御人形様の里 (2)
心の中でふうと溜息をつき、私は祖母の手を借りて御人形様を車椅子に乗せた。いくら人形とはいえ、大人サイズともなれば相当な重さがある。
おじいちゃんがいた頃ならまだしも、最近はおばあちゃん一人でこれをやっていたなんて……本当に大丈夫だったんだろうか。なんだか胸が痛んだ。
車椅子を押して村の方へ向かうと、同じ時間帯に散歩の規則がある住民たちが、申し訳程度に舗装された道を歩いているのが見えた。
山あいの村がどこもそうであるように、この村も住民のほとんどが高齢者だった。
御人形様と一生共に暮らさなければならないという特殊な環境のせいで、新しい人の流入はほとんどなく、家族のようなコミュニティが形成されていた。
幼い頃に可愛がってくれた近所の方々と挨拶を交わし、肌を刺すような冬の風に耐えながら散歩を終えて戻ってきた。再び祖母を手伝って御人形様を離れに戻し、母屋へと帰る。
「雪奈、本当にここで一人でやっていけるかい? さっき見た通り、御人形様を誠心誠意お世話しなきゃならないんだよ」
「心配しないで、おばあちゃん。おばあちゃんほど慣れてはいないけど、精一杯頑張るから」
家に帰ってソファに座るなり、祖母が不安そうに尋ねてきた。正直に言えばかなり面倒な仕事だが、毎日ではなく週に三回だけのことではないか。
食後の運動だと思えば大きな問題にはならないだろう。
私の答えに祖母は依然として心配そうな表情を浮かべていたが、おじいちゃんの看病には都会の方がいいという私の説得に、最後には渋々と頷いた。
寝るのが早い祖母に合わせて話を切り上げた私は、用意してもらった部屋に入り、ソファにどさりと横たわった。
「ふう、長い一日だった……」
自分で決心してここまで来たものの、我ながら少し性急すぎたのではないかという気もした。後悔しているわけではないが、自分の行動がどこか可笑しく感じられたのだ。
何はともあれ、都会を離れて田舎に来たのは正解だった。雪が降り出しそうな冷たい夜の空気も、古い家屋特有の安らぎも、都会の生活に疲れ果てた私の心を優しく包み込んでくれた。
この家で御人形様の世話をしながら適当に生きていく。これ以上の幸せなんて、そうそうないだろう。
「よし、これから頑張って生きていこう」
気分良く新たな決心を終えた私は、立ち上がって浴室へ向かった。田舎の朝は早い。私も早めに眠りにつかなければならないのだから。
***
祖父母の提案に従って、愛媛県隠見村へ移住してから約一週間が過ぎた。
最初の一週間は祖父母が一緒に過ごしながら、村で守るべき規則や伝承などを細かく教えてくれた。
まあ……細かくと口では言ったものの、実は内容自体はそれほど多くなかった。
規則といってもほとんどが御人形様に関することだし、問題が起きた時は村の駐在所にいる巡査に頼めば解決してくれる、という程度だ。
その巡査は私より数歳年上で、半年ほど前にここへ赴任してきたのだとか。
私としては、祖父母にこれほど長く付き添ってもらう必要は全くなかったのだが、二人と時間を共にすること自体が楽しく、別れには名残惜しさが残った。
そう、今日は祖父母が松山市内へ向かう日であり、私にとって田舎での本当の『初夜』といっても過言ではなかった。
朝早く二人を迎えに来た両親と挨拶を交わし、「本当に大丈夫なの?」という母と祖母の質問を十二回ほど聞いてようやく、私は家に戻ることができた。
雲一つない空は澄み渡り、それでいて冷え冷えとしていた。
「ふう……おじいちゃんとおばあちゃんがいなくなると、家がすごく広く感じるな」
もともと五十坪ほどある小さくない家だったが、一人になるとさらに大きく感じられた。
それでも祖父母がたまに様子を見に来ると言っていたので、二人の部屋はそのまま残してある。寂しさはそれほど感じなかった。
むしろ、二人の温もりが残った家をそのまま譲り受けられてラッキーだなんて思ったら、世俗的すぎると言われてしまうだろうか。
「知ったことか。仕事を始めよう」
背伸びを一つした私は、習慣的にスマホに保存したメモを開いた。この一週間、祖母が何度も何度も説明してくれた『規則』を、聞き飽きた私が先回りして書き留めておいたものだ。
1.毎日『御人形様』の部屋を掃除すること。床拭きは二、三日に一度でも良い。
2.『御人形様』を疎かにせず、礼を尽くすこと。
3.毎週月・水・金曜日の午後八時になったら、『御人形様』を連れて散歩に出ること。
※病に臥せぬ限り、一日たりとも欠かしてはならない。
4.毎朝、御人形様に挨拶をすることを忘れてはならない。
5.御人形様の衣替えは、夏は週三回、冬は週一回行うこと。
6.御人形様は御人形様に過ぎず、それ以外の何物でもない。安易に知ろうとしたり、深く踏み込んではならない……。
「床拭きは昨日やったから……今日はパス。服は週末に着替えさせたから大丈夫。挨拶も済んだし、あとは掃除だけね」
メモを見るたびに、こんな不気味な規則を守らなきゃいけないのかという思いがよぎる。
だが同時に、大した手間でもないのに守らない理由もない。そう考えながら、私は上着を羽織って離れへと向かった。
母屋とは違い、離れは暖房が効かないため非常に寒いのだ。
離れの扉を開けると、いつものようにソファに腰掛けた御人形様と、クローゼット以外に家具のない殺風景な部屋が私を迎えた。
ふかふかのソファに座って前を見つめている御人形様は、昨日私が置いたそのままの場所で、おとなしく私を待っていた。
「御人形様、お掃除を始めますね。少しだけ……よいしょ。ここにいていただけますか?」




