官長補佐が深く礼を取る。


 午前の準備会は、王宮東翼の小広間で行われた。


 昨日と似た顔ぶれ。

 若い女官たち、年配侍女、文官補佐。

 だが今日は、部屋の空気が少し硬い。


 噂はもう一部に届いているのだろう。

 若い女官たちの目に、昨日の安心とは違う戸惑いがある。

 自分たちの発言が、思わぬ形で利用されるかもしれない。

 その不安が、部屋の端々に滲んでいた。


 アリアは席へ着く前に、まず全員へ静かに礼をした。


「本日も、よろしくお願いいたします」


 それだけで始めることもできた。

 だが今日は、もう一言必要だった。


「始める前に、一つだけ確認させてください」


 部屋が静まる。


 若い女官たちが、緊張した顔でアリアを見る。

 年配侍女たちは表情を変えないが、視線だけは鋭い。


 アリアはゆっくりと言葉を置いた。


「昨日、私は皆様に、必要な意見は遠慮なく言ってほしいと申し上げました」


 何人かが小さく頷く。


「その考えは、今も変わっておりません」


 そこで一度、言葉を切る。


「ですが、それは私個人に近づくためでも、私を通して殿下へ何かを届けるためでもありません」


 空気が、わずかに張った。


 言うべきことを、避けずに言う。

 ただし、誰かを責める形ではなく。


「王宮の仕事をより良く進めるために、必要な意見が必要な場所へ届くようにしたい。そのためです」


 アリアは女官たちを一人ずつ見るように、視線をゆっくり動かした。


「ですから、私へ何かを伝えてくださる時は、“ルーヴェルト様へ”ではなく、“王宮の仕事として必要だから”という形でお願いいたします」


 若い女官の一人が、ほっとしたように小さく息を吐いた。


 その反応で、アリアは自分の言葉が少なくとも一部には届いたと分かった。


「そして私も、皆様から受け取った意見を、私の判断や好意として扱うのではなく、正式な流れへ戻します」


 ここが大切だった。


 信頼を自分のものにしない。

 女官たちの声を、自分の手柄にしない。

 レオンハルトへの近道にもしない。


「この場は、私のための場所ではありません」


 静かな声で、はっきりと告げる。


「王宮の仕事のための場所です」


 沈黙が落ちた。


 重苦しい沈黙ではなかった。

 むしろ、誰かが勝手にねじ曲げようとしていたものが、正しい形へ戻されたあとの沈黙だった。


 最初に頭を下げたのは、女官長補佐だった。


「承知いたしました」


 続いて、若い女官たちも次々と礼を取る。


「承知いたしました」


 声は揃っていない。

 けれど、その不揃いさがかえって本物に思えた。


 準備会は、その後とても自然に進んだ。


 女官たちは必要な意見を出す。

 アリアはそれを聞き、すぐに自分の判断として抱え込まず、女官長補佐や文官補佐へ確認を戻す。

 採用されるものもあれば、保留されるものもある。


 その流れができるにつれて、部屋の空気は少しずつ落ち着いていった。


 自分に寄るのではなく、場へ戻る。

 信頼が一人に集まりすぎないよう、流れを整える。


 それは昨日までに覚えた“味方を増やす”ことの、さらに先にある作業だった。


 準備会が終わったあと、昨日意見を出してくれた若い女官が、控えめに近づいてきた。


「ルーヴェルト様」


「はい」


「本日のお言葉、ありがとうございました」


「私は、当たり前のことを確認しただけです」


「いいえ」


 女官は小さく首を振る。


「私たちが、変なふうに見られないようにしてくださったのだと思います」


 その言葉に、アリアは少しだけ胸が詰まった。


 見てくれている人は、ちゃんといる。

 それを実感する。


「あなた方の意見は、大切です」


 アリアは静かに言った。


「だからこそ、正しい場所で大切にされるべきです」


 女官の目がわずかに潤んだように見えた。


「はい」


 夕刻、小会議室へ入ると、レオンハルトはすでに窓際に立っていた。


 ユリウスもいる。

 だが、今日は最初に口を開いたのはレオンハルトだった。


「聞いた」


「早いですね」


「早く届くようにした」


 その返答に、アリアは少しだけ笑いそうになった。

 この人は本当に、必要な情報に遠慮がない。


「今日の対応はよかった」


 短く、まっすぐな評価。


「ありがとうございます」


「婚約者への信頼を、殿下への私的な近道にしなかった」


 ユリウスが補足する。


「しかも、若い女官たちを切り捨てるのではなく、正規の流れへ戻した。あれなら、“ルーヴェルト様派”という言い方はしづらくなります」


 アリアは静かに息を吐いた。


「正直、少し怖かったです」


「何がだ」


 レオンハルトが問う。


「信頼してくれ始めた人たちを、突き放したように聞こえないかと」


 それは本音だった。

 自分へ近づきすぎてはいけない、と言うことは、時に冷たく聞こえる。

 せっかく安心してくれた女官たちを、また遠ざけてしまうのではないかという不安もあった。


 レオンハルトは少しだけ沈黙し、それから言った。


「突き放すのと、正しい場所へ返すのは違う」


 その一言が、胸の奥へ落ちた。


「君は今日、後者をした」


「……そうでしょうか」


「そうだ」


 迷いのない返答。


「だから、信頼は消えない。むしろ残る」


 アリアはその言葉に、ゆっくりと息を吸った。


 信頼は、抱え込まなければ消えるものではない。

 正しく扱えば、むしろ残る。

 それは今日、少しだけ分かった気がする。


「殿下」


「何だ」


「信頼は、難しいですね」


「そうだな」


「敵意より、ずっと」


 レオンハルトの目がわずかにやわらいだ。


「そこに気づいたなら、十分だ」


 窓の外では、夕暮れの光が王宮の庭へ静かに落ちていた。


 婚約者の信頼は、私物にしてはいけない。

 そして、正しく扱えば、殿下の盾にもなる。


 そのことを知った日、アリアは自分がまた一つ、王宮という場所で生きるための難しい呼吸を覚えたのだと思った。

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