三時間目と四時間目
* 【三時間目】 *
三時間目は生徒たちだけで自習だった。
欠けていた席が、三時間目の間に少しずつ埋まっていく。
笑顔の人も泣き顔の人も無表情の人もみんな、授業中だから、話す声はない。
扉を開ける音と、閉める音。足音と、椅子を引く音。
音を重ねるうちに三時間目は終わった。
* 【四時間目】 *
「確認したところ、職員室のボードからお題が消えていました。それにしてもまさか本当に『告白』程度で達成されるとは……安い『世界』もあったものですね。とりあえず今回は乗り切れましたが、犯人は見つけ次第しばき倒しますので、そのつもりで。この通り、嘘発見器も用意しましたから」
なんかすごい刺激的な電流が流れそうな機械が教卓に載せられていた。三時間目は思いやりの精神を発揮して姿を見せなかったのかと思っていたが、まさかこれの調達に行っていただけなんじゃ……。そしてその物騒な機械に真っ先にかけられるのは、やっぱり僕なんですか?
僕は保身の念をこめて可愛らしくにこっと微笑みつつ眼鏡を見つめてみた。そしたら眼鏡も微笑み返してくれた。こあいよう(はぁと)。
「――ですがあなた方が本当の意味で納得しないかぎり、また同じことが繰り返されるのでしょうね」
眼鏡が眉間の縦皺をほぐしている一瞬の隙を利用して、最終手段、目を瞑って黙想開始。
「一度、復習をしましょうか。忘れている人もいるでしょうから、確認しておきます」
そのきつい眼差しが僕の視界から遮断されると、眼鏡の声は意外なほどに穏やかだった。晴れやかな青空ではなく曇りがちの日。プールにもぐった時全身が感じる太陽の光のような温かさ。
「あなた方は、現実世界の誰かの頭の中で生み出された、架空の存在です。そして増え続けるあなた方を回収し、そのエネルギーを弱め、存在を薄めていくのが私の役目です」
瞼越しの眼鏡の声は、教室の中を蜃気楼みたいに揺らめいていた。
「自分の名前を覚えている人は手を挙げてください。――はい、ありがとうございます、下ろしてください。では今手を挙げてくれた人の中に、自分の本当の名前を覚えている人はいますか? ――いいえ、英智君、あなたの名前は私がつけたものです。英智という名は、もともとあなたが持っていた名前ではありません。ええ、パイさん、あなたもです」
揺らめきの中目を瞑っていると、ぬるいプールの中をたゆたっているようだった。
「あなた方はこの学校に来てまず第一に、自分の名前を忘れました。一度忘れてしまった名前は取り戻せません。そしてその後はどんな名前をつけようとも定着せず、つけるたびに忘れられていきました。あなた方に残されたのは、【通行人A】や【同級生のB君】程度を意味する記号だけでした」
啓、椎、英智、パイ。僕たちは無数の記号に囲まれている。そして僕も記号の一つ。それ以上でも以下でもない。
でも担任は、この人自身は、名前を名乗らなかった。記号の名前もつけていない。この人だけは今も持っているのかもしれない本当の名前を、自分からは決して名乗らなかった。
「その外の様々のことを、あなた達は忘れていきます。例えば、椎さん、あなたはなぜそんな風変りな話し方をするのですか?」
「さあね。そういう設定だったんだろうよ」
問われた椎の、皮肉気な声が聞こえる。
「もし口調に理由があったとしても、どうせたしたもんじゃないわな。口調でキャラ立ちやるラノベ畑のあたしらに、んな無粋なこと訊きなさんなって」
このまま目を開けないでいようか。そうすれば、僕は見ずにすむから。声を聞いているだけなら、まだ、彼女が確かにいると信じられるから。
「ま、もしも理由があったんなら、あたしの方こそ訊きたいね。あたしに残ってんのは、もうこれっきりなんだから」
そう言う椎の外見を、僕はもうほとんど認識できないでいた。目を開けたって見る事はできない。わかるのは、声や笑い方だけ。椎はそれ以上、僕の記憶に留まらない。――そこではたと気がついた。僕はもう、僕が「僕」と言う理由を、覚えていない。思い出せない。
「そうですか。順調に卒業の準備を進めていらっしゃるようですね。この先もその調子でお願いします。私のクラスから落伍者は出しません」
卒業。それはこの世界では、消滅を意味する。誰の記憶からも剥がれ落ちて、最初からそんな人はいなかったことになる。忘れてしまう。忘れられてしまう。
――なんで僕は、そんな重要なことを忘れていたのだろう。
「いいですか、皆さん。諦めなさい。それが第一です。このまま単調な学校生活を続けていけば、そのうちに余分な部分は削ぎ落とされます。そうしていれば、すぐに卒業できます」
卒業を受け入れてしまえば、段々と自分を失っていくこの焦燥を、大切な人を少しずつ見失っていくこの恐怖を、これ以上味合わなくてすむ。
「何度お題を受信しようが、あなた方を生み出した作者がそのお題に手をつけることはないでしょう。それをきっかけに再びあなた方の生きていた物語世界を書き始め、あなた方がその世界に帰るなどということは、億が一にもないでしょう。無駄にあがいて苦しむ時間を長引かせるのはよしなさい」
担任は、ホゥと小さなため息をもらしてから、言った。
「受け入れなさい。あなた方と作者は、もうつながっていないんです。あなた方がもう一度生きることはありません」
「――そんなの、わからないだろ」
僕は目をうっすらと開け、力のこもらない声で、それが義務であるかのように反論した。
「諦めなければ、いつか届くかもしれないだろ。だって、あんなに好きだったんだから」
僕を注視する人、そっと目を伏せる人。
「僕たちを生み出した作者の人たちは、『ワナビ』って呼ばれるあの人たちは、書くことが、あんなに好きだったんだから。僕たちのこと書くのが楽しくて、他のことしてる時間が惜しくって、歯磨きしてる最中でもパソコンに向かっちゃって、歯ブラシ口にくわえたままキーボード叩いちゃうくらい夢中になって……」
あれ、なんだろ。
口にするたびに、何かが僕の中からぽろぽろとこぼれていく。
「だから、僕たちさえ諦めなければ、いつか届くかもしれないだろう? あがき続ければ、いつかあの人たちが。『プロの作家になんかなれない。しょせんこれが現実』と諦めないで、もう一度夢を掴もうと。届かなくても、必死で手を伸ばしてもそれでも届かなくても、手を、伸ばし続けてくれるかもしれないから」
僕の中から、『理由』が失われていく。
「努力とか、才能とか、いらないからっ。評価とか、人気とか、褒めてくれる人とか、認めてくれる人とか、そんなのいらないからっ。笑われても、蔑まれても、自分がどうしようもなくちっぽけな存在なんだって思い知らされてもっ。書くことが楽しいことだって、そのことだけが大切なことなんだって、思い出してほしいから! だから僕たちはっ、『お題』を受信し続けるんだ!」
僕は机を叩きつけて、黒板を睨むように前を向いていた。自分がなぜ叫んでいるのかがわからない。
わからないけれど、それでもこれだけはわかる。僕はもう金輪際、『お題』を受信しないだろう。
体から力が完全に抜けて、僕はそこで黙り込んだ。沈黙。諦めが、僕を覆っていた。
もういいかな、と思った。もうやめよう。
そう決めると、不思議なほどに僕の心は軽くなった。
「もうよろしいですか? それでは、授業を始めましょう」
僕たちにくるりと背を向け、チョークを握る。紺色の背広の背中が、遠くにも近くにも感じられた。
……なんだろう。なんだか少し、眠たくなった。




