御人形様 (1)
手を伸ばせば届きそうな至近距離から聞こえてきた、明るく高い怪物の声に背筋が凍りついた。首を回して怪物がどこにいるのか確認しなければならない。けれど、恐怖で喉が引き攣り、うまく動かなかった。聞こえてくる声に、ねっとりとした笑いを含んだ響きが混じる。
『見ーつーけーた。見つけたよ、可愛いお嬢さん。おや、隣にはお友達がいるんだね。獲物が二つに増えたよ。楽しいなぁ、嬉しいなぁ。やっぱりうちのお嬢さんは、本当に……』
うなじに怪物の息が触れたような錯覚に陥り、思わずジンの首にしがみついた。何がそんなに楽しいのか、ニヤニヤと言葉を続けていた怪物は、何かを察したように言葉を切ると、今度はわざとらしいほど威圧的な声で怒鳴り始めた。
『楽しいかくれんぼに、食べられもしない人形を連れてくるなんて。悪い子だねぇ』
――悪い子は、お仕置きをしなきゃ。
――腕を出しなさい。足でもいいよ。
怪物が一言発するたびに、数多くの見知らぬ声が混じり合って聞こえてくる。
(かくれんぼですって……)
あいつには、この逃走劇が遊びにでも見えているのか? 質の悪い怪物だとは思っていたけれど、それ以上に救いようのない存在らしい。斬新な世迷い言を聞かされているうちに、かえって冷静さを取り戻すことができた。どうすればあの怪物を撒いて逃げられるかしら。
ジンから離れた瞬間に、死に物狂いで走ってみる? いや、前方には怪物が立ち塞がっているし、引き返したところで空洞があるだけだ。走ることに意味はない。だとしたら、このまま食われるのを待つしかないの?
(そんなの、御免よ)
心中する羽目になったとしても、一人で死ぬつもりはない。そのためには、何でも試してみるべきだ。幸い、あの忌々しい怪物は私との「かくれんぼ」を楽しんでいるらしい。いいわ。腕でも足でも、必要なら差し出してあげる。その代わり、私は何が何でもあんたの首を獲ってやる。
恐怖に折れそうな心を怒りで奮い立たせ、私は顔を上げて怪物を見据えた。洞窟の中にぎっしりと詰まった白い毛の怪物は、以前と変わらぬ奇怪な笑みを浮かべたまま、こちらを注視していた。おじいさんの体は置いてきたのか、姿は見当たらない。
『さあ、おいで。鬼のところへおいで』
――終わりのないかくれんぼをしよう。
――永遠に一緒にいよう。
怪物の言葉を無視し、私はジンへと視線を向けた。光を吸い込むような黒い瞳の奥に、私の姿が微かに映り込んでいた。
「……ジン。今、ふざけてる場合じゃないの。下ろして」
「……」
「ジン。私の声、聞こえてて無視してるの? それとも聞きたくないから無視してるの? 下ろして……うぐっ?!」
私がジンから降りようと肩を軽く押すと、彼の眉がピクリと上がったような気がした。確かめる間もなく視界が塞がれたからだ。一瞬、何が起きたのか分からず目を見開いた。ワンテンポ遅れて、彼が私の頭を自分の肩に押し付けたのだと気づき、眉をひそめた。
「ちょっと、ジン、あなた……」
『お嬢さん、かくれんぼを忘れたのかい? 今は人形遊びをしている時じゃないんだよ』
言葉を無視されたのが癪に障ったのか、先ほどとは打って変わり、本当に怒っているような声が聞こえてきた。空気の読めない怪物め。今、怒る権利があるのは自分だと思っているの?
(この状況で一番腹を立てて、イライラしてるのは私の方なのよ!)
ただでさえ頭にきているのに、不快な声を聞かされて余計に火がついた。私は拳を振り上げ、ジンの肩を少し強く叩いた。
「遊びじゃないって言ってるでしょ! あんな不細工な怪物に殺されるなんて真っ平らだから、今すぐ下ろ……」
――ドォォォォン!!!
「言うことを聞いて」とジンに叫ぶと同時に、ジンの手が私の頭から離れた。しかし、私の訴えは鼓膜を裂くような轟音にかき消され、自分の耳にさえ届かなかった。
反射的に耳を塞いでいたが、ジンが歩を進めるのが振動を通して伝わってきた。軽やかに進んでいたジンが、得体の知れない場所で立ち止まる。そして、重たい何かが硬いものにぶつかって弾けるような……おぞましい音が何度も続いた。
体に伝わる微かな反動を考えれば、ジンが何かをしているのは間違いなかったが……。
(何なの……?)
顔を上げなければならないと分かっていても、塞いだ耳の隙間から漏れ聞こえる音が恐ろしくて顔を上げられなかった。暗闇の中で意味の分からない行動が続いて、どれくらい経っただろうか。反動が消え、静寂があたりに降りた。そこでようやく、私は恐る恐る顔を上げ、先ほどまで振動が続いていた場所を見つめた。
「な、何よ……これ……」
思わず漏れそうになった罵倒の言葉を、喉の奥で飲み込んだ。鼻をつく腐った血の臭いがあまりに強烈だった。光量の乏しいライトの先に映る洞窟の壁は、真っ赤に染まっていた。赤黒い岩壁のあちこちに張り付いている、白い毛の混じった塊……あれ、まさか肉片なの?
せっかく視界が開けたというのに、二の腕に刺さった石ころに匹敵するほどグロテスクな光景を目の当たりにし、思わず目を強く瞑った。何なのよ? 一体何が起きたっていうの?
(体に感じていた振動……まさか……)
震えるまぶたを持ち上げた私は、なかなか動かない視線を無理やり下ろし、数分前まで私の頭を抑えていたはずの彼の左手を見た。
彼の大きな手には、片手では持ちきれないほど大きな「何か」が握られていた。黒く染まった鬣の間に、時折キラリと光る白銀の毛。見えているのが頭頂部で本当に良かった。顔面がそのまま見えていたら、間違いなく吐いていただろう。
「ジン、ジン。あなた今、何、何をしたの? いや……どうやって……」
何か言わなければならない気がするのに、何と言えばいいのか分からない。からからに乾いた口から出るのは、文章にならない単語の羅列だけだった。
落ち着け。落ち着くのよ、雪奈。今すべきことは何? まず私がすべきなのは……。
「ねぇ、ジン。とりあえず……とりあえず下ろして。自分の足で歩けるから。お願い」
正直なところ、壁だけでなく床まで怪物の血にまみれた状況で、地面に足をつけたくはなかった。けれど、このまま彼の腕に抱かれているのも気味が悪くて耐えられなかった。私の願いに、彼はゆっくりと瞬きをすると、固く固定されていた腕を緩めた。いや、緩めようとした瞬間だった。
「雪奈さん! 大丈夫……」
見知らぬ、けれど私にとっては聞き覚えのある声が聞こえた途端、彼の腕に再び強い力がこもった。声より少し遅れて、人の影が闇の向こうから歩み寄り、そして立ち止まった。
(あ。)
そういえば、正木刑事に助けてほしいと電話をかけていたんだった。衝撃的な出来事が立て続けに起きるせいで、少し前の出来事の記憶が薄れかけてしまっている。
「これは……一体……」




