第100話 婚約者の信頼は、私物にしてはいけない
翌朝、王宮の回廊を歩いた瞬間、アリア・フォン・ルーヴェルトは、昨日までとはまた違う空気を感じ取った。
視線はある。
探る目も、値踏みする目も、もちろん消えてはいない。
けれど、その奥に少しだけ温度の違うものが混じっていた。
若い女官が、以前よりわずかに早く道を空ける。
侍女の一人が、礼を取る時にほんの少しだけ安心したような顔をする。
遠くで小声を交わしていた者たちが、アリアと目が合った途端、怯えるのではなく、きちんと姿勢を正す。
それは、恐怖ではなかった。
信頼、と呼ぶにはまだ早いのかもしれない。
けれど、少なくとも“この方の前で失敗したら終わりだ”という硬い怯えではない。
昨日、準備会で若い女官の失態を責めず、場ごと整えたこと。
その話が、王宮の内側で静かに広がっているのだろう。
「お嬢様」
リナが半歩後ろから小さく言う。
「今日は、皆様のお顔が少し違いますね」
「ええ」
アリアは前を向いたまま頷いた。
「でも、だからこそ気をつけなければいけないわ」
「気をつける、ですか?」
「ええ」
アリアは静かに息を吸った。
「人から向けられる好意や信頼は、勘違いするとすぐに私物になってしまうもの」
婚約者として見られる。
婚約者として頼られる。
婚約者として感謝される。
それは嬉しい。
けれど、嬉しいからこそ危うい。
自分へ向いた信頼を、“自分だけの力”だと思った瞬間に、きっと足元が崩れる。
王宮で一番怖いのは、敵意よりも、好意に酔うことなのかもしれない。
午前の予定は、慰問行事の贈答品確認だった。
女官長補佐、数人の女官、文官補佐、そしてアリアが同席し、品目と送り先、添える文の文面を確認する。
昨日までなら、こういう場は緊張と警戒が先に立った。
だが今日は、若い女官たちの空気が少しだけやわらかい。
その分、アリアはあえて最初に言った。
「本日は、皆様のお仕事の流れを確認させていただく立場です。私が独自に進める場ではありませんので、必要なところは遠慮なくご指摘ください」
その一言に、数人の女官がわずかに目を上げた。
女官長補佐も、ほんの少しだけ表情をやわらげる。
「承知いたしました」
会議は穏やかに進んだ。
贈答品の数。
香草入りの布袋。
季節菓子。
子どもたちへ渡す小さな栞。
どれもささやかなものだが、送り先によって意味が変わる。
アリアは一つ一つを丁寧に見た。
だが、口を出しすぎない。
女官たちが積み上げてきた仕事を、婚約者の名で上から塗り替えない。
途中、若い女官の一人が控えめに口を開いた。
「あの……ルーヴェルト様」
「はい」
「北区の孤児院へお届けする栞ですが、花の意匠より、鳥の意匠の方が喜ばれるかもしれません。以前、院の子どもたちが鳥籠を見て、とても喜んでおりましたので」
以前なら、そんな小さな意見は言いにくかったのだろう。
女官自身も、言ったあとで少し不安そうにしている。
アリアはすぐには答えず、まず女官長補佐へ視線を向けた。
「現場をご存じの方の意見として、検討できますか?」
「ええ。鳥の意匠であれば、すぐに差し替え可能です」
「では、その案を採用しましょう」
若い女官の顔が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」
「私にではなく、あなたが覚えていてくださったことに感謝すべきですね」
そう返すと、会議の空気が少しだけ温かくなった。
その時だった。
部屋の隅に控えていた年配侍女が、静かに口を開いた。
「ルーヴェルト様」
「はい」
「最近、若い女官たちがルーヴェルト様へ意見を申し上げやすくなっているようでございますね」
声音は丁寧だった。
だが、場の空気が一瞬で変わる。
それは、褒め言葉の形をした牽制だった。
若い女官たちがアリアに近づきすぎている。
アリアが若い女官たちを自分の側へ寄せている。
そういう見方もできる、と暗に示している。
アリアはその意味をすぐに理解した。
昨日得た小さな信頼。
それを今度は、“婚約者が王宮内で自分の味方を作ろうとしている”という刃に変えようとしているのだ。
リナが後ろでほんのわずかに息を呑む気配がした。
だが、アリアは慌てなかった。
「そう見えるのでしたら、私の振る舞いにも注意が必要ですね」
まず、そう受けた。
年配侍女の眉がわずかに動く。
反論されると思っていたのかもしれない。
アリアは続ける。
「私は、若い女官たちを私個人へ近づけたいわけではありません」
静かに、しかしはっきりと。
「現場の意見が、必要な時に必要な場所へ届くようにしたいだけです」
若い女官たちが、黙ってこちらを見ている。
「ですから、皆様もどうか誤解なさらないでください」
アリアはそこで、部屋にいる全員へ視線を配った。
「私に気に入られるために意見を言う必要はありません。私のために動く必要もありません」
一拍置く。
「ただ、王宮の仕事がより良く進むために、必要なことを言ってください。私はそれを、私個人への忠誠ではなく、王宮への責任として受け取ります」
部屋の空気が、静かに沈む。
重い沈黙ではない。
言葉がきちんと落ちたあとの沈黙だった。
年配侍女は、しばらくアリアを見ていた。
やがて、深く礼を取る。
「出過ぎたことを申しました」
「いいえ。大切なご指摘でした」
アリアは微笑んだ。
「信頼を私物にしないよう、私も気をつけます」
その一言で、ようやく場の緊張がほどけた。
若い女官たちの顔には、安堵と、それ以上の何かが浮かんでいた。
尊敬というほど大げさではない。
だが少なくとも、“この方は自分たちを利用しているわけではない”という理解は届いたのだと思う。
会議が終わったあと、女官長補佐が短く言った。
「本日の返しは、お見事でした」
「お見事、というほどでは」
「いいえ」
彼女は静かに首を振る。
「信頼を集める方は多くいます。ですが、集まった信頼を自分のものにしないと言える方は、そう多くありません」
その言葉に、アリアは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
夕刻、小会議室へ呼ばれると、レオンハルトとユリウスはすでに話を聞いていたらしい。
ユリウスが、珍しく感心を隠さずに言った。
「今日は、かなり難しいところを通しましたね」
「若い女官たちを取り込んでいる、と見られかねない場でしたので」
「ええ。その通りです」
レオンハルトは静かにアリアを見る。
「どう返した」
アリアは会議でのやり取りをそのまま伝えた。
若い女官の意見を採用したこと。
年配侍女から牽制が入ったこと。
それに対して、自分への忠誠ではなく、王宮への責任として受け取ると返したこと。
話し終えると、レオンハルトが短く言った。
「いい」
いつもの短い評価。
けれど、今日のそれは少しだけ重かった。
「信頼は力になる」
彼は続ける。
「だが、それを私物にした瞬間に、周囲は敵意を向ける」
「はい」
「君は今日、それを避けた」
アリアは静かに頷く。
「味方が増えることは嬉しいです。でも、それを“私の味方”だと思ってしまうのは危ういと感じました」
「その感覚は正しい」
レオンハルトは即座に言った。
「婚約者として得る信頼は、君個人の所有物ではない。王宮の流れの中へ返すものだ」
その言葉は、今日アリアが感じていたものを、そのまま形にしてくれた。
「……難しいですね」
「難しい」
レオンハルトは否定しない。
「だが、そこを間違えなければ、君の周囲には自然に人が残る」
人が残る。
その言葉が、アリアの胸へ静かに落ちた。
無理に味方を作るのではない。
甘く庇って人を集めるのでもない。
信頼を受け取り、それを正しい場所へ返し続ける。
そうすれば、人は自然に残る。
それが、婚約者としての新しい力なのだろう。
「……少しずつ、分かってきた気がします」
アリアがそう言うと、ユリウスが小さく笑った。
「最近、毎日その段階が進んでいますね」
「毎日、試されておりますから」
「王宮とはそういう場所です」
まったくその通りだと思った。
窓の外では、夕暮れが王宮の庭を淡く染めていた。
婚約者のやさしさが味方を増やす。
けれど、その信頼を私物にしてはいけない。
そのことを覚えた日、アリアはまた一つ、この席の重さと使い方を知ったのだった。




