第2話 入れ替わったまま授業を受ける
「……つまり」
保健室のベッドに腰掛けたまま、僕は目の前の少年――僕の身体に入ったクラリス様を見た。
「僕はクラリス様になっていて」
「ええ」
「クラリス様は僕になっている」
「そのようね」
「…………」
「…………」
「どうしよう」
「知らないわよ」
即答だった。
僕の顔でそんなことを言われると、ものすごく変な感じがする。
いや。
正確には、僕の身体にクラリス様が入っていて、その顔で僕を冷たく見ている。
やっぱり変だ。
「身体に異常はありませんね」
保健室の先生が僕たちを交互に見ながら言った。
「二人とも大きな怪我はないようです。階段で倒れたと聞いたけれど、気分が悪くなったらすぐに言いなさい」
「はい」
「分かりました」
僕たちは同時に返事をした。
先生は特に不審に思っていない。
当然だ。
まさか、
『身体が入れ替わりました』
なんて言われても信じられるわけがない。
「もう授業が始まっていますが、どうしますか?」
先生が時計を見る。
僕も時計を見る。
昼休みは、もう終わりかけていた。
「…………授業」
僕は呟いた。
クラリス様も時計を見る。
「受けるしかないでしょうね」
「え?」
「このまま二人とも保健室に残れば、余計に怪しまれるわ」
「でも……」
僕は自分の姿を見下ろした。
長い銀髪。
公爵令嬢の制服。
どう見ても僕じゃない。
「僕、クラリス様として授業を受けるの?」
「そうなるわね」
「無理じゃない?」
「私だって、あなたとして授業を受けるのよ」
「…………」
それを言われると何も言えない。
「今日一日だけ」
クラリス様が言った。
「とりあえず、お互いのふりをするしかないでしょう」
「……できるかな」
「やるしかないわ」
その言葉には、妙な説得力があった。
僕はため息をついた。
「分かった」
こうして僕たちは。
入れ替わったまま、普通に授業を受けることになった。
◆
保健室を出て、廊下を歩く。
しばらくすると、僕たちは別れ道に差しかかった。
僕とクラリス様は同じ二年生だが、クラスは違う。
つまり――。
「ここから別々か」
「ええ」
「…………」
「…………」
なんとなく、二人とも動かなかった。
「じゃあ……」
「ええ」
「昼休みに、どこかで会おう」
「そうね」
僕たちは、校舎裏にある古い校舎の小さな中庭を集合場所に決めた。
人通りが少なく、昼休みならほとんど人も来ない場所だ。
「では、あとで」
「うん」
クラリス様が歩いていく。
僕も反対方向へ歩き出す。
数歩進んで、振り返った。
僕の顔をしたクラリス様が遠ざかっていく。
なんだか不思議な光景だった。
「…………」
僕は前を向いた。
今は自分のことを考えよう。
問題は――。
「クラリス様の教室、どこだっけ?」
僕は知らない。
そもそも、僕とクラリス様はほとんど話したことがない。
同じ学年だから顔と名前は知っている。
でも、それだけだ。
「……どうしよう」
いきなり難関にぶつかった。
◆
なんとか教室を探し当てた。
扉の前で、僕は深呼吸する。
「……よし」
やるしかない。
僕は扉を開けた。
「クラリス様!」
「大丈夫ですか?」
「先ほど倒れたと聞きました」
一斉に声をかけられる。
「え、あ……」
僕は固まった。
どうやらクラリス様は、思っていた以上に周囲から気にかけられているらしい。
「もう大丈夫です」
なんとか答える。
すると、一人の女生徒がほっとしたように笑った。
「よかったです」
「ありがとうございます」
僕は頭を下げた。
……危ない。
思わず普段の調子で話してしまいそうになる。
クラリス様って、普段どんな話し方をしてるんだ?
僕は席に座った。
机の上には教科書とノート。
当然ながら、クラリス様のノートなんて見たことがない。
「…………」
教科書を開く。
授業は数学。
先生が黒板に問題を書く。
僕は問題を見つめる。
「…………」
分からない。
いや。
正確には、解き方は分かる。
だけど、この問題をクラリス様が普段どれくらいの速度で解くのかは知らない。
そして何より。
周囲の視線が怖い。
「クラリスさん」
「はい!」
先生に呼ばれた。
「この問題を解いてみなさい」
「…………」
来た。
僕は黒板を見る。
問題を読む。
少し考える。
「……こう、ですか?」
恐る恐る答える。
「正解です」
「…………!」
助かった。
僕は小さく息を吐いた。
どうやら勉強そのものは、普段からちゃんとやっていたおかげで何とかなるらしい。
ただし。
次の問題は難しかった。
「…………」
僕は黙り込む。
分からない。
これは本当に分からない。
「クラリスさん?」
「…………少々、お待ちください」
教室が静かになる。
僕は必死に考えた。
そして――。
「あ」
なんとか答えにたどり着いた。
「……これで」
「正解です」
教室から小さく感心する声が聞こえた。
僕は机の下で拳を握った。
危なかった。
公爵令嬢って、毎日こんな授業受けてるのか?
僕は今日一日だけで疲労か半端ないぞ。
◆
一方その頃。
クラリス様も、僕の教室で授業を受けていた。
「レイ」
隣の男子生徒が声をかける。
「今日、なんか変じゃない?」
「……そう?」
「うん」
クラリス様は一瞬黙った。
「どこが?」
「なんか……姿勢がいい」
「…………」
「それに、言葉遣いも妙に丁寧」
「そうかしら」
「ほら、今も!」
「…………」
クラリス様は黙った。
そして、静かに姿勢を崩した。
「これでいい?」
「……うん。なんかいつものレイっぽい」
クラリス様は内心で深く息を吐いた。
どうやら、この身体の持ち主は普段かなり自然体で学校生活を送っているらしい。
次の授業。
教師が問題を出す。
「レイ、この問題を」
「はい」
クラリス様が立ち上がる。
問題を読む。
「…………」
しばらく考える。
そして答える。
「正解」
教師が頷いた。
クラリス様は席に座る。
周囲から小さな声が聞こえた。
「レイって、あんなにちゃんとしてたっけ?」
「さあ?」
クラリス様は目を伏せた。
――なるほど。
この少年も、決して何も考えずに生きているわけではないらしい。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
レイという人間に興味が湧いた。
◆
そして、昼休み。
僕たちは約束した場所に集まった。
「疲れた……」
僕はベンチに座り込んだ。
「同感ね」
クラリス様も僕の身体でため息をつく。
「授業って、こんなに疲れるものだったっけ?」
「あなた、いつも受けているのでしょう?」
「そうだけど……今日はクラリス様のふりをしながらだから」
「私も同じよ」
「だよね」
二人でしばらく黙る。
「…………」
「…………」
先に口を開いたのはクラリス様だった。
「あなた」
「うん?」
「私の普段の生活は、どうだった?」
「どうって?」
「授業中、周囲の人がずいぶん気を遣っていたわ」
「……まあ、公爵令嬢だから」
「そう」
クラリス様は少し考える。
「あなたのほうは?」
「僕?」
「私の身体になって、何か分かったことは?」
「うーん……」
僕は考えた。
「みんな、クラリス様のことを怖がってるっていうより、ちゃんと敬ってる感じだった」
「…………そう」
クラリス様は小さく呟いた。
「それだけ?」
「あと……」
僕は少し笑った。
「思ったより大変そう」
「…………」
「ごめん」
「別にいいわ」
クラリス様はそう言った。
でも。
ほんの少しだけ、表情が柔らかくなった気がした。
「それより」
僕は話を戻す。
「これからどうする?」
「元に戻る方法を探すしかないでしょう」
「やっぱりそうだよね」
「ただ、今すぐには無理そうね」
僕たちは同時に、あの階段を思い出した。
古代のような文字。
謎の装置。
突然響いた声。
『運命の修正を開始します』
「……あれ、何だったんだろう」
「分からないわ」
「僕も」
しばらく二人で考えた。
けれど、答えは出ない。
「とりあえず」
クラリス様が言った。
「今日はそれぞれの家に帰りましょう」
「…………」
「何?」
「いや」
僕は顔を引きつらせた。
「僕、今日からクラリス様の家に帰るんだよね」
「そうね」
「……無理じゃない?」
「私もあなたの家に帰るのだけれど」
「…………」
お互いに顔を見合わせる。
「…………頑張ろう」
「ええ」
このとき僕たちはまだ知らなかった。
授業よりも。
身体交換よりも。
これから始まる相手の家での生活のほうが、はるかに大変だということを。
◆
放課後。
校門の前で、僕たちは再び別れた。
「じゃあ、明日」
「ええ。明日、ここで」
「何かあったら?」
「明日、報告しましょう」
「分かった」
僕はクラリス様の身体のまま、迎えの馬車へ向かった。
そしてクラリス様は――。
僕の家へ向かって歩き出した。
「…………」
僕は馬車に乗り込む。
窓から外を見る。
僕の身体に入ったクラリス様が、どんどん小さくなっていく。
僕は思った。
――大丈夫かな。
そして同時に。
自分のことも心配になった。
僕は今日から。
公爵令嬢クラリス・フォン・ヴァレンティアとして。
生きなければならない。
「…………胃が痛い」
こうして。
僕たちの入れ替わり生活、初日は終わった。




