休み時間・2(教室)
* 【休み時間】 *
「出席者は私一人ですが」
先生が、手に持っていた筒を僕に渡し、言った。
「ご卒業、おめでとうございます」
とすると、筒の中身は卒業証書だろうか?
文面を想像して、くすりと笑いがこぼれた。
「ありがとうございます、先生。今までお世話になりました」
おかげで、笑顔で礼を言うことができた。
二時間目と三時間目の間の休み時間。一時的に誰もいなくなった教室で、僕は担任と二人向かい合っていた。
啓と二人で教室を出て行った妹は、今頃どうしているだろう。決死の覚悟で臨んだ啓は、気持ちを伝えることができただろうか。
伝えることはできても、伝わることはないのだろうけど。少なくとも、今のあの子には。
先生は、眉間に一本皺を寄せた相変わらずの表情だった。あの子が僕を笑わせようと、よくこの顔真似をしていたっけ。――思い出のすべてがあの子とつながり、そのことにうっとりとするような幸福を感じる。
罪悪感一歩手前の、幸福感。
カタンと音がし、見ると、床に筒が転がっていた。今しがた僕が手にしていた筒だった。
いつの間にか透明になっていた僕の手をすり抜け、落ちた筒。――こんな手じゃもう、あの子の頭を撫でてあげられないな。あの子が泣いている時慰めるのは、僕の役目だったのに。
「もう時間のようですね。――お題達成のための卒業などというルール違反を、本当に認めてしまっていいものかどうかわかりませんが」
「認めてください。あの子が決めたことですから」
「理由になっていませんね。私はジェイさんを――、誰か特定の生徒を特別扱いするつもりはありません」
「それでも先生は、あの子にお題の返還を強制しませんでした」
お題受信の犯人があの子だとわかっていながら。
「それと、先生。すみませんが、僕の前では、あの子をその名で呼ばないでいただけませんか? それは、あなたが勝手につけたものだ」
僕と妹は、とうに本当の名前を忘れてしまっていた。だから今の僕に、あの子は呼べない。
でも、このことだけは譲れない。
「あなたにだけは、その名を呼ばれたくない」
「――それは失礼しました。ですが同時に、あなたもずいぶんと失礼ですね」
僕は口元に笑みを浮かべることで答えた。
「先生。一つだけ教えてください」
「――なんですか?」
「僕の本来の残り寿命――、卒業までの残り時間は、どれくらいだったんですか?」
「最初に申し上げた通り、答えられません」
「僕はもう卒業してしまいます。あなたの生徒ではなくなります。それでも?」
「ええ。校則ですから」
「――そうですか。それではこれだけでも答えてください。僕はあの子より、長く生きる予定だった? 本来ならば、あの子の方が僕より早く卒業するはずだった?」
彼はすうっと瞳を細め、冷たく僕を見返すだけだった。
僕はその反応を、勝手に肯定と解釈した。――体の中で小さな爆発が起こり、気付くと大声で笑っていた。身を捩り、涙を滲ませながら。狂ったように、狂うように。
「ざまあみろ! 見ているか!? 見えているか!? あの子は約束を果たしたんだ! 僕を守ったんだ! おまえとは違う! ――産むだけ産んで途中で放り出した無責任なおまえとは違う! あの子だけは、誓いを破らなかったんだ!」
天にも届けとばかりに哄笑した。
*
(――僕が君を守るから。必ず君を守るから)
誓ったのは遠い昔。少しずつ存在の欠片を失っていくこの世界で、僕と君は互いを守り合うと、手を携え、共に誓った。
でも僕たちは、互いを――かけがえのない半身を徐々に失っていく恐怖に勝てなかった。体が薄れるよりも、心が先に死んでいった。僕たちはもうぼろぼろで、互いを大切に思うあまり、言葉で、眼差しで、互いを傷つけずにはいられなかった。眩しいほどに輝いていた君の笑顔を、僕はもうずいぶん長く見ていなかった。
(――神様、仏様。なんでもいいです、誰でもいいです、様のつく人でなくてもいいです、お願いします。お兄ちゃんを守ってください)
一度目のお題を受信した時、あの子はまだ信じていた。僕と君と啓と椎、皆でそろってもう一度生きられることを。
右手の指の数だけ受信した時、あの子はまだ諦めていなかった。君と僕が生き延びることを。
左手の指が二本追加された時、あの子は叫んでいた。僕だけでも生き延びてくれと。
両手の指がそろった時、あの子は指を祈りの形に組み合わせた。僕の心を守らせてくれと。
そうして僕たちの前に十と一つ目のお題《 世界を敵に回しても君を守る 》がやって来て――、あの子はそのお題に一つの解釈を与えた。
(――僕にとってはお兄ちゃんが『世界』そのもの。でもそのお兄ちゃんの心を『守る』ために、僕は、僕にとっての『世界』であるお兄ちゃんの存在を『敵に回す』)
宙に向かい宣言する妹の、すり減った声。それは彼女自身の魂を削る音に聞こえた。
(――どうか、お兄ちゃんを僕より先に卒業させてください。どうか。壊れていくあの人の、せめて心だけでも守ってください)
僕の特殊能力である魅了の力を一身に受け、僕だけを愛する妹。――作者が読者受けを狙って、そのためだけに用意した、設定――。そんなくだらないものに、今もなお縛られ、苦しんでいる。その哀れな妹の下した結論を、どうして否定できよう。
実際、僕はもう限界で、日々薄らいで行く妹を見続けることにこれ以上耐えられそうになかった。もし僕より先にあの子が卒業すると確信したなら、その予感だけで僕は決定的に壊れていただろう。
でもそれは、妹とて同じこと――。
(――待ってください)
だから僕は、お題に対し、更にもう一つの解釈を重ねた。
(――妹のお題解釈が実現すれば、その過程で彼女の心は砕け散ります。妹が苦しむならば、それは僕の心を『守る』ことにはなりません。だからどうか、今回のお題に関する記憶を彼女から奪ってください。僕が彼女より先に卒業することに関してはそのままでいい。けれどどうか、僕の心を『守る』ために、妹の心を守ってください)
決して僕の顔を見ないよう宙を睨んでいた妹は、僕の宣言を聞き、とっさに僕を振り向いてしまった。張り裂けそうなほどに開かれた瞳。――その瞳が一瞬揺らぎ、
(――あれ? お兄ちゃん?)
きょとんと丸くなった目で、僕を見上げていた。
(――僕、今何してたんだっけ?)
さあ? 寝ぼけていたのかな? と僕が微笑んでみせると、妹は気恥ずかしそうに頬をぽりぽり掻いて、それから照れくさそうに笑った。
僕は、この世界が僕たちの解釈を受け入れたことを知った。
そして同時に、世界独自の解釈なのだろう、妹は僕たちに待ち受ける運命――『卒業』そのものを忘れていた。
本当に久々に見た、妹の穏やかな顔。その笑顔に、泣きたいほどの幸福を感じた。
答えてくれる誰かがいるのならば問うてみたい。妹を愛し、妹に愛されるというこの設定を用意した作者に対し、僕は憎しみと感謝、どちらの感情を抱いたらいいのだろう。
*
ひとしきり笑った僕が目じりに浮かんだ笑い涙を拭う様を、先生はあの深い黒瞳で見据えていた。そして口を開き、抑えた声音で、僕たちを静かに糾弾した。
「――本来の卒業とは、『この世界で日々を送るうちに徐々に浄化され世界に同化していく』という、自然なものでした。その段階を経ずに今そこにあるものが急に失われるというのは、お題受信と同様、どこかに歪みを引き起こしかねない危険なことです」
僕の視界が霞んでいるのは、笑い涙のせいだけではないのだろう。そして、霞んでいるのだけれど、壁の向こう――どこまでも遠く見渡せるようだった。僕は僕の殻を失い、世界との同調を始めていた。
「それを承知で彼女は受信を続け、そしてあなたはその彼女を止めようとせず、最後にはそうやって一人卒業していこうとしている――。あなた達兄妹は、そろいもそろって、ずいぶんと自分勝手だ」
「ええ、僕は自分勝手です。だから、残されたあなたが、日々薄らいでいくあの子をこれから先も見続けなきゃいけないことを、僕はなんとも思っちゃいない。この世界でたった一人、何があっても生徒たちのことを忘れることが出来ないあなただけが、あの子が消えた後もずっと一人であの子のことを覚え続けていることを、僕はなんとも思っちゃいない!」
「……まだ、今ならまだ間に合うんです。彼女にお題を返還させなさい。そうすればあなたはまだ存在することができるんです。――エル君!」
「なんとも思っちゃいない! なんてかわいそうな先生! アハハハハ!」
自分自身の笑い声が遠ざかっていく。揺らぐ視界の先に、蜃気楼のように妹の姿が見えた。
泣いている? あの子が泣いている! どうして。笑っていてくれるはずなのに。
僕がそこにいないから? 僕が君を見ていなかったから?
でも慰めようと伸ばした僕の手は、あの子をすり抜けてしまう。どうすればいいかわからず途方に暮れて立ちつくしている僕の存在に、あの子の前に立っていた啓が気づいた。
僕を見た啓は口を開け、声にならない声を出し、それから、とても悲しそうな表情で、僕に向け、腕を開くように手を伸ばした。
啓に触れると、すうっと、僕は啓の内に吸い込まれ、重なった。――そこはとても、温かかった。
(――泣かないで。ごめんね、僕は君を、守りたかったのに)
あの子に向ける言葉。頭に載せた手のひら。啓と僕が重なる。でもそれはほんのわずかの間で、青い空に吸い込まれていくように僕は啓の体から抜けていった。
視界の端に、遠くの教室で、床に落ちている筒を拾い上げている先生の姿が見えた。彼は静かに手の中の筒を見つめ、それから蓋を開けた。
筒の中は、卒業証書も何もない――、がらんどうだった。




