第1話 僕、悪役令嬢になる
僕の名前は、レイ。
アルディア王国の王立アストリア学園に通う、十七歳の平民だ。
成績は普通。
運動も普通。
顔も……たぶん普通。
魔法は使えない。
家では両親が小さな商売を営んでいて、僕も暇なときには手伝っている。
つまり、どこにでもいる普通の学生。
少なくとも――この日までは。
「レイ、今日の放課後、店を手伝ってくれる?」
朝、母さんにそう言われて、僕はパンをかじりながら頷いた。
「うん。今日は早く帰れると思う」
「助かるわ。最近ちょっと忙しくてね」
「わかった」
平和だ。
実に平和。
僕はこういう毎日が好きだった。
大きな事件なんていらない。
英雄にもなりたくない。
王様にもなりたくない。
ましてや――貴族なんて絶対にごめんだ。
僕は普通に学校へ行って、普通に勉強して、普通に家の手伝いをして。
そのうち普通に働いて。
普通に結婚して。
普通に生きていければ、それでいい。
そう。
僕は、平穏が好きなのだ。
だから、この日の昼休み。
校舎中央の大階段を歩いていた僕は、まさか自分の人生が一瞬でひっくり返るなんて思ってもいなかった。
「……あれ?」
階段の踊り場に、見慣れないものがあった。
石造りの床。
古びた壁。
その中央に、薄く光っている円形の紋様。
「なんだ、これ?」
僕は足を止めた。
魔法陣……?
いや。
僕には魔法の知識なんてほとんどないけど、普通の魔法陣とは明らかに違う。
円の中には、見たことのない文字。
その中心には、奇妙な装置のようなものが埋め込まれている。
「こんなの、昨日まであったっけ……?」
そのときだった。
「そこに何をしているの?」
背後から声がした。
振り返る。
長い銀髪。
整った顔立ち。
背筋の伸びた立ち姿。
見るからに高貴な少女。
そして僕は、その顔を知っていた。
「………クラリス・フォン・ヴァレンティア⋯様」
思わず名前が口から出た。
少女の眉がわずかに動く。
「……私を知っているの?」
「え?」
まあ、当然だ。
僕たちは同じ学園に通っている。
公爵令嬢であるクラリスの顔くらい、僕だって知っている。
でも。
僕が彼女を知っている理由は、それだけじゃない。
前世。
日本にいた頃。
僕のオタクな姉ちゃんに無理やり付き合わされて遊んだゲーム。
『王宮恋愛クロニクル』
そのゲームに登場する悪役令嬢。
それが――クラリスだった。
高慢。
冷たい。
主人公フェルミナを敵視し、攻略対象たちとの仲を邪魔する。
そして最後には。
――死ぬ。
「……なんで」
僕は思わず呟いた。
「ん?」
「いや……なんでもないです」
そうだ。
ゲームのクラリスは、物語の中では悪役だった。
だけど。
今、目の前にいる彼女は。
僕が知っているゲームのキャラクターとは、少し違って見えた。
冷たいというより、警戒している。
高慢というより、隙がない。
そして――。
「あなたこそ、なぜこんな場所に?」
彼女が尋ねてくる。
「いや、なんか光ってるから……」
「光っている?」
「ほら、これ」
僕が指差した瞬間。
クラリスが一歩近づいた。
「……確かに妙ね」
彼女が装置を覗き込む。
僕も横から見る。
その瞬間だった。
――カチッ。
「え?」
小さな音がした。
次の瞬間。
床の紋様が、まばゆい光を放った。
「なっ――」
「何!?」
僕とクラリスの声が重なる。
光が一気に膨れ上がった。
目の前が真っ白になる。
身体が浮いたような感覚。
耳鳴り。
そして――。
頭の中に、誰かの声が響いた。
『――を――修正します――!』
「は?」
僕は思わず叫んだ。
「いや、何それ!?」
クラリスも叫ぶ。
「ちょっと待ちなさい! 何を修正するというの!?」
僕たちの声は、白い光の中に消えていった。
そして――。
◆
「……ん」
目を開けた。
白い天井。
「ここ……?」
身体を起こす。
見覚えのないベッド。
薬品の匂い。
「医務室……?」
どうやら学園の医務室らしい。
僕は頭を押さえた。
何が起きた?
階段。
光。
変な声。
そして――。
「クラリス……?」
隣を見る。
そこには、一人の少年が座っていた。
黒髪。
僕と同じ制服。
そして――。
見慣れた顔。
「…………え?」
僕は固まった。
その顔は、毎朝鏡で見ている。
寝癖がついていれば自分で分かるし、顔色が悪ければ自分で気づく。
見間違えるはずがない。
――僕の顔だ。
「……僕?」
僕の顔をした少年が、ものすごく不機嫌そうにこちらを見ていた。
いや。
正確には。
僕の身体に入ったクラリスが、僕の顔で僕を睨んでいた。
「……あなた」
「え?」
「私の身体を返して」
「…………」
僕は固まった。
「私の身体を返して」
「いや、ちょっと待って」
僕は自分の身体を見る。
細い。
白い。
長い銀髪が肩から落ちている。
見覚えのある制服。
そして――。
胸元。
「…………」
嫌な予感がした。
僕はベッドから降りる。
医務室の鏡を見る。
「…………」
そこに映っていたのは。
銀色の長い髪。
整った顔。
青い瞳。
見覚えのある――。
「クラリス……」
僕の口から出た声は。
僕のものではなかった。
「…………うそ」
鏡の中の少女が、青ざめている。
その少女の顔を、僕は知っている。
ゲームの中で何度も見た。
そして――。
目の前の少年。
僕の身体に入ったクラリスが、冷静に言った。
「そういうこと」
「いやいやいやいや!」
僕は鏡に向かって叫んだ。
「待って! なんで!? なんで僕がクラリスになってるの!?」
「それは私が聞きたいわ」
「僕だって聞きたいよ!」
「なら叫ばないで」
「叫ぶよ!」
僕は頭を抱えた。
いや。
頭を抱えたかった。
でも長い髪が邪魔だった。
「なんで……」
震える声が漏れる。
そして、ふと気づいた。
僕の隣にいる少年。
僕の身体に入ったクラリス。
その顔は僕自身なのに、表情だけは完全にクラリスだった。
「……これって⋯⋯?」
「ええ」
クラリスは僕の身体を見下ろし、眉間に皺を寄せた。
「どうやら私たち――」
「うん」
「――入れ替わったみたいね」
「…………」
僕は鏡を見る。
そこには、悪役令嬢クラリス・フォン・ヴァレンティアがいた。
僕の人生は。
この瞬間。
平穏から、盛大に脱線した。
「……胃が痛い」
僕の新しい人生は。
どうやら胃薬が必要らしい。
――そして僕はまだ知らなかった。
この身体交換が。
僕とクラリスの人生だけじゃなく。
王太子アルフレッド。
そして、ゲームのヒロイン・フェルミナ。
さらには、この世界そのものの運命まで変えてしまうことを。




